紅王子と侍女姫  105

 

 

瑠璃宮から東宮執務室に戻ったギルバードは、レオンに解毒剤を飲んだ後のディアナの状態を伝え、一週間以内にアラントルにディアナを送り届けるから、そのための日数を確保しろと告げた。出来る範囲でいいから政務を調整し、アラントルでの滞在時間を出来るだけ稼げるようにしろと言い置き、これからディアナの現状報告とアラントルに滞在する許可をもらいに王宮に足を向けようとした。

しかし顔をを手で覆い隠したレオンが、呆れたような視線でギルバードに待ったをかける。

 

「殿下、ディアナ嬢のことは分かりました。ですが、少しだけお待ち下さい」 

「何だ、レオン。俺は王にアラントル滞在の許可をもらい行くだけだ。まあ、色々嫌味を言われて甚振られるだろうが、すぐに戻るから、話はそれからでも良くないか?」 

「その許可を快く頂くためにも、ここで殿下の科白をまとめておく必要があります。殿下は思い込みで走り出すことが多いと御自覚されておりますか? 国王には言葉で敵わないと御承知ですか?」

 

レオンの言うことがいちいち尤もで、流石にこのまま王の許へ直行するのは不味いと、ギルバードも納得する。不精不精にソファに腰掛け、口が巧いレオンを見上げると、何を言うつもりだったか言えと眇めた目に促された。

 

「・・・ディアナの記憶が解毒剤の副作用で一部分消えてしまった。エルドイドの王城に来ていると知り驚いていたが、カリーナからの説明で魔法を解くために来たことは納得してくれた。ただ、用事が済んだのなら、早くアラントルに帰りたいと言っている。今は俺のことを忘れているが、もしかして記憶が戻るかも知れないから、しばらくの間はディアナの傍にいたい。・・・そう伝えようと思っているが」

ギルバードがなかなか上手くまとまっているじゃないかと腕を組み頷いていると、視界の端に演技かかった動作でふら付いたレオンが、執務机に縋り付きながら額を覆うのが見えた。

何かおかしなことを言ったかと顔を顰めると、レオンが大袈裟なほどの溜息を吐き、真正面から見据えてくる。何を言われるだろうと顎を引くと、レオンは眉尻を下げた。

 

「まず政務に関してですが、急ぎの案件はありません。アラントルに滞在する日数もある程度は調整出来ます。ですがディアナ嬢がアラントルに戻ることを望まれているということは、繋がっていた魔法を解いたのだから、もう王城に用はない。そういうことですよね?」 

「そう、だ」 

「殿下のことはすっかり忘れている。記憶の端にも片隅にもない。記憶の中から綺麗さっぱり削除されている。そういう状態なのですね?」 

「・・・そうだ」 

「そんなディアナ嬢にくっ付いてアラントルまで付き添い、そのまま滞在するつもりだと、殿下はそうおっしゃるのですね?」 

「・・・その、つもりだが」 

「それはあんまりにも酷い! ディアナ嬢が御可哀想です」

 

レオンに言い負かされないようにと身構えていたが、ディアナが可哀想だと言われて激しく眉が寄る。

どこが酷くて、何が可哀想なのか。ギルバードは記憶を失ったディアナに、少しでも早く自分のことを思い出してもらえるよう時間が欲しいだけだ。アラントルに戻りたいと言っているなら、戻ってディアナが穏やかに過ごせると言うなら、その願いを叶えてあげたい。

どこでもいいのだ。ディアナの傍にいられるなら。

傍にいて少しでもディアナと触れ合えるなら、出来る限り努力したい。アラントルに戻って穏やかに過ごす内に、もしかしてギルバードのことを思い出すかも知れない。思い出すことがなくても触れ合っている内に、再び恋に落ちてくれるかも知れない。

そんな可能性にかけているのだ。それを酷いとか、可哀想だとか言われては眉も寄るだろう。レオンの言いたいことが分からずに睨み付けていると、肩を竦められた。

 

「いいですか、殿下。ディアナ嬢は魔法をかけられていたと説明を受けた。しかし驚く間もなく、それが知らぬ間に解けていたと知った。よく解からないが、用件は済んだのだからアラントル領地に帰りたいと申し出ておられる。大筋は間違いないですか?」 

「ああ、その通りだ。しつこいぞ」 

「ディアナ嬢はアラントルで過ごした日常のみを覚えており、殿下のことは覚えておられない」 

「そうだと言っている」 

「侍女として過ごしていたはずの自分が、目が覚めれば見知らぬ場所。それもエルドイド国の王城だ。魔法といわれても理解しがたく、それでもどうにか納得した。そんな馬鹿なと憤ることなく、ディアナ嬢は受けた説明を飲み込んだことでしょうね。殿下もそう思われますよね?」 

「・・・そう、だろうとは・・・俺も思うが」

「そうなんですよ。ディアナ嬢はそういう御気性でしょう? しかしこれでアラントルに戻れるのだ。何だか解からない内に何かが始まり、そして終えたことは置いておいて、実家に戻ったら掃除や料理に励もう。そう思っていらっしゃるかも知れませんよね」 

「そう・・・だろう、な」 

「自分らしい日常を取り戻し、家族の許でのんびり過ごそう。そう考えているのに、王城からアラントルまで王子がべったりと着いて来る。俺たちは恋人同士なんだよ、結婚の約束をしたんだよ、だから一緒にいるべきだよと繰り返し言い募る。・・・侍女として過ごしていた記憶しかないディアナ嬢に大国の王太子が付き纏う。それはどれだけディアナ嬢の心労になるか、御理解出来ますか?」 

「・・・だ、・・・そ」

 

レオンから告げられる衝撃の内容にギルバードは言葉を失った。失った言葉を追うように視線が彷徨い、ゆっくりと膝上に落ち、ギルバードは自分の手を見た。その手が揺れて見えるのはどうしてだろうと、ぼんやりしてしまう。

ローヴから説明された時は確かに考えたことだ。自分なら即座に理解など出来る訳がないと。

だけどそれは魔法に関することであって、失ってしまった二人の愛の記憶を埋めようとするのは別だと思っていた。それがディアナの心労になると聞かされ、ギルバードの思考は完全に停止した。

 

「殿下のお気持ちもわかりますが、まずはディアナ嬢が心身ともに安静を図り、穏やかな日常を取り戻す方が先です。それから折を見て、殿下が登場した方が良いでしょう。リグニス領主に今回の件を詳細に報告し、これから何度か訪れると知らせておく。焦らずに時間を掛けて、ディアナ嬢と親密になり、そして改めて好きだと告げるのが最上の策と存じますが」

 

膝上に置かれた手を見つめながら、レオンの言葉を聞く。しばらくの間はディアナに会わない方がいいと言われていると理解するまで時間が掛かり、顔を上げるとレオンが眉尻を下げていた。 

――――そうか、と思う。 

レオンの言う通りにするのが一番なのか、と。 

記憶がないと言われて戸惑うばかりのディアナに王太子である自分が付き添うことは、緊張を強いることになるのかと理解する。納得は出来ないが、・・・無理やり、どうにか理解した。 

侍女として過ごしてきたディアナに王城での記憶がないとなれば、王子である自分が傍にいる、送っていく、好きだと言われては緊張も戸惑いも大きいだろう。 

今のディアナに何を言っても通じない。解かってもらえない。だったら一からやり直せ。

 

「レオン、俺はディアナに好きだと告げてきた。それを撤回するつもりはないが、・・・勇み足だったことは認める。悪いがリグニス領主に出す手紙の内容を、大まかでいいから箇条書きしておいてくれ。レオンの見解を書き添えてくれたら助かる。俺は王に報告に行く」 

「御意。・・・殿下、諦める気はないのでしょう?」 

「もちろん諦めるつもりなどない。・・・だから足掻くだけだ」

 

無理やり笑みを作ると、レオンが鼻で笑う。そんな笑い方はギルバードに似合わないから止めておけと。泣きたきゃ泣いてもいいが、胸は貸さないぞと笑うから、手を振って断った。

 

「ディアナが生きて元気にしている。怯えていた悪夢から解放されて、切られた髪も元の長さになった。接点など、これからいくらでも作るさ。俺が望む妃はディアナだけだ。それにディアナが妃になるのを瑠璃宮の魔法導師たちも望んでいる。もし俺がディアナを諦めようものなら、真っ先にカリーナから罵声を浴びせられた上、杖でぶん殴られるぞ」 

「それでこそ殿下です。打たれ強く育ったのは国王陛下の賜物ですね。それとディアナ嬢の立場を明確にしなかったことは僥倖と言わざるを得ないでしょう。東宮に滞在していた彼女は注目を集めていましたから、いなくなれば余計な詮索から遠ざけることが出来ます。また妃推挙の話が持ち上がるでしょうが、それは上手い対策を考えましょう。殿下がディアナ嬢を諦めないとおっしゃるのならば」

 

満面の笑みを浮かべるレオンに、ギルバードは思い切り顔を顰めて見せた。 

ディアナを諦めるという選択は、ほんの僅かな欠片もギルバードの中にない。

どうしてこんなにもディアナだけを求めているのかギルバード自身にもわからない。だが好きになったのだから仕方がない。キスしたいと思うのも、抱き締めたいと思うのもディアナだけで、他の誰かを欲しいとは思わない。結婚したいと告げた時、最初は信じてもらえず悔しかった。何度も繰り返し訴え、やっと受け入れてもらえた時は天にも昇る気分になった。 

己の立場を鑑みて、自分の婚姻は国の発展のためにあると長いこと信じていたのに、親である王は王子の深慮を呆気なく蹴り飛ばす。好きな相手のために尽力して結果を出し、周囲に認めさせればいいだけだと腕を組み傲然と言い切った。その少し前に、瑠璃宮を巻き込んだ騒動の末に母親の心を射止めたと聞かされたギルバードは、王からの台詞に目からウロコの茫然自失となったことを思い出す。 

それでも自分が結婚するのは、どこぞの息女か王女になるのだろうと思っていた。恋愛の何たるかも知らず、だが特に問題も覚えずに結婚すると、そう思っていた。 

ディアナと出会い、恋に落ちるまでは。

 

 

 

「解毒剤により幻覚などの症状は消えましたが、ディアナは王城に来ることになった経緯も、幾度も攫われたことも、毒を飲まされたことも含めて、すべての記憶を失っております」 

「そうか、それは大儀だな。このまま王城で記憶の回復を待つのか?」 

「いえ、ディアナの精神的疲労を癒すため、そしてディアナの望み通り、アラントル領に戻る旨を了承しました。万が一を考え、私と双子騎士が警護に就き、アラントル領地まで送って行く予定です」

 

今はそれが最善策だと納得した。王が呆れたように目を丸くして見つめて来るが、低頭してやり過ごす。宰相が「馬車の用意などはお任せ下さい」と言うのに笑みを返し、ギルバードは王に向き直った。

 

「失った記憶が戻るまで、無理をさせるつもりはありません。しかしディアナを王太子妃にすることを諦めた訳ではありません。多少時間は掛かるでしょうが、折を見てアラントルのディアナを訪ね、再びその気になってもらえるよう、私なりに努力しようと思っております」 

ジワリと熱くなる頬を擦り、ギルバードは言い募る。 

「今のディアナに記憶がない過去を言い聞かせても負担になるばかりでしょう。もう一度、こ、こ、こ、恋してもらえるよう、誠心誠意努めたいと、そのための時間を頂きたいと乞いに来ました。ご了承頂けますでしょうか。・・・いえ、了承して頂きます!」 

肩を揺らす王と宰相を前に、こうなるだろうことは想像出来ていた。それでも強張りそうな顔を意地でも変えずに、さっさと諾の返答をしろと王の顔を強く見据えた。

 

「そう睨むな、ギルバード。・・・愛しい姫を何度も攫われた王子は、諸悪の根源たるバールベイジ国の王女を捕らえることには成功したが、姫は記憶を失い、婚約者としての発表も出来ず仕舞いだ。王子がしたのはディアナ嬢を翻弄するだけ翻弄して、結果アラントルに送り返すことだけか。・・・ギルバード。本当にお前は、哀れだなぁ」 

優雅に足を組み替える王は笑いを堪えているのだろう。肩が小刻みに震えている。哀れと言われて項垂れそうになったが、それも事実だと視線を逸らさぬよう拳を握り、しかしこれだけは言いたいと口を開く。

 

「政務は滞りなく行います。その合間を縫ってアラントルに足を運び、必ずこの想いを成就させるつもりです。今後、私に直接持ち込まれる見合い話は侍従長であるレオンと対策を考え断りますが、王側へ持ち込まれる話は王側で断って頂きたい・・・とお願いします」 

「面倒だな」 

王の楽しそうな口調が憎らしい。宰相も肩を揺らしたまま、王を諫めることはない。

 

「王が黙っていると、次から次へと見合い話が舞い込みます。国内貴族なら私も押さえ込むことが出来ましょうが、他国から持ち込まれる話は私個人では断り難く、ですから・・・」 

「国王、殿下のおっしゃることも尤もです。他国から持ち込まれる見合い話は後を絶たず、しかし殿下が断ることは難しいでしょう。ギルバード殿下、この話は私が上手く対処致しますので御安心下さい」 

宰相の穏やかな笑みを目に、ギルバードは肩から力を抜いた。王は面白くなさそうに口を尖らせたが、宰相の言を遮ることはしなかった。 

「政務が滞らないようにレオンを上手く使い、ディアナ嬢の記憶が戻るよう努めることに私は賛成です。ギルバード殿下、頑張って下さいね」 

「あ・・・ありがとう!」 

宰相からの言葉に、ぐっと背筋に力を入れて深く御辞儀する。 

ディアナには心穏やかに過ごしてもらいたい。アラントルでのびのびと、気負うことなく彼女らしく過ごしてもらいたい。そこにほんの少しでも自分が立ち入れる時間が欲しい。僅かでいい、顔を合わせて笑んでくれる機会が欲しい。 

自分でも笑ってしまうほど小さな望みだと思う。 

ディアナの記憶から自分がきれいに消えてしまった今、言葉が足りない不甲斐ない自分が、どうやって彼女の心を掴むことが出来るだろうか。猪突猛進とレオンに揶揄される自分だ。繊細で優しいディアナの心を、力づくで振り向かせることはしたくない。 

では、どうするか――――。

 

「・・・頭が割れそうだ」

 

執務室に戻って思わず呟けば、レオンが「おや、医師を呼びますか」と笑う。手を払って断るが、元よりレオンにその気がないことは分かっている。椅子に身体を投げ出すと、王は何と言っていたか話せと促してきた。

 

「やることさえやれば問題ないと、宰相が太鼓判を押してくれた。他国からの妃推挙も上手く立ち回ってくれると約束してくれた」 

「それは案外素直に御納得頂けたようで、面白くな・・・よろしかったですね」 

「おい」 

「リグニス領主に出す手紙の概要がこちらです。今日中に早馬で届けた方が良いでしょう。ディアナ嬢の荷物をまとめる手伝いはどなたに頼みます? そんなに荷物はありませんでしょうが、帰省の土産を用意した方がいいでしょう。王都から商人を呼びましょうか?」 

「・・・手紙はこれでいい。あとは俺が清書する。荷物は本人がまとめた方がいいだろう。土産は・・・そうだな、明日にでも双子と共に王都に行ってディアナ自らが選ぶというのはどうだ? 気分転換にもなるだろうし、ささやかだが思い出にもなるだろう」

 

ほぉっと感嘆の声を上げ、レオンが拍手する。ギルバードが片眉を持ち上げると、満足げな笑みを浮かべたレオンが恭しく頭を下げ、エディたちも喜ぶと言った。 

手紙を書き終えると早馬で届けるよう伝え、三日後にはアラントルへ出立することにする。 

王宮にいると知り緊張しているディアナと会話するのは難しい。ローヴやカリーナとは普通に会話しているようだが、ギルバードには顔を俯け、会話らしい会話ではなかった。魔法は解けているはずだが、ディアナの基本的な性格は変わりなく、やはり王子の自分にはひどく緊張するらしい。

 

 

翌日、瑠璃宮に向かうとディアナが入り口近くのガゼボにいた。 

ギルバードが近付くとすぐに気付き、ドレスの裾を持ち上げて丁寧な挨拶をしてくれる。その所作は落ち着いていて、貴族息女らしい楚々としたものだ。 

「おはよう。よく眠れただろうか」 

「おはよう御座います、ギルバード殿下。はい、よく眠れました」 

少し上擦って聞こえるが、ディアナが柔らかな声を返してくれた。ガゼボへ誘うと躊躇するように左右を見回し、おずおずと足を進める。明るい日差しを遮るガゼボで、ギルバードは努めて優しい声を出した。

 

「三日後、アラントルに送っていく。魔法を解くために王城に来たが、王宮のいざこざに巻き込まれて記憶を失ってしまったと手紙を書き、昨日アラントル領主のジョージ・リグニスに送った。時間があるならディアナが泊まっていた部屋で、荷物の整理をしないか?」 

「あ、ありがとう御座います。・・・先ほどカリーナさんが、私が滞在していた部屋へ案内して下さるとおっしゃって下さりました。殿下は何か他の用事でこちらに来られたのではないのですか?」

「いや、ディアナにアラントル出立の日取りを知らせに来ただけだ。良ければ俺が部屋に案内してもいいだろうか。他にも少し話したいことがある。・・・む、無理なら止めておくが」

「いいえ。よろしくお願い致します」

 

思った以上に柔らかい声が聞こえてくる。身長差があるため、視線を落とすディアナの顔は僅かしか見えないが、昨日よりは緊張していないようだ。ふと顔を上げたディアナがガゼボの柱を見つめ、困ったように眉尻を下げる。見つめすぎて困らせてしまったかと退くと、ディアナが驚いたように顔を上げた。 

大きく見開いた碧の瞳。森の中で見る湖面のような透き通る瞳から目が離せない。絹糸に似た睫毛が上下するのを見つめていると、慌てたように顔を伏せられてしまった。

 

「あっ、な、何か、気になることでも?」 

「い、いえ。あの・・・このガゼボが・・・どうしてか気になってしまい、ぼうっとしてしまいました。殿下の御前で申し訳御座いません」 

言いながら気もそぞろにガゼボを見上げるディアナを前に、ギルバードの息が止まる。

ここはディアナにキスした場所だと思い出すと同時に、それを記憶の片隅に浮かび上がらせてくれたことに胸がざわめいた。自覚出来るほど頬が紅潮し、呼吸が乱れる。謝罪するディアナに何か言わなければと焦るばかりで、みっともないほど動揺してしまう。 

「殿下? お顔が赤いです」 

ああっ、その台詞も懐かしい。

勢いよく腕を持ち上げ赤く染まった顔を隠すが、もっと声が聞きたいと退いた身体が知らず前に出たようだ。上半身と下半身のバランスが崩れ、前のめりになる身体を制御出来ずに慌てて腕を伸ばす。柱を掴もうとしたギルバードが掴んだのは柱と違い、柔らかな感触のものだ。 

転ぶことはなかったが、柔らかなものを掴んだまま前のめりにガゼボの椅子に倒れ込む。目を開けるとそこには青い絹タフタに銀糸で植物模様が刺繍されたドレスがあり、頬に布の感触がした。掴んだものはディアナの腕で、自分の顔はディアナの胸と肩の間に押し付けていると解かった瞬間、全身に火が点けられたように熱くなり、悲鳴を上げてディアナから跳ねるように背後に退いた。そのまま対面の柱に後頭部を打ち付けたようで、文字通り目の前に星が飛んだ。今度はディアナから悲鳴が上がる。

 

「殿下っ! だ、大丈夫で御座いますか? 痛みはっ! お、お医者様を!」 

「・・・大丈夫だ。ちょっとぶつけただけで、痛くないから」 

記憶がないディアナも、やっぱりディアナで、優しい気遣いは変わらない。それが本来の性格ゆえの行動だとしても、ギルバードの知るディアナである限り、ただ嬉しくなる。 

「大丈夫だ、本当に。・・・少しぶつけただけだから」 

オロオロと眉を寄せるディアナに微笑みかけると、心から安心したという息が零れる。その唇に触れたいと思わず手を伸ばしそうになった時、きつい台詞がギルバードの後頭部を揺さぶった。

 

「何をされてますか! まさか、ディアナ嬢を押し倒そうとして」 

「見ればわかるだろう! ただ・・・転んだだけだ」

ディアナの肩越しに見えるのは胡乱な視線を投げつけてくるカリーナで、その背後には肩を揺らすローヴがいた。どこから見ていたんだと頬を染めながら立ち上がると、戸惑いながらディアナもそろそろと腰を上げる。カリーナに睨まれたまま、ギルバードは咳払いした。 

「ディアナが、このガゼボを見て懐かしいと言うから、何か思い出したかと思ったんだ。それで・・・躓いて転んだだけだ。それと、俺がディアナを部屋に案内する」 

「ディアナ嬢に見惚れて転んだ・・・、ではないのですか?」 

ローヴののんびりした、しかし的確な物言いに、頭のてっぺんまで逆上せそうになる。横目でディアナを確認すると、困ったような顔を俯けるところだった。部屋への案内は私がしましょうかとカリーナに問われ、ギルバードは首を横に振る。

 

「ディアナ、滞在していた部屋に案内しよう」 

無意識に肘を突き出すと、ディアナが隣に立つカリーナを窺うように見上げるのが見えた。貴族息女を相手にするときは当たり前の仕草に、今は侍女として過ごしてきた記憶しかないディアナが戸惑っていると解かったギルバードは慌てて腕を引こうとした。 

「・・・っ!」 

そっと差し伸べられた手が、ギルバードの肘を捉える。

その光景を目にして腰に甘いものが奔り、隣に立つディアナを、口を開けて凝視してしまう。 

「ご案内、を、お願い致します。・・・殿下」 

「お、おう・・・」 

頭の中に騎兵隊の進軍ラッパが鳴り響き、色鮮やかな花が一斉に咲き乱れた。どっちの足から踏み出していいのか躊躇していると、背に何かがぶつかる感触がした。振り向くとカリーナが杖で背を突いているのが分かり、ギルバードが目を丸くすると、頭の中にカリーナの甲高い声が響き出す。 

『ディアナ嬢を部屋に案内するだけですよ! くれぐれも不埒な真似はなさいませんように! 抱き締めるのも、ましてやキスなど、言語道断ですからね!』 

「・・・・」 

視線が彷徨いそうになるのを必死に堪えながら頷くと、本当ですね?と視線で問われた。もう一度頷き返し、ディアナに向き直る。強張った顔のディアナに微笑み、ギルバードはゆっくりと歩き出した。

 

  

 

 

 

 

 

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