紅王子と侍女姫  106

 

 

東宮の部屋に案内すると、ギルバードが想像した通り、ディアナは部屋の誂えを目にして驚いた顔で立ち竦んでしまった。それでも見慣れたトランクを目にして大きく息を吐き、ギルバードに案内の礼を告げると、戸惑いながら部屋を見回す。一度アラントルに戻った時、トランク二つを持ち帰っていたから、部屋に残るディアナの私物はトランク一つに入った荷物と最近誂えたドレスだけだ。ディアナがいない間、簡単に掃除をさせただけで何ひとつ動かしてはいない。

だがソファの上に置かれた毛布を前にディアナが首を傾げた。

そして手に取り、考え込むように見つめた後、ディアナは小さく感嘆の声を上げる。 

「ああ、宿の・・・」 

そこでギルバードも思い出す。

ディアナをアラントルから連れ出し泊まった宿で、思いもかけず魔法をかけてしまった。深く眠りに就いたディアナを毛布で包み、そのまま東宮に連れて来ることになったことを。

その時の毛布がそのままディアナの部屋に置かれていたとは初めて知った。

そして、毛布と過去の記憶を結び付けたディアナを見つめる。不思議そうな顔で毛布を触っていたが、何か腑に落ちたのか、ディアナは毛布をソファに置くと踵を返してトランクの中身を確かめ出した。そのまま記憶が戻るかと思ったが、どうやら駄目だったようだ。

そう簡単にはいかないかと口中で呟き、ギルバードは窓の外へと視線を移した。 

秋色に染めはじめた庭園はそれでも緑が多く、高い空との対比が美しい。ディアナがここに来てから本当に色々なことがあったなと感傷的な気分に浸っていると、鼻を擽るいい匂いが漂ってきた。

振り向くとディアナが紅茶を淹れているところで、ギルバードは思わず破顔した。 

「お茶を淹れてくれたのか。・・・久し振りだ。・・・すごく嬉しいよ」 

「・・・・覚えておらず、申し訳御座いません」 

伏せられた睫毛が震えているように見えて、ギルバードは慌てて首を振る。 

「そういう意味で言ったんじゃない! 覚えていないのは解毒剤の副作用によるものだから、ディアナが謝る必要はないんだ。ただ、ディアナがこうしてお茶を俺に淹れてくれることが嬉しくて、だからつい、嬉しいと言葉にしてしまっただけだから気にしないでくれ」

 

碧の瞳が大きく見開き、ギルバードをじっと見つめる。二度瞬きをして、何かに気付いたように視線は逸れてしまったが、それでもギルバードは嬉しかった。こうした時間を繰り返し持ち続ければ、ディアナは思い出すかも知れないし、思い出せなくてもギルバードをもう一度好きになってくれるかも知れない。いや、かも知れないではなく、好きになってもらえるよう努力しなくてはならないのだ。

レオンの言うように、まずはディアナが穏やかな生活を取り戻せるよう、アラントルの親元で過ごすのが一番なのだとギルバードは素直に納得出来た。

 

「ディアナ、アラントルには三日後に出立出来ることになった。荷物は多くないようだが、体調に問題がないようなら、王都に降りて家族への土産を求めに行くのはどうだろうか」 

「・・・土産、ですか? あ・・・、でも」 

「ジョージから先日王城に来る時に持たされた金がある。ディアナに渡す暇がなくて預かっていたが、王宮にいては使う暇もないからな。王都への案内には双子の騎士を就ける。奴らはなんというか、馬鹿みたいに明るい賑やかな奴らだが、案内には最適だ。ディアナは気に入ると思うぞ」 

体調は問題ないとディアナが答えるので、明日出掛けることで話をまとめる。

紅茶を飲み終えたギルバードは、長居してはいけないと立ち上がり、扉を開けようと手を掛けた。 

「あの、・・・ギルバード殿下」 

自分でも笑ってしまうほど素早い動きで振り向くのは仕方がない。ディアナから名を呼ばれたのだ。

後ろ髪を引かれるとはこういうことかと、胸が高鳴る。見るとソファから立ち上がったディアナが何度も目を瞬かせながらドレスの裾を持ち、僅かに腰を沈ませた。 

「い、いろいろお気遣いして頂き、心よりお礼申し上げます。大変お世話になっておりながら、何ひとつ覚えていない私ですが、殿下のお優しいお気持ちに心より感謝を申し上げます」 

「ディアナ・・・」 

「早く思い出せるよう・・・、努めます」

 

紅潮したように見える頬が痛々しく、ギルバードは駆け寄るようにディアナの許へ戻った。

細く白い手を両手で握り、息を詰める。浮かれてばかりいる自分が恥ずかしい。

幻覚に怯えていたディアナが無事に目覚めてくれたのだ。ギルバードを見ても怯えることなく、多少戸惑いを見せるが笑みを浮かべてくれる。今はそれだけで充分だと、自分を戒めた。

 

「早く思い出せなくてもいいから、どうか無理だけはしないでくれ。巻き込まれて酷い目に遭ったのはディアナの方だ。記憶がなくなるなんて、俺なら・・・考えても仕方がないことだが、俺なら気がおかしくなるだろう。いまはアラントルに持ち帰る荷物の整理と、明日出掛けることを楽しみにして欲しい。それだけで・・・今はそれだけで充分だ」 

息を詰めながら握られた手に視線を落とすディアナを、ギルバードは静かに見つめた。出立するまでは姿を見せずにいた方がいいだろう。記憶がない上に、ここは王城だ。穏やかに過ごして欲しいと言っても彼女の性格では無理なことだ。さらに王子から好きだと告白されては、穏やかになど出来るはずもない。

落とされた視線が、いつか真っ直ぐに自分だけを見つめてくれることを今は静かに願い、だが溢れそうな想いが口から零れるのを止めることが出来ない。 

「ディアナ、好きだ。本当に、どうしようもないほど好きだ」 

「で、殿下・・・」 

「今はこの言葉を耳に入れてくれるだけでいい。・・・ゆっくりしてくれ」 

握っていた手に少し力を入れてから、ギルバードはディアナを開放した。廊下に出て、近衛兵の見開かれる目を見て頬を擦る。赤くなっているだろうことを自覚しながら、足早に執務室に向かった。

 

 

 

 

じわりと込み上げてくる感情に混乱し、ディアナは気付けばソファに崩れ落ちるように座り込んでいた。

握られていた手が異常に熱く感じ、同じように頬も熱く感じる。風邪にでも罹ったかと思うほど身体中が熱くて、実際に汗ばんでいるようだ。 

好きだと、また告げられた。それも相手は――――エルドイド国の王太子殿下だ。 

まずは自分の耳を疑い、そして信じられないと何度も首を振る。

誰しもが見惚れるだろう精悍な顔立ち、立派な体躯の王太子殿下が、どうして私などを好きだと言うのだろう。どこかで会ったことがあったのだろうか。覚えがない。ある訳がない。アラントルの自城で侍女として働く自分と王子に接点など有る筈がない。 

瑠璃宮といわれる場所で魔法導師のカリーナから王城に来た経緯を教えられたが、いくら思い出そうとしても、王子に好きだと告げられる要因が自分に見当たらない。王城に来てから、王子と私の間にいったい何があったというのか。

幼い頃、王城で王子と会い魔法にかけられたそうだが、それすらも記憶にない。魔法を解いてから国王陛下主催の舞踏会に参加したとか、妃推挙に巻き込まれて攫われたとか、毒を飲んだと聞かされても、ただ戸惑うばかりだ。記憶にない分、いくら聞かされてもすべて他人事にしか思えない。

目が覚めてから記憶がないと知った自分以上に、周囲のみんながショックを受けていた。悄然とした顔でディアナを気遣い、真摯に説明してくれた。解毒剤を飲むに至った経緯や、その副作用で記憶を失ったこと、王城に来た原因である魔法のこと。

それらに、嘘や偽りがないことは信じられる。

だけど王子から告白されることは別だ。王子が言うには、自分も王子が好きだと応え、結婚の約束までしたという。どんな流れの果てに自分はそんな約束をしたのか。第一、王子に好きなってもらえる要素が自分に有ると思えない。

明日は双子の騎士と共に王都に行くらしい。

王城に従事する、王子からの信任厚い騎士に伴われて家族のための土産を買いに行く。 

「そんなこと・・・」 

有り得ないと額を押え、ディアナは首を振る。王子と話すだけでも血の気が引くというのに、王城に従事する騎士を土産買いに付き合わせるなど出来る訳がない。明日の予定を断るために震える膝を叱咤して立ち上がろうとしたが、断るにも王子が何処にいるのかさえ判らない。まさか城の中を捜し歩く訳にもいかず、茫然と扉を眺め続けた。

記憶がなくなったと言われたが、少し痩せただけで身体に怪我はないし、日常動作に支障はない。王子と繋がっていた魔法はもう解けているのだ。王城に従事する高貴な身分の人たちに迷惑を掛けたくはない。荷物が一つになったのなら、辻馬車でも拾って一人で帰ることも出来る。だけど・・・・。 

――――ディアナ、好きだ 

低く、どこか切なげな声がディアナの胸の奥をざわつかせる。 

どうして王子が田舎領主の娘を好きだと言うのか解からない。国王と踊るディアナを見て、王子は嫉妬したと言っていた。自分が国王と踊った? 王主催の舞踏会で? そんなこと有り得ない。エルドイド国の端っこで侍女として過ごしてきた自分が、国中の娘が憧れる王子に嫉妬されるなど非現実的だ。 

いつまでも熱が引かない頬を押さえていると、ふと目の前が滲んで見えた。 

「・・・?」 

指先を伸ばすと眦が濡れていて、涙が溢れていたと知ると同時に鼻の奥がじんっと熱くなる。急に胸が締め付けられるような痛みに首を傾げながら扉を見つめ、もういない人の面影を追う。

口に出すのも憚られる高貴な人の名を脳裏に浮かべたディアナは、眉を寄せて苦し気に息を吐いた。

 

 

 

翌日、部屋に響き渡る盛大な叩扉に急ぎ扉を開いたディアナは、焦げ茶色の髪と瞳の二人の姿を前に、目を瞠った。二人は鏡に映したかのように顔も立ち姿も衣装も全く同じだ。

しかし一人は笑顔で、もう一人は柳眉を寄せた悲しげな顔をしている。

彼らは王子の言っていた双子の騎士で、王都への案内人だろう。王宮に従事する、殿下専属の護衛騎士。だが二人は騎士とは思えない、質素な衣装を身に纏っていた。ディアナが唖然としている間に部屋に入って来た双子の、笑みを浮かべる一人が急に大きな声で喋り出す。

「ディアナ嬢、久し振りぃ! 元気だった? でも少し痩せた? どっか痛いところはない?」

「あ・・・え・・・なっ?」 

急ぎ御辞儀しようとするディアナの両手を、双子の一人が掴んで上下に勢いよく振るから、頭までガクガクと揺れて挨拶が返せない。やっと手が離れたと安堵する間もなく、「お金を預かっているよ」と布袋を見せられる。リグニス領主の印が記された袋に懐かしさを感じていると、元気な騎士の背後でずっと黙り込んでいたもう一人が、ディアナの前で勢いよく跪くと同時に頭を下げた。

 

「ディアナ嬢! ・・・・俺があの時ディアナ嬢から目を離さなければ、こんなことにはならなかった。何度謝っても取り返しがつかないけど、謝罪させて欲しい。ディアナ嬢、本当に申し訳ない」 

「なっ! ええ? お、お止め下さい、騎士様っ」 

「まずは聞いて欲しい。ディアナ嬢は何も覚えていないだろうけど、俺はディアナ嬢にすごい迷惑を掛けた。だから俺からの謝罪を、どうか受けてもらいたい! もちろん、詰っても怒鳴っても構わない。俺を蹴っても、殴ってもいいからっ」

 

王城に従事する騎士が田舎領主の娘に跪くなどあってはならない。そんな馬鹿なことは有り得ない。 

ディアナが悲鳴を上げて床に膝をつくと、真っ赤な顔が持ち上がった。それは怒っているような、または今にも泣きそうな表情に見え、ディアナの胸が痛くなる。どうして私は何があったかを覚えていないのだろうと悔しさに似た感情に揺さぶられ、目の前の騎士の手を握りしめた。

 

「・・・そんなこと致しません。それより、騎士様のお名前をお教え願えますか?」 

ディアナがそう言うと、騎士の顔がくしゃりと歪んだ。

隣に立つ騎士が今にも泣きそうな彼の頭をぐしゃぐしゃと掻き回し、「困らせるな」と小さく呟いた。 

「挨拶もまだだったよね。ディアナ嬢、この失礼は殿下に内緒にしておいて。ほら、名前!」

「俺・・・俺はエディで、こっちはオウエン。見てわかるだろうけど、双子だよ」

鼻を啜りあげたエディが自分と背後の兄弟の名を教えてくれる。視線は床に置かれた手と、ディアナに握られた手を行き来した後、そろりと顔を持ち上げた。 

「・・・エディ様、私は何も覚えておりませんが、ここで皆様に大変良くしてもらったことだけは解かります。エディ様にもオウエン様にも、お世話になっていたのでしょう。・・・エディ様からの謝罪を受け入れます。ですから、これで終わりに致しましょう」

 

床上の手をぎゅっと握ると、エディは忙しなく瞬きした後、やっと笑顔を見せてくれた。ディアナが顔を緩ませると、頭上からオウエンが深く息を吐くのが聞こえる。きっと、彼らにはディアナの想像する以上に大変な迷惑を掛けたのだろう。 

「今日は王都に案内頂けると聞きました。どうぞよろしくお願い致します」 

ディアナが頭を下げると、オウエンが大きく頷いてくれた。エディも頷くと立ち上がり、ディアナを引き上げる。二人の目線が先日の王子と同じように髪に注がれるのを感じ、何も覚えていない自分を申し訳なく思った。

だけど思い出してどうする? と思う気持ちもある。

王城での用は済んだのだから、このままアラントルに戻るのが一番だ。

ましてや王子からの告白を鵜呑みにするなど有ってはならない。王子が好きと言うのは、記憶をなくした自分を憐れんで言ってくれた言葉かも知れないのだ。結婚の約束など、王太子殿下が田舎貴族の娘と交わす訳がない。だから思い出せなくても・・・・問題はない。

昨夜から同じことを繰り返し考え続ける自分と、王子の言った言葉を否定する不遜な態度を苛む自分が頭の中で喚き続け、鈍い頭痛がする。だが、二日後にはアラントルに戻る予定なのだ。そう無理やり決着をつけ、気持ちを落ち着かせようとするも直ぐに王子の顔が浮かんでしまう。

王子の言うことが本当なのか、いや本当だとしても今の自分に言った言葉ではない。ましてや記憶がない自分は王子の望むディアナではないはずだ。

それなのに胸に灯ったように広がる温かい感情が、何度も王子の言葉を思い出せる。

『・・・本当に、どうしようもなく好きだ』

あの言葉を否定することは出来ない。だけど受け入れる訳にはいかない。

同じことばかりを考え続け、疲労した感がある。何か小さなことでもいいから思い出せたらいいのに、その兆しはない。

ただ、以前よりも卑屈な感情に囚われていない自分が不思議だった。

瑠璃宮の魔法導師にも、王城に従事する騎士にも臆することなく話が出来ている。これは魔法を解いたからなのだろうかと、ディアナは眉を寄せながら首を傾げた。

 

 

 

双子の案内で訪れた城下の街はとても活気があり賑わっていた

平らな石畳に覆われた広い道の上を、驚くほど多くの人々や荷馬車が忙しなく行き交っている。濃い褐色の肌の人や異国の衣装で歩く人とすれ違うと聞き慣れない言葉が耳に届く。たくさんの店が連なり、それは大通りの入り口から港方面まで続いていると言う。大通りの中央には大きな噴水があった。音楽と共に水が噴き上げると光の加減で虹が浮かび見え、忙しなく行き交う人も足を止めて顔を綻ばせる。

馬車から降りたディアナは双子騎士と歩きながら、目を瞠り続けた。

 

「土産にするなら焼き菓子だよねー。日持ちはするし、途中で腹が減ったら食べられる」 

「それじゃあ、消えちゃうじゃんか。それより流行の帽子は? 王都で流行している帽子を被って綺麗になったお姉さんに、旦那のロンも喜ぶよ、きっと」 

「侍女さんたちの分も買うなら、いま貴族息女で流行っている刺繍入りのハンカチはどう?」 

「料理長さんには美味しい酒を買って、旨い物を御馳走してもらおうよ」 

「あっちにガラスペンがあるよ。領主様にどう?」 

「ストールもいいんじゃない? ディアナ嬢の母上に似合うんじゃない?」 

 

左右にいる双子の声に振り回されながら店を覗くたびに、ディアナは何度も口を押えて瞬きを繰り返す。アラントルで何不自由なく育ってきたが、王都城下街の賑わいと人の多さと、店の大きさと多さに驚きを禁じ得ない。 

「お土産を買うのは初めてで、それにお店がたくさんで、見るだけでいっぱいいっぱいです」 

エルドイド国産品が置かれた土産物屋の他に他国からの特産品や名産物を置く店も数多くあり、大通りを南下すると三つの大きな港があるという。ひとつは貿易用の港として使用しており、他は自国専用の漁港と、残りのひとつが自他国客船用の船着き場だと教えられる。溢れ返るほどの品々と料理店の多さ、行き交う人々がディアナを驚かせ続けた。

 

オウエンがある店の前で立ち止まり、「ここ、すごっく美味いんだよ」とディアナを誘う。昼前だったにも係わらず、店先を掃除していた男性は双子騎士を見ると快く店中に案内してくれた。 

「悪いねぇ、店主。開店前に」 

「あんたがたが来ると大勢の人が集まって飯を喰うところじゃなくなるからな。この時間なら、ゆっくり食べられるだろう・・・って、今日は三人か? それもまあ、きれいな娘さんを連れて来たなぁ!」 

「だろう? 城下街見物と土産物を買いに来たんだ。で、俺たちお勧めの美味い店にご招待したって訳。親父さん、いつもの定食と山盛りの揚げイモ!」 

「それとヴルスト山盛り、カブの煮物、あとピクルス、チーズといつものサラミ」 

「あいよ!」 

「ディアナは俺たちのを摘まめばいいよ。移動パン屋の焼き立てパンも絶品だよ」 

「トルテが美味しい店にも連れて行くね。栗のトルテが絶品なんだ」 

「そんなに食べるつもりか! うちは大盛りが自慢だぞ?」 

「大丈夫だって。皿以外、残さないよ」

 

軽快なやり取りを前に、ディアナは口を挟む余地がない。出された料理を少しずつ口にして、その美味しさに目を丸くして頭の中で料理方法を想像する。初めて知る味に顔を綻ばせて堪能し、気付けば腹が苦しくなるほど食べていた。 

それでも移動パン屋や有名なトルテ販売の店に行くと真剣に選んでしまう。両手いっぱいにパンや菓子を持ち、店を見ながら歩いていると、突然エディが叫び声をあげた。 

「ああっ、まただよ! またパンとか菓子をいっぱい買っちゃったよ!」 

「う~ん、これじゃあ土産物屋に入れないか。いったん、荷物を馬車に置いて来るよ」 

オウエンがパンや菓子が入った袋を預かり、馬車のある町外れに向かう。

その姿を見送りながらエディが頭を掻き毟り、失敗したと呟いた。 

「前もディアナ嬢を案内しようと街に連れ出した時にね、移動パン屋を見ていっぱい買っちゃって、結局何にも見ずに戻ったことがあるんだ。同じことはしないぞって思っていたのに、あの匂いを嗅ぐと、条件反射で並んで買っちゃう自分が情けない・・・。ごめんね、ディアナ嬢」 

「焼き立てパンの香りは私も大好きですし、私もたくさん買いましたから謝らないで下さい。それより、オウエン様に荷物を運ばせてしまったことを、あとで謝罪しなくては」 

「それこそ心配しなくて大丈夫だよ。それより噴水前に移動しよう。あそこなら戻って来たオウエンもすぐ分かるだろうし、噴水近くにはベンチがいくつも置いてあるから休めるよ」

 

大通りを交差する、その中央にある大きな噴水から清らかな水が高く噴き上がる。水音と重なるように音楽が聞こえ、すると一際高く水飛沫が舞い上がった。眩しさに目を細めると同時に、くらりと眩暈に襲われる。貧血に似た感覚に額に手を宛がうと、エディに腕を引かれた。

「・・・そこのベンチで休もうか」 

座ると同時にエディが気遣うような視線を向けてくる。

ディアナが大丈夫ですと笑みを浮かべたが、エディは眉尻を下げて唇を噛み締めた。 

「ディアナ嬢は・・・、目が覚めてから殿下を見て、その―――・・・どう思った?」 

「どう、とは?」 

街に来てからずっと明るかったエディの表情が一変し、ディアナの胸が飛び跳ねた。

背を丸めて足元に視線を落としたエディが何を言おうとしているのか、おおよそ理解できる。ディアナが記憶をなくしたのは、エディが目を離したことが原因だと謝っていたのを思い出し、ディアナは背を正してエディに向き直った。

 

「これで終わりにしましょうと、先ほどお伝えしたばかりです。・・・王城に来てからのことは、殿下に拝謁させて頂く機会を得ても、思い出せることは何ひとつ御座いません。そんな私に殿下は気に病むなとお優しいお言葉を下さいました。出来ることなら思い出したいとは思いますが、・・・ですがこれ以上、迷惑をお掛けするのは心苦しいとも感じております」 

「迷惑だなんて、誰も思ってないよっ。それにディアナ嬢が苦しむことなんかない。俺が目を離した隙に攫われてたことが原因で、だけど謝るなって言うから我慢する。それでもディアナ嬢、これだけは言わせて欲しい。殿下はディアナ嬢のことがすごく好きだよ。自分の妃にはディアナ嬢がいいって、ディアナ嬢以外は考えられないって、何度も言っていた」

 

エディに真摯に訴えられ、しかしその言葉の重みにディアナは項垂れる。

王子に会ってから二晩経過しているが、いまだに何ひとつ思い出せていない。きっとこのまま思い出せずにいるのだろうとさえ考えている。思い出せなくても問題ないとも思っている。

問題なのは自国の王子に好きだと言われること。それはディアナを戸惑わせるよりも、まさかと恐怖させた。真っ直ぐに見つめて来る黒曜石の双眸から視線を逸らし、だけど身体の奥から沸き上がる不可解な感情に、あの時確かに囚われた。

 

「わ、私は田舎領主の娘ですし、侍女として過ごすことを頑なに優先していた親不孝な人間です。王城に来てから何があったか存じませんが、殿下の妃というのは・・・」 

「だけどね、ディアナ嬢もそれを受け入れたんだよ。それは聞いた?」 

「伺いましたが、でも・・・それでも」 

それらを悉く拒絶するのは失礼にあたるのだろうか。だけど、今のディアナにはどうしても受け入れられないのだ。どう考えても有り得ない。もし王子やエディが言うことが事実だとするなら、記憶を失う前の自分は何を考えて王子からの申し出を受け入れたのだろう。

何があって、そうなったのか、思い出せるもなら思い出したい。いや、アラントルに戻ったらいつもの日常が戻ってくる。王城から離れた私を、遠い地にいる娘のことなど、王子はすぐに忘れるだろう。妃には王太子殿下に相応しい、身分や気品や教養ある女性を選ばれるはずだ。

 

「殿下は会った時からディアナ嬢が気になっていたんだと思うよ。ディアナ嬢を見る目も、態度も、見ているこっちが恥ずかしくなるほど必死でさぁ。あんな殿下、初めて見た」 

「それは・・・きっと魔法をかけてしまったことに対する・・・罪悪感とか」 

「ディアナ嬢が作った菓子を先に食べたらマジに怒るし、何かあるとすぐに部屋を訪ねるし。それに花を贈ったって聞いて、すげぇ驚いた。見たこともない真っ赤な顔してさ、ディアナ嬢に何かあるたび、すごく心配してさ。・・・ああ、殿下は本気なんだって思った」 

明るい口調が急に窄まり、エディが肩を竦めて膝上で手を組む。

エディの紡ぐ言葉に頬を赤らめていたディアナも、その憔悴に驚き、思わず息を呑む。 

「だけどさ、それなのにさ・・・。ディアナ嬢が攫われて、髪切られて、訳わかんないモノ飲まされて、殿下のことを全部忘れたって聞いてさ、俺・・・・どうしようって」 

「エディ様・・・」 

「俺がいくら謝ったってディアナ嬢の記憶が戻る訳じゃない。じゃあ、他に何が出来る? 俺が出来ることは何だろうって、そう考えて・・・、殿下の応援をしようって思ったんだ。だから、ディアナ嬢」

 

ディアナに向き直ったエディが、ぜひ聞いて欲しいと頭を下げる。

そしてギルバード王子の剣技の素晴らしさや隊での指導力、老獪な大臣らとの折衝、二年間に亘る国内の全領地視察を終えてからの細かな改革指導などを身振り手振りを交えて語り出した。今いる城下街で身分を隠して働いたこともある。騎士団員や庭師、侍女たちにも気さくで人気があり、だけど国王だけは親なのに苦手らしい。座ってばかりの執務は苦手だが、夢中になると朝まで寝ずに政策を練っていることもある。視察巡りで各領地の料理を食べたが、アラントルで食べた菓子が一番好きだと言っていた。

エディが教えてくれる誠実な王子の人格を聞く内に、王子がどれだけ周囲の人たちから信頼され、敬愛されているかを知る。聞けば聞くほど感嘆の息が漏れ出て、ディアナはやはり自分が王城にいるのは間違っていると確信した。 

国のための政務を担う賢明で清廉な王太子に相応しいのは、見目麗し女性であり、後ろ盾になるような大貴族の息女か他国の王女だ。自分などでは無理だと確信したディアナは、もし記憶が戻っても黙っていようと心に決める。従事する臣下がこれだけ褒め称える王子の妃に、自分がなるなど考えられない。 

そう考えが決まったディアナは、真剣な顔で王子を褒め称えるエディの言葉に丁寧に頷き続けた。

 

「おーい、荷物を置いてきたから行こうぜ」 

オウエンが戻り、土産を探しに移動することになる。

立ち上がる時、視界の端に映った噴水の水飛沫に目を細め、ディアナは小さな吐息を零した。

 

 

 

 

 

 → 次へ

 

← 前へ

 

メニュー