紅王子と侍女姫  108

 

 

翌日、ディアナは朝食を届けてくれた侍女に昨夜の詫びを伝え、みんなで食べて欲しいと街で買い求めた菓子を渡した。その後は王子に言われた通り、部屋で大人しく身体を休めることにしたのだが、窓近くに置いた椅子に座ってぼんやりと庭園を眺めるしかない。 

「・・・・?」 

しばらく眺めていると、鮮やかな彩りのたくさんの花を持った人物が庭園奥から歩いて来るのが見えた。王宮に飾るのだろうか。それにしてはあんなにもたくさんの花を手で持ち運ぶなど、飾る前に花が痛まないだろうか。何か急ぐ理由でもあるのだろうか。・・・お手伝いしたいけれど、無理だろうか・・・。

動き出しそうな足を叱咤していると、花を持つ人物の足が止まり、よたよたとディアナのいる部屋に近付いてきた。たくさんの花に隠れて顔は見えないが、誰だかわかる気がする。 

「まさか・・・殿下、ですか?」 

立ち上がり庭園側のガラス扉を開くと、花の向こうから声が聞こえてきた。 

「ディアナか? 開けてくれて助かった。どうやって窓を叩こうか、困っていたんだ」 

慌ててテーブル上を片付け、花を置く場所を作る。零れんばかりに置かれた花には何故か季節外れのものもあり驚いてしまう。花の甘い香りが部屋中に広がり、ディアナの心を癒すかのように漂う。ゴトリと音がして、ディアナが顔を向けると大きな花瓶が床に置かれた。 

「ディアナが好きな花を贈ろうと思ったんだが、好みの花がよく判らないから、取り敢えず手当たり次第に摘んできた。これだけあれば、ひとつかふたつは好きな花があるだろうと思って」

「とても嬉しいです、殿下。ありがとう御座います」 

礼を告げると、満足げに微笑む王子の髪や衣装に黄色や桃色の花びらや花粉が着いているのが見えた。

ディアナは手を伸ばして、花びらを払い落としたが、花粉は手で払い落すより乾いた布で叩き落した方がいいとタオルを取りに向かおうとして、腕を掴まれる。

「えっ?」 

「・・・悪い。少しだけ・・・。少しだけで、いいから」 

何と思う間もなく覆い被さる何かに包まれた。そして、身動き出来なくなってしまう。

部屋に広がる花の香りと、男性の―――王子の匂いに包まれたディアナは、懐かしいと感じる自分に目を瞠る。大きく息を吸い込むと、跳ねるように胸が躍る。ディアナの手が無意識のうちに持ち上がり、自分のものではない衣装を掴む。その硬い生地の感触も知っていると思う自分が不思議だ。どうしてと思いながら手を動かそうとして、拘束が強まった。

苦しいと身を捩るディアナの目に臙脂色のコートが映る。それが王子のコートだと認識した瞬間、自分が何を掴んでいるのかを知り、ディアナは驚愕した。

 

「・・・っ! も、申し訳御座いませんっ」

「いいえ、ディアナ嬢。謝るのは殿下の方です。昨夜に続き、またもやディアナ嬢の了承を得ずに勝手に触れるなど、何度お教えしたら理解してくださるのか、本当に頭が痛いです。殿下、騎士道精神はどこに捨てて来ました?」 

「・・・え!?」 

第三者の声に驚き、だけど一向に囲いを解こうとしない王子の腕の中で、ディアナはどうにかに顔を上げた。庭園側から現れたのは侍従長のレオンで、部屋に入るなり王子の襟首をむんずと掴んで後ろに引く。ディアナを開放した王子は、レオンの手を払いながら眇めた目を向けた。 

「殿下はご自身で決めたことを、もうお忘れになったのでしょうか? 今日一日はディアナ嬢の心身を休ませると言っておきながら、半日もせずに足を運ぶなど、本当に堪え性のない。私とも話し合いをされ、それも御納得頂けたと思っていたのですがねぇ」 

「う、ぐっ。・・・・ディアナ、悪い」 

いえ、と小さく呟きながら、ディアナは手を隠す。無意識とはいえ王子の腰に手を回していた自分が信じられない。赤くなっていいのか青くなるべきなのか戸惑っていると、レオンが溜息を吐いた。 

「瑠璃宮の温室にまで足を運ばれて、これまた、ずい分と摘んできましたね」 

「ディアナに珍しい花を見せたくてな。だが、ちょっと多いか? まあ、今更言うのもなんだが、ゆっくり休んでくれ。じゃあディアナ、また後で」 

照れたような笑いを見せながら王子は侍従長であるレオンと部屋を出て行った。まるで突風のような出来事に呆けたままのディアナを置いて。

 

気を取り直して花を活け始めたディアナは、季節を無視した花々を前にして瑠璃宮の温室がふと気になった。気になるのは過去で王子と足を運んだことがあるからなのだろうか。瑠璃宮の、というからには魔法導師管轄の温室なのだろう。瑠璃宮は魔法力を持つ者とエルドイド国王、そして魔法導師に招かれた者しか立ち入れない場所だと教えてもらった。王子は王位継承者だから温室に入れたのだろうか。

手には八重咲きの真っ赤なアネモネ。その向こうに置かれたイエローオレンジのクレピス・アウレアが重なり見え、まるで炎のようだと思った瞬間、頭の奥に鈍い痛みを感じた。 

その痛みに目を閉じると、乗ったこともないはずの船の甲板が脳裏に浮かぶ。

高い場所からディアナに手を差し伸べるのは誰だろう。どうして自分は船の上にいるのかと周りを見回そうとして、視界の端に輝く何かを捉えた時には身体が動いていた。 

――――この御方を守りたい。それだけを考え・・・・・。

轟音と共に立ち上る炎。その炎より鮮やかな、瞋恚に燃える双眸がディアナを束縛する。

 

ぐらりと傾いだ身体を支えようとしてディアナは目を瞬く。

花の香りが漂う室内は、ただ静かだった。未だ揺れているような感覚に眉を寄せ、ディアナは深く息を吐き出す。脳裏に過ったのは何だろう。あれは失った記憶の一部なのだろうか。

・・・あの炎が? ―――まさか。

自分は王子の妃推挙に巻き込まれて毒を飲んだのだと訊いた。それだけではなく、その他にも何かあったのだろうか。やはり思い出す努力をした方が・・・いいのだろうか。

いや、自分はアラントルに戻る身だ。今さら何かを思い出したとしても、これ以上王子に係わらない方がいいと決めたはずだ。不意に現れる過去の残像を頭から押し出し、ディアナは黙々と花を活けた。

 

 

 

翌日、ディアナは王子の案内で庭師の許へ足を運んだ。昨日見た、白昼夢のような幻覚を伝えるべきか悩んだが、やはり口には出さずにいようと決める。

王子の後を歩きながら、アラントルに戻った自分を想像した。

浮かぶのは今まで通りの生活を当たり前のように繰り返す自分。料理長を手伝い、侍女と共に掃除をし、そしてこれから先は講師に様々な教育を受ける。その穏やかな日常の中、時折胸を押さえて何かを探し求める自分の姿が浮かぶ。

「ディアナ、無理はするなよ。歩いていて疲れないか? 歩く速度は早くないか?」

「はい、大丈夫です。お気遣い、大変感謝致します」

探し求めるのは、優しい王子の姿かもしれない。目が覚めてから数日、どうしてこんなにも王子のことばかり気に掛かるのか。魔法が解けた今、私は何を王子に求めるというのだろう。 

 

案内された先の庭園にいた庭師にディアナの記憶がないことを告げたのは王子だった。

驚いた庭師たちは、ディアナが庭師と共にローズオイル抽出の手伝いをしてくれたことや、王子と庭園を散策していたことなど話してくれたが、やはり思い出せないとディアナは頭を下げる。 

「どうして、そんなことに・・・。怪我とかはないんだね、それは良かった」

「殿下、国王様に怒られませんでしたか? イヤ、怒られましたよね」 

「そうそう、どうせ殿下が原因なのでしょう?」 

「お嬢さん、気を落とさずにな。またいつでも足を運んで下さいよ」 

王太子殿下を前にして敬うことなく言いたい放題の庭師たちに、王子は不貞腐れた顔を見せた。

高齢の庭師が如雨露で王子の背を突き、「人ひとり守り切れないとは、情けない・・・」と呟くに至っては、顔を真っ赤に染め上げてしまうほどで、ディアナの方が慌ててしまった。 

 

次に案内されたのは騎士団宿舎の食堂で、ディアナはそこで二日間、調理の手伝いや菓子作りをしたと聞く。お世話になった挨拶をしていると騎士たちがわらわらと現れ、何故か取り囲まれてしまった。

「お嬢さん、アラントル領に戻るんだって? 俺、お嬢さんの料理、まだ食べてないのに」

「俺は食べたけど、もう一度食べたいなぁ。また作りに来てくれよな」

「双子が、お嬢さんの作った菓子が最高だって言っていたけど、今度俺にも作ってくれる?」

何と返していいか困惑すると、騎士の囲いを蹴散らして王子がディアナの前に出た。

「お前らっ、汗臭いんだからディアナに近付くなっ!」

「連れて来たのは殿下じゃないっすか。独り占め禁止っすよ」

「アラントルまで、俺が護衛しましょうか? 毎回双子ばかりじゃ、ずる・・・大変でしょ?」

大勢の騎士に囲まれ騒がれては、何も言うことが出来ない。王子が大声で怒鳴るたびに騎士たちがさらに大きな声で反論する。その内、机やいすを叩く音が聞こえ、まるで火事場のような騒ぎになった。

どうすることも出来ずにディアナが身を竦めていると、甲高い金属音が響いた。皆が振り向くと、大鍋を抱えた料理長がお玉を上段に構えながら現れ、「静かにしろ・・・」と低い声を漏らす。蜘蛛の子を蹴散らすように騎士が食堂から消え、ディアナは目を丸くした。

 

その後、少し距離があるからと馬車に乗せられ王宮に移動する。

「国王は応接室にてディアナ嬢を御待ちで御座います」

出迎えた侍従にそう伝えられたディアナは息が止まりそうになった。過ぎた緊張に持っていた品を落としそうになり、深呼吸しようとして噎せ込んでしまう。自分の足が言うことをきかず、必死に前に進ませようとするも震えるばかり。その内、どうして自分などが国王に会おうとしているのか解からなくなり、踵を返して逃げ出したくなる。 

腕を取られ顔を上げると、眉尻を下げた王子の顔があった。「大丈夫か」と問われ、自分でも顔が強張っているのを知り、ディアナはもう一度息を整える。 

「ディアナ、緊張することはないぞ? 国王といえど、ひとりの人間だ。王と宰相に礼の品を渡したら、直ぐに部屋に戻るからな。直ぐだからな」 

「は、はい。申し訳、ございません」 

そうだ、と思い出す。直接世話になっていた礼を伝えたいと望んだのは自分自身なのに、案内してくれた王子や手続きしてくれたレオンに、こんな不甲斐ない態度では失礼にあたる。正した背に温かな支えが触れた。それが王子の手であることが嬉しいと素直に思い、ディアナは横に立つ王子に微笑んだ。 

「ありがとう御座います、で・・・」

 

背に回っていた手に引き寄せられて蹈鞴を踏み、何と思う間もなく暗闇に包まれる。息を吸うと鼻を擽る香りに力が抜け、ディアナは目を閉じた。また王子に抱き締められていると気付くが、どうしても抗うことが出来ない。王子に凭れ掛かったままでは不敬だと思うが、いや抱き締められているのだから不敬ではないのかと、妙に落ち着いている自分にも驚く。国王を待たせている部屋の前で、何と不躾なことをしているのかと叱責を受けるかも知れない。だけど王子の胸を押して離れるのは・・・・。

グルグル考えている内に沈みゆくような眠気を覚え、ディアナは考えを放棄しようとした。

 

「まぁた抱き締めてるんですか、殿下。許可を得たんですか? 許可を!」 

「・・・っ!」 

突然の声に驚き、顔を向けた先に見えたのは腕を組むレオンの姿。胡乱な視線に狼狽え、ディアナは慌てて退こうとして、膝から力が抜けた。直ぐに伸びてきた腕に支えられ転ぶことはなかったが、レオンの嘆息を耳にして顔が一気に蒼褪める。 

「あ、あの、レオン様。殿下は緊張している私を御慰め下さっただけで、お手を煩わせ面倒を掛けていたのは私の方に御座います。こ、国王様に拝することを望んだのは私ですのに、お待たせしてしまい、本当に申し訳御座いませんっ」 

「ディアナ嬢、違いますよ。殿下は隙あらばディアナ嬢を抱きしめようとする、不埒な人物だと思ってください。嫌なことをされたら、嫌だと言っても問題ありませんよ」 

「殿下にされて、嫌なことなど何も・・・・」 

首を振って否定したディアナは、となりに立つ王子を見上げて驚愕の声を上げた。 

「殿下、顔色が真っ赤です! レオン様、殿下を急ぎお医者様の許へ運ばれた方がっ。ああ、でも、国王様をお待たせしておりますのに。で、でも・・・・っ」 

「ディアナ嬢、落ち着いて下さい。殿下は惚けているだけですよ」 

「え・・・。ほ、惚け・・・?」  

言われた意味が分からないと王子とレオンを交互に覗っていると、扉の向こうにひとりの人物が立っているの気付いた。拳を口にあてて肩を揺らしているのは、どこかレオンに似た顔の人物だ。国王が待っている部屋にいるのなら、国王の側近に違いない。立ち振る舞いからして、宰相だろうか。

ディアナは急ぎドレスの裾を持ち、頭を下げた。 

「あのっ、お、お待たせした上に騒がしくしてしまい、申し訳御座いません。ディアナ・リグニスと申します。ほ、本日は大変お忙しい国王陛下様よりお時間を頂戴し、・・・・あ、あの」 

「ひ・・・ひぃ、・・・ひ、ぐはっ!」 

頭上と背後から引き攣った笑い声と思われる声が聞こえ、ディアナは頭を真っ白にした。何か変なことを口にしてしまったか、廊下で大きな声を出していたのを笑われているのか。俯けた視線にはレオンと宰相らしき人物の足だけが見え、この後どうしたらいいのか解からない。

 

「おーい。いつまでもそこで固まってないで、ディアナ嬢を中へ案内しろ」 

扉の向こうから聞こえてきた声に、ディアナの背が大きく震えた。

それは、たぶん、きっと、間違いなく国王陛下の声だろう。

ディアナは急ぎ姿勢を正し、足を進めようとして背後の王子を思い出す。自分などが先に入っては、それこそ不敬だろうと思うのだが、王子はピクリとも動かない。顔色を朱色に染めたままで固まり、しかし国王を待たせてはいけないとディアナは王子の袖をそっと引いた。 

はっ、と息を吸う音が聞こえると同時に、再び室内から声が響く。 

「ギルバード! 早くしろ!」 

「・・・ただ今、ディアナ嬢をお連れします」

舌打ちが聞こえたのはディアナの聞き間違いだろうか。しかし考える間もなく差し出された王子の肘に手を掛けると、ディアナは室内に案内される。 

大きな室内は温かく、天井まで届く窓からは晩秋の日差しがさんさんと降り注いでいた。

白い大理石の暖炉が置かれた壁一面に設えた鏡が応接室を更に広く見せ、室内にいるのは何人だと、一瞬戸惑わせる。きょろきょろするのも失礼と床を見つめながら王子に導かれソファ近くに辿り着くと、誰かが立ち上がる気配があった。

「今日は私に用があると聞いたが、何かな?」 

「は、はい。私はアラントル領、リグニス侯爵家の三女、ディアナ・リグニスと申します。国王陛下に拝謁叶い、恐悦至極に御座います。王城にて長くお世話になったと聞き、こ、心ばかりの粗品では御座いますが、国王陛下にお受け取り頂けたら光栄です」 

深く腰を落としたディアナは一気に礼を告げて持っていた布袋から、品を取り出した。顔を伏せたままテーブルに品を置き、このまま退室しようとして王子の腕に捕まっってしまう。国王がソファに座ると同時にディアナも王子と共に腰を下ろし、宰相が給仕してくれた紅茶を前にして、頭が真っ白になった。

自国の王と同じ部屋にいる。横には王太子がいて、その侍従長と宰相がいる。バクバクと高鳴り続ける心臓が今にも弾けそうで、ディアナは全身を強張らせる。隣に座る王子が小さな咳払いをする音にさえ飛び上がりそうになり、必死に唇を噛み締めた。 

 

「こほっ、国王。明日の昼前にディアナ嬢の故郷であるアラントルに出立致します。行程は行きに三日、帰りに二日、アラントル領滞在一泊・・・、の予定です。同行者は護衛として双子騎士とレオン、そしてこの私。領地視察の時と同じ馬車を使用します」 

「ああ、宰相から聞いている。――――ところで、ディアナ嬢」 

「はいっ」 

低い声が耳に届き、ディアナはいっそう深く御辞儀した。顔を上げるよう言われ、そろりと上げると、テーブル上の品に手を伸ばすのが見えた。大きな手だと見つめていると、楽しそうな声が聞こえてくる。 

「お礼の品と聞いたが、礼や詫びをすべきは、そこにいるギルバードの方だろう。ディアナ嬢は記憶の一部分、王城に来てからのことを失い覚えていないと聞いたが、その原因を作ったのも迷惑を掛けたのも我が愚息だ。ディアナ嬢には何ひとつ非はない。毒を飲まされ幻覚に苦しみ、解毒剤では記憶を失った。これらに対し、どれだけの賠償をすべきか計算も出来ないほどだ。本当に・・・大変申し訳ない」 

聞こえて来た謝罪の言葉に大きく顔を上げると、立ち上がった王が右手を左胸に宛がい、ディアナに深く頭を下げるところだった。目を瞠ったまま固まるディアナの横では王子が床に跪き低頭する。驚きのあまり声も出せずに助けを求めると、レオンも宰相も同じようにディアナに向かって頭を垂れていた。 

「・・・っ! っ、・・・っ!」 

ディアナを囲むように頭を下げているのは、エルドイド国の尊き存在、重鎮だ。

驚きが過ぎて、お止め下さいと伝えようにも咽喉が詰まって声が出ない。腰から力が抜けて立ち上がることも出来ない。このままでは息が止まるか、心臓が止まってしまうと泣きそうになる。誰か助けて下さいと祈っていると、背後の扉が開く音がした。

 

「そのように皆でディアナ嬢を取り囲んで、何をされておいでですか。ディアナ嬢が可哀想だとお思いになられませんか? 今は記憶がないと、御説明申し伝えておいたはずですのに」 

「ローヴ様っ!」 

聞こえてきた穏やかな声色にディアナの強張りは解け、動くことが出来た。現れたのは魔法導師長であるローヴで、ディアナの体中から一気に力が抜ける。 

「ディアナ嬢、カリーナから土産を受け取りました。ありがとう御座います。・・・さて、王よ。謝罪は結構ですが、そのように大仰な態度ではディアナ嬢を困らせるばかりですよ」 

「だがローヴ、私は以前からこの莫迦息子の愚行を一度はちゃんと謝罪せねばと思っていたんだ。それなのに、ディアナ嬢は滞在していた礼を直接渡したいと、わざわざ足を運んでくれた。なんと気立ての良い娘だ。そうだ、ディアナ嬢。ギルバードの嫁なんかになるより、私の妃になった方がよっぽど幸せになれると思うが、どうだ?」 

「はぁ!? なっ、ちょっ!」 

「瑠璃宮では解毒剤の見直しをしているらしいが、その後の経過はどうだ? 記憶が戻ったら、ディアナ嬢と街に行く約束をしている。あとは乗馬だが、二人乗りは久しぶりだな」 

「だっ、ちょっと、王っ」 

「今年の生誕祝いは寂しかったぞ。ダンスの約束をした相手はいない。王太子・・・はどうでもいいが、瑠璃宮は解毒剤作りに大わらわ。娘や孫たちは『今年は魔法の花火がないのか』と残念がっていた」 

「~~~っ!」 

真っ赤な顔で勢いよく立ち上がった王子が地団太を踏む。レオンと宰相は口元を押さえて体を震わせ始め、国王はゆったりと足を組み替えながら肩を竦める。いったい何の話をしているのかとオロオロと狼狽するディアナの隣に悠然と腰掛けたローヴは、大きな溜め息を吐いた。

 

「王よ、殿下を弄るのは結構ですが、ディアナ嬢への精神的負担をお考えて下さい。それと殿下、念のためにと指輪を用意致しました。万が一に備え、指に御嵌め下さい」 

「そうか。ありがとう、ローヴ。・・・ディアナ、あと、王に何か言うことはあるか?」

王子に話を振られ、ディアナは背を正す。

柔らかな笑みを浮かべる国王は、やはりどこか王子に似ていて、ディアナの緊張が少しほぐれる。大国を統べる国王の鷹揚で気さくな態度を、不思議なことに、どこか懐かしいとさえ思えてディアナは知らず口元を緩ませた。

エルドイドの国王に拝謁する機会など、今後一生有り得ないだろう。ましてや、その王と自分が舞踏会で踊ったなど想像することさえ憚られる。王子の言うことを信じない訳ではないが、正直未だに戸惑うばかりだ。窓から差し込む陽光が国王の金色の髪を、眩しいほどに輝かせる。きっと舞踏会は国王の髪色のように光り輝く光景が広がっていたのだろう。

だけど黒曜石のように艶やかな王子の髪色の方が好ましいと、ディアナは隣りに座る王子をそっと仰ぎ見た。思ったよりも柔らかな黒髪は、夏の夜風に靡く草原のようで、いつまでも撫でていたくなる。

――――――いや、撫でたことなど・・・ないはずだ。

膝上で重ねられていた手を返し、首を傾げながら掌を見つめる。

自分は魔法を解くために王城に来た。どうやって魔法を解いたのかはわからないが、その時に髪に触れたのだろうか。それを指が覚えているのだろうか。では、どうして他の記憶は蘇らないのか。

 

「ディアナ、言うなら今のうちだぞ」 

「・・・え? あ、はいっ。国王様、ささやかな品で御座いますが、快くお受け取り頂き大変嬉しく思います。それと、皆様からの謝罪は本当に必要ありません。記憶が戻りましても戻らなくとも、ここで私がお世話になったことは・・・間違い・・・?」 

急に目の前が霞んで見えた。

眩暈かと思ったが、違うようだ。頭の奥に手を突っ込まれて掻き混ぜられているような不快感に襲われ、呂律が回らず目を開けていられない。暴れ馬に乗ったかのように、胃が押し上げられる感覚がする。呻き声を上げそうになり急いで口元を覆うが、頬や唇に手の感触がしないことに愕然とする。 

「ディアナ? どうした? ・・・具合が悪くなったか?」

足元から悪寒が這い上がってくる。気持ちが悪い。背を這い上がる恐怖に冷たい汗がじわりと滲む。

掻き回す手を、止めて欲しい。閉じた瞼の奥で赤と黒と白が何度も弾けて爆ぜる。それから逃げようと、頭を押さえながら必死にもがく。走って走って、だけどどこまでも闇が続く。胸が痛い。息が詰まる。

突然、足元に大きな穴が覗き、抗う間もなく堕ちていく。

だけど声が出ない。伸ばした手は何も掴めない。だって、何も覚えていないのだから―――――。

 

 

 

 

 

 

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