紅王子と侍女姫  109

 

 

目を開けてはいけない。目を開けたら怖いモノが見えてしまう。

もし目が合ったら、あっという間に襲われてしまう。そして私の腕や足をいとも簡単に圧し折り、身動きが取れずに足掻き叫ぶ様を眺めた後、ゆっくりと牙を突き刺し、滴る血を音を立てて啜り、肉を咀嚼する様を見せつけるだろう。

・・・・どうして目の前に、恐ろしいモノがいるのか。

それは私が場違いな場所にいるからだ。そうだ、ここは私なんかがいるべき場所じゃない。 

だって・・・だって、そう言われた。 

『お前なんか―――――』 

初めて訪れた、とても広くきれいな庭園の、たくさんある噴水のひとつに、緑の葉を船にして浮かべた。少し年上の少年と会話をした。余り見慣れない綺麗な服を着た少年と楽しいひと時を過ごした。

それが・・・間違いだったのか。

突然、伸びてきた手に何かを奪われた。痛みよりも驚きの方が大きく、ディアナが見上げると、そこには自分以上に驚き、そして苦しそうに顔を歪める少年がいた。

そうさせたのは誰か。そして十年もの長い間、私は忘れて過ごしていたのか。

 

「・・・・ディアナ、目が覚めたか?」 

薄暗闇の中、気遣うような優しい声が聞こえてきた。

目を開けているのに薄暗いのは夜が近いのだろうか。それにしてはひどく揺れている。眩暈がまだ治まっていないのか、それとも地震なのだろうか。額に手をやろうとして膝掛けに包まれていることに気付く。そして自分が凭れ掛かっている存在は。 

「ギル、バード・・・殿下」 

「お・・・おぅ、起きたか。具合はどうだ?」 

「ここ、は? 揺れて・・・」 

「今は馬車の中で、アラントルに向かっている最中だ」 

どうして馬車にいるのか解からずにディアナが首を傾げると、国王との謁見中に突然気を失ったと聞かされる。その後いったん部屋に戻して寝かせたが翌朝になっても目覚めず、急ぎ医師に診せると深く眠っているだけと言われた。魔法導師長であるローヴの判断で、アラントル行きを決行したという。 

王子が馬車の窓に掛かる布を払うと、眩しい光が差し込んできた。 

「そんなに長く・・・寝ていたのですか」 

「仕方がない。目が覚めてからは驚きの連続だったからな。精神的疲労が蓄積されていたのだろうと医師が言っていた。それなのに街に出掛けたり、王に会うことになって・・・悪かったな」 

「それはっ、私が望んだことで御座います。お蔭様で王都の街を散策する機会を頂き、皆様にお礼の品を買うことが出来ました。国王様にお会いする、本来なら有り得ない僥倖も頂けました」

 

すでにアラントルに向かっていると聞き、ディアナは安堵した。また予定をずらしては忙しい王子に申し訳ない。外を覗くと山間に落ち行く夕日が見え、眩しい光に目を細めた。 

「それで、具合はどうだ?」 

何かが頭の隅を過ったが、王子の声に消えていく。 

「大丈夫です。殿下には御面倒をお掛け致しました」 

「いや、急に顔色が悪くなって、何だと思う間もなく倒れて・・・。何か、思い出して・・・それから逃れようと意識を失った可能性もあるとローヴが・・・。ただの疲労なら休めばいいが、記憶を失っている今、何かあれば隠さずに教えて欲しい」 

「はい。本当に申し訳御座いません。殿下に何度も御心配して頂いておりますのに・・・」 

突然脳裏に広がる光景に意識を奪われ、しかし気付けば夢から覚めたように忘れている。思い出したいと心が望んでいるのか、それとも思い出さなくていいという神の啓示か。どちらにせよ、ディアナはアラントルに戻る。これからは領主の娘として静かに暮らそう。城の中で今まで通りの生活を送りながら、今までより世の中を知る努力をしよう。 

「・・・そろそろ宿に着く。宿に着いたら、何も考えずにゆっくり休め」 

「ありがとう御座います、殿下」 

ふと王子の手首に何かが括り付けられているのが見えた。袖に隠れてよく見えないがは紐のようだ。窓から差し込む光のせいなのか、紐は淡く光っているようにも見える。途端にトクンッと心臓が跳ね、何かがディアナの脳裏を過る。過った物を追い掛けようとして目の奥が急に熱く感じ、開けていられなくなる。 

「あの・・・、そ、れは」 

「それ? ・・・ちょっ、ディアナ!」 

閉じた瞼の裏で、陽の光を弾く水飛沫の光景が広がる。その水飛沫がゆっくり、驚くほどにゆっくりと地面に向かって落ちていく。それを目で追いながら、ディアナも深い眠りに堕ちていった。

  

 

「おい、速度を上げろ! ディアナが気を失った」 

ギルバードが馬車の扉から顔を出し、並走している双子とレオンに叫ぶと、驚愕の表情が振り返った。魔道具の御者が速度を上げた馬車に近付きながら、レオンが大声を出す。 

「ディアナ嬢は、一度、目を覚ましたのですか?」 

「少し前に目を覚ましたが、話している内に急に気を失った。気を失う前にアラントルに向かっていることだけは話せたが・・・やはり、解毒剤の副作用なのか?」 

「殿下が何か変なこと言ったんじゃないのぉ」

「そうそう! やっぱり帰したくないとか、キスしていいか―とか」

「そんでディアナ嬢が気を失ったと」 

「言うかっ! ともかく、急げっ」

 

エディとオウエンを睨み付けて扉を閉めるが、ぐったりと眠るディアナを見るとギルバードは眉を寄せてしまう。実は気付かない内に、何かディアナが気を失うようなことを話していたのだろうか。いや、目が覚めてから数日しか経っていないのに、周りが賑やか過ぎたせいかも知れない。穏やかに静養してもらいたいと確かに思っていたのに、レオンの忠告を無下にしてギルバードは何度もディアナの部屋に足を運んでしまった。

その上、してはならないと己を律していたはずなのに気付けば許可なくディアナを抱き締めるという失態を何度も演じている。気晴らしになるだろうと街で家族への土産を買うことを勧めたが、逆に礼の品を買わせるという気遣いをさせてしまった。

体調が戻ったとはいえ連続して街に出掛け、その上むさ苦しい庭師や騎士に囲まれ、最後は王と宰相だ。ディアナ自身が望んだこととはいえ、侍女として過ごしてきた記憶しかないディアナに皆で頭を下げた。

昏倒するのも当たり前かも知れない。

それに時折だが、ディアナは苦しそうな、辛そうな表情をしていることがあった。それは失った記憶を思い出そうとしていたのか。無理に思い出すなと伝えたが、彼女の性格でそれは無理な話だろう。

 

眠ったままのディアナが楽に過ごせるよう、一番大きい馬車を用意した。その寝台かと思うほど広い座席で眠るディアナの髪を撫でる。髪の長さは戻ったが、肩回りや手首は目に見えて細くなった。食欲は戻ったようだが続けざまに攫われ、毒を飲まされ、幻覚に苦しみ、そして長く眠り続けていたのだから窶れて当然だ。それらに対して申し訳ないと謝罪しても、記憶を失った今のディアナには届かない。逆に世話になったと頭を下げられる始末だ。

手に掴んだはずの幸せな未来が、いっきに手の届かない域へと移動する。 

「俺はいつになったら・・・・君を手に入れられる?」 

アラントルで穏やかな日常を繰り返すうち、ディアナはギルバードのことを忘れる可能性もある。

なにやら王城で貴重な体験をしたようだと肩を竦めて苦笑し、そのまま無かったことにしないだろうか。そうならないよう足繁く通うつもりだ。思い出にされる前に何度も通い、そしてもう一度ディアナの気持をギルバードに振り向かせるつもりだ。・・・・しかし実際には、そのための良策が思いつけずにいる。 

「ディアナ、好きだ。誰よりも何よりも大事で、愛おしくて、好きで・・・・大好きで」 

続く言葉が浮かばず、ギルバードは己の語彙の少なさに歯噛みして項垂れた。 

 

 

馬車の中で突然気を失ったディアナは宿に着いても目覚めることなく、翌日の馬車の中できょとんとした顔で目を覚ました。一昼夜過ぎていることに驚愕し、顔を伏せて謝罪の言葉を口にするディアナを前に、ギルバードは黙って首を振るだけに留める。 

「きっとそれは解毒剤の副作用だろう。だが同じようなことがあるかも知れないから、しばらくの間は常に誰かをそばに置いた方がいい。万が一ひとりの時に外で倒れたら、怪我をする可能性もある」 

くれぐれも注意するようにと伝えると、ディアナは「そうですね」と真摯に頷いてくれた。そもそもの原因を作ったのはギルバードなのだが、ディアナは真剣に受け止めてくれる。 

落ち着いたかと思ったが、しかし二泊目の宿に到着する頃には何度も瞼を閉じそうになっている姿があった。アラントル領に入るとようやく正気に戻ったようで、小窓から見える景色を懐かしそうに、そして季節の移ろいだ風景に目を丸くしながら眺め続けていた。 

 

ディアナの生まれ育ったアラントル領の城に到着すると、執事のラウルが恭しく出迎えた。彼も領主から話を聞いているのだろう。わずかに眉尻を下げ、領主娘を痛ましそうに見つめている。

「お帰りなさいませ、ディアナ様。そしてギルバード殿下、此度は大変お世話になりました。少し前に、魔法導師長ローヴ様もお出でになられ、領主と共にお待ちになっております」 

「はぁ? ローヴが?」 

「え? ええ、はい。応接室にて殿下のお越しを御待ちで御座います」 

ギルバードが思わず振り返ると、レオンたちが肩を竦めて首を横に振る。どうやらレオンらも知らされていなかったようだ。案内された応接室に向かい、叩扉して開けると領主がバネ仕掛けの人形のように立ち上がる。ローヴはゆるりと顔を上げるとディアナを見つめ、柔らかな笑みを浮かべた。 

「ディアナ嬢、無事のお帰り、何よりで御座います」 

「まあ、ローヴ様もいらして下さったのですか」 

予想もしてなかった人物の存在に驚きながら、それでもディアナは笑みを返す。そして両親と執事に向き直り、長い不在を詫びるために深く頭を下げた。

たった半月前には王子と共に過ごす未来図を父親に報告していた娘の変わりように、領主も戸惑っているようだ。それでも頭を下げる娘の肩を、そっと撫でながら領主は「謝ることなどない」と伝えている。

ギルバードは咳払いを落として視線を集めた。

 

「こほっ、リグニス領主。先に送った手紙に認めたように、ディアナ嬢はここ半年余りの記憶を失っている。そのせいか、精神的に不安定な部分が見られる。突然眠気に襲われることがあるため、しばらくの間は、どうかひとりにはしないよう留意して頂きたい」 

「はい、そのように。殿下・・・、あの」 

顔色を悪くした領主に頷き、ギルバードはディアナに向き直る。 

「ディアナ、領主には手紙で説明をしているが他にも話すことがある。慣れぬ馬車での移動で疲れただろうから、まずは少し休んで欲しい。ローヴ、旅の疲れが残っていないかを診てくれ」 

「では、ディアナ様の荷物は私が運びます。騎士様方の部屋は以前お使いの部屋を整えております。いつでもお使い下さいませ」 

「いいよぉ。ディアナ嬢の荷物くらい、俺らで運ぶよ」 

「そんなっ、重いです、オウエン様っ」 

双子騎士がディアナの荷物を抱えて移動を始めると、ディアナと執事が慌てて着いて部屋を出て行く。

その後ろを楽しげな微笑みを浮かべながら歩くローヴに、目で合図をした。――――ディアナをよく診て欲しいと。柔らかく細めた目で返答され、ギルバードは「さて」と領主に向き直る。

 

「まずは前回に引き続き、ディアナ嬢が攫われてしまった。たいせつな御息女を守り切れず、記憶を失わせてしまったこと、深く謝罪させて頂きたい。本当に・・・申し訳ない」 

「謝罪など、そんな畏れ多い。・・・それよりも殿下、書状に書かれていたのは・・・本当なのですか? 半月ほど前、山小屋から殿下自らが娘を助け出してくれた後、再び攫われて、ディアナが・・・毒を、飲まされて・・・侍女として過ごした記憶しかないというのは」 

久方振りに会った娘、ディアナは以前とは違い貴族息女らしい仕草で、だけど以前のように料理を楽しみながら城の者たちと話していた。それなのに毒を飲まされて、王城に行った理由も魔法のこともすっかり忘れてしまったなど、それでは以前のようにディアナはまた侍女仕事を繰り返すのだろうか――――。

顔を覆った手を震わせながら、領主が声を震わせて肩を落とす。

ディアナが舞踏会に参加するために王城に行った後、次期領主であるロンとカーラ夫婦が旅行から戻り、そこでディアナが攫われたが王子自らが救出に向かってくれたこと、その王子からディアナが求婚されていることを伝えたという。突然のことに妻は「まさか」と腰を抜かし、ロンとカーラも目を丸くした。魔法が解けたディアナが戻ってきたら穏やかな日常が戻ると信じていただけに、青天の霹靂だと皆が口を噤む。長く話し合い、最後にはディアナの意見を尊重しつつ、実際に公布されるまでは何が起こるかわからないから内密にしておこうと家族の意見がまとまった。

長く侍女仕事をしてきたディアナが不思議な縁で掴んだ幸せを、心から祝福したいと。

それが一転、先日と届いた書簡を目に、皆が愕然としたという。

 

「本当に・・・申し訳ない」 

今は深く謝るしかないギルバードの隣で、レオンが口を開く。 

「実はディアナ嬢が攫われた件の首謀者が、第二陣を用意していたのです。その者どもに翻弄されながら他国へと渡り、ギルバード殿下自らが追い詰めたのですが、ディアナ嬢は幻覚薬を飲まされてしまいました。エルドイド国瑠璃宮の魔法導師らが総力を以って解毒剤を作り、幻覚は消すことが出来たのですが、まさか記憶までもが消えてしまうとは・・・・誠に申し訳御座いません」 

書状とほぼ同じ内容を伝え、レオンも深く低頭した。 

「そして先ほど殿下がおっしゃったように、ディアナ嬢は突然気を失われることがあります。解毒剤の副作用と思われますが、体調に問題はないと魔法導師長が申しておりました。そして魔法が解けたためか、以前のように殿下に大仰な気遣いをすることはありません。本来の性格は基本変わらず、ひどく緊張することはなくなりました」 

「そうですか・・・」 

事細かく説明されても素直に納得や同意は出来ないだろう。

手の届かない場所で、親の知らぬ内に娘の記憶が失われたのだ。突然気を失うことがあるなどと聞かされて安堵することは難しい。それでも領主はギルバードたちの謝罪を受け入れ、大きく頷いた。 

「日常生活に支障がないのでしたら問題は御座いません。その副作用の気を失うことも、徐々になくなるでしょう。ここで、アラントルでのんびりした生活を送るうちに。・・・・殿下、もう謝罪は結構で御座います。ディアナを殿下自らがお助け下さったこと、深く感謝申し上げます。そして国王陛下を始めとして、王城に従事される皆様方にも感謝致します。ディアナを見守り下さり、ありがとう御座います」 

立ち上がった領主に深く頭を下げられ、ギルバードは瞠目した。さすがディアナの親だと呆けてしまう。王族に対して屈従している訳ではなく、心からこの現状を受け入れ感謝しているとわかる。 

そして領主は深く息を吐き、表情を硬くしてギルバードを見つめた。

 

「殿下、どうかディアナのことはお忘れ下さいませ」 

「・・・はぁ? ど、どうして俺がディアナを、わ、わ、忘れなきゃならない?」 

突然話が変わり、ギルバードはテーブル上に身を乗り出した。急な展開に声がひっくり返り、同時に頭に血が上る。レオンも驚いた声で領主に問い質した。 

「リグニス様っ、それはどういう意味ですか? ディアナ嬢が襲われた件は不問にすると、助けてくれて感謝すると、今おっしゃったではないですか」 

「謝罪が足りないなら、いくらでも何度でもする。だ、だが、ディアナを忘れろと言うのは無理だ。前にも伝えたはずだ、俺はディアナを妃にしたいと。今回、このような目に遭わせてしまったが、俺はどうしてもディアナを妃に迎えたい。だ、だから!」 

「殿下、そうでは御座いません」 

領主のきっぱりとした声色に、ギルバードは眉を顰めて息を飲んだ。 

困ったような顔でひとつ息を吐いた領主は、静かに膝上の掌へと視線を落とした。 

「我が先祖が戦で活躍したのは過去の話。見てわかる通り、アラントル領は特産品や名産品にこれといったもののない、ただの田舎です。ディアナは、その田舎領主の娘です。・・・・殿下にも以前申し上げた通り、親としては穏やかな生活して欲しいと望んでおります。ですからどうか、ディアナが記憶を失ったことは・・・神の思し召しとして、お忘れになって頂きたいのです」

 

滔々と語る領主の言葉に、ギルバードは声を失った。

目の前の男が何を言っているのか、理解することが出来ない。理解したくない。

ディアナが記憶を失ったのは解毒剤の副作用だ。時折眩暈を感じたり、気を失うことがあるが、それは記憶が蘇る兆候かも知れない。それをローヴに診てもらっている今、親である領主から忘れてくれと言われて納得など出来るはずもない。それ以前に、アラントルが田舎だからなんだと言うんだ。田舎領主と己を蔑み、その娘が妃になるのは神が許さないなど、どうしてそんな話になるのだ。それでもディアナ自身が欲しいと、望むのは今のディアナだと何度も告げてきたはずだ。

そして同時に理解する。

多くの貴族は自分の娘を王太子妃にさせようと躍起になり、舞踏会では派手に着飾らせて少しでも近付けようと策謀するのに対し、リグニス領主は真逆の態度を見せる。娘には穏やかな生活を送って欲しいと、家世繁栄よりもディアナ本人の幸せを第一に考えている。そんな親だからこそ、ディアナは侍女として働くことが出来、魔法が解けてからもギルバードを尚もいっそう惹きつけるのだ。

硬い表情のままの領主が視線を逸らさずにいるから、ディアナを想う親としての言葉が深みを増す。

先々苦労するだろう王城での生活より、記憶がないならアラントルで穏やかな生活を営んだ方がいい。

以前はギルバードの手を握り、ディアナ自身が領主を説得した。ともに歩く決心を持つことが出来たと。その決心すらもディアナの記憶にない今、領主は本心からギルバードを慮って言ってくれたのだろう。ディアナを忘れてくれと。

その気持ちがわかるからこそ、四肢の感覚が朧気になり、目の前の光景が暗くなっていく。

 

「ですが領主。ディアナ嬢の記憶、全てが消えてしまったとは言えません。副作用で一時的に消失している可能性もあります。時間の経過とともに思い出す可能性も残されております。ですからディアナ嬢本人の意思を無視して話をまとめるのは早急に思います。もしかしたら明日にでも思い出されて、殿下の姿を探すかも知れません」 

「レオン様。もし・・・、もしもディアナが全てを思い出したとしても、あの娘は思い出したことを口にはしないと思います」 

「そっ、・・・・」 

レオンはそこで唇を噛み、ソファに沈み込む。眉を寄せ、領主の言葉が正解だと得心がいったようだ。

その気持ちは分かる。アラントルに戻ってきた今、全てを思い出したディアナは黙って日常を繰り返すだろう。領主の言うように、これは神の思し召しだと、ギルバードには二度と係わるべきではないと、思い出した記憶のすべてを心の深い場所に沈めるだろう。 

―――共に未来を歩もうと誓ったのに。 

しっかりと握り込んだ掌から水が零れるが如く、未来が零れ落ちていくような気がした。零れ落ちたものは形を変え、二度と元には戻らない。ディアナの気持ちは、二度とギルバードに振り向かない。

 

「――――いや、俺は諦めないぞ。ディアナが思い出したことを隠して、もう自分のことは忘れてくれ、相応しい女性と一緒になれと言われても、俺は納得出来ないし、する気はない。いいか? 俺を筆頭に、国王も、瑠璃宮の魔法導師も、皆がディアナが妃になることを望んでいる。時間が掛かろうと、万が一ディアナが身を退こうと、領主が反対しようと、俺は絶対にディアナを妃にする!」 

「し、しかし、殿下」 

「領主、俺は頻繁にアラントルに来るからな。思い出した瞬間に立ち会えるよう、足蹴く通うつもりだ。国王にもそのことは伝えてあるし、ちゃんと承諾も得ている。自分の妃を誰にするか、それは俺が決める。一度はディアナも頷いてくれたんだ。思い出した途端、身を退こうとしても、その前に掻っ攫う!」 

「殿下、それではただの盗賊ですよ。・・・まあ、領主。そういうことで御座いますので諦めて下さい。ディアナ嬢を再び振り向かせるために、殿下は必死に足掻くことでしょう。ですが、ディアナ嬢が殿下の本性を知り、呆れて逃げ出したいと心から望むようでしたら私にご連絡を。私も独身ですし、宰相である私の親もディアナ嬢を好ましく思っておりますので」 

「レオンっ! ・・・まあ、そういうことだ」 

「いえっ、そうで、は・・・しかし、・・・でも」

 

口にしてしまえば、簡単なことだと笑ってしまう。自分はディアナを諦めるなど出来ない。記憶がなくてもディアナはディアナで、何の障害にもならないのだ。こんなにも希う相手はディアナだけで、自分でも執着していると呆れてしまうほどだ。そんなところは親であるアルフォンス王と酷似していると自覚し、母アネットも苦労しただろうなと苦笑してしまう。

だが好きで好きで、仕方ないのだ。ディアナに二度と会えないと考えるだけでも辛い。

二度と記憶が戻らないというなら、再び好きになってもらえるよう努力するだけだ。一度は結婚に同意してくれたんだ、まるっきり可能性がない訳じゃない。通うことも許されないなら、本当に攫うしかないだろう。 

「これからも時間ある限り、ディアナに会いに来るつもりだ。それからディアナに何か異変があれば、即座に連絡してくれ。あとで城から伝達用の鳥を用意する。魔道具だから餌などは必要ない。鳥に声を吹き込み、解き放つだけで勝手に城に向かう」 

それから他には、と考え込むギルバードの横で、レオンが領主に紙とペンを用意させる。

レオンは手早く注意書きを記すと領主に差し出し、柔らかく笑んだ。

 

「ディアナ嬢は殿下にとって、失うなど考えることも出来ないほどの大事な御方です。きっと幼い頃に二人が会ったのも、運命という絆が導いたのでしょう。記憶が蘇った時、ディアナ嬢もすぐに殿下に会いたいと願うと、私たちは心より信じております」 

「・・・前にも申し上げましたが、ディアナは・・・」 

「ディアナ嬢がいまのディアナ嬢でおられることが必要なのです。そのままの彼女を殿下は望み、求めておられます。もう本当に、見ている方は胸やけを起こすほど殿下はディアナ嬢にメロメロなんですから。ディアナ嬢を救うためなら他国の王城破壊も平気でされますし。あ、首謀者の王女は殿下とディアナ嬢の御子がお生まれになるまで魔道具に閉じ込めておく予定です。ですが、あのような物がいつまでもエルドイド国にあると思うだけで気持ちが滅入りますので、ディアナ嬢にはどうしても妃になって頂き、殿下の御子をお生みになって頂きませんとなりませんね」 

「・・・・え? た、他国の城を破壊・・・ひ、姫? 閉じ込め?」 

はい、と大きく自慢げに頷くレオンは、最大級の笑みを浮かべて呟いた。

「本願が叶い、やっと拝見することが出来ました。思っていた以上の破壊力を間近で感じることが出来、私は大変満足しました」

輝かしい笑みを湛える侍従長の顔を、領主は奇異なものにでも出遭ったかのように見つめていた。 

 

 

 

 

 

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