紅王子と侍女姫  117

 

  

ギルバードたちが戻ると、部屋にいたアラントル領主夫婦とロン、カーラ、長姉アリスンが強張った顔で立ち上がった。祭り会場でロン夫婦から人知れず騒動があったと聞いた領主が、家族と共に急ぎ城に戻って来たのだ。双子騎士から不埒な輩がアラントル領地に不法侵入したが即座に捕らえて無事に解決したと笑まれても、ディアナが関わっていると知り、皆は落ち着けないままギルバードたちの到着を待ち続けていた。

レオンが焦燥が滲む皆の顔を見回した後、小さく咳払いを落とした。 

「まずは春の訪れを祝う祭りの日に、リグニス家の皆様方には再びの御心労をお掛けしてしまったこと、心より深くお詫び申し上げます」 

ギルバードとレオンが揃って腰を折ると、悲鳴にも似た声が上がった。 

「殿下っ、レオン様、どうか頭をお上げ下さい! 騎士様より話は伺っております。お蔭様でディアナは無事でしたし、祭りに参加していた領民は何も知らぬまま、いまも宴を楽しんでおります。悪しき者の不法侵入に気付かれ、王城より急ぎ足を運んで頂いたことに感謝こそすれ、殿下にお詫びされるなど必要はまったく御座いませんっ」

領主の慌てた声にレオンが首を横に振り、「いいえ」と続けた。 

「ギルバード殿下の発言により、リグニス家の皆様には多大な迷惑を掛け通しです。それも落ち着いたかと思われておりましたのに、未だ不穏な輩がアラントルに忍び込むのを許してしまったのは、こちらの落ち度。謝罪は当然のことで御座います」

 

殊勝に語るレオンを前に、領主を始めとしてディアナの家族は困惑の表情を浮かべている。ギルバードが着座すると双子と魔法導師は部屋を退室し、レオンが鷹揚に語り出した。 

「我が国の王太子殿下との婚姻を望む国は多く、その形振り構わぬ愚行にて、アラントル領主及びご家族様に多大な迷惑をお掛けしたことを、繰り返しお詫び申し上げるとともに、これから話す提案を御受け入れ頂けたら幸いに思います」 

「・・・提案、ですか?」 

柔和な笑みをカーラとアリスンにだけ向けたレオンが大きく頷く。頬を染めた二人に満足したレオンは、領主とディアナに向き直った。戸惑う表情のディアナを前にギルバードが固まる横で、レオンは急に申し訳なさそうな表情になる。肩を落とし、そろりと領主を見つめ、そっと吐息を零す。

 

「・・・皆様ご承知のように、ギル殿下のお気持ちはすでに定まっております。他国の方々にも、何度もお伝えしておりますのに、またも愚行に走る輩が懲りもせずに現れました。ディアナ嬢には本当に申し訳のないことで御座います。悪しき輩の愚行は阻止できましたが、ディアナ嬢の御心は深く傷ついたことで御座いましょう。申し訳なさに涙が零れ落ちます・・・」 

取り出したハンカチで顔を覆うレオンに、ディアナが「傷ついておりません」と慌てた声を出す。哀しげに見える笑みを浮かべたレオンは大仰に鼻を啜り、「そこで」と話を切り出した。

 

「ディアナ嬢がリグニス城を出た途端、ディアナ嬢に接近しようとした者が現れた事実。これは、このまま放置する訳にはいきません。捕らえた者は王宮管轄下において厳しい詮議を行いますが、第二、第三の者が来ないとも限らない。そこで如何でしょうか。しばらくの間で結構です。ディアナ嬢に、王城に来て頂くというのは」 

「・・・・え? お、王城に、ディアナを、ですか?」 

領主は戸惑いの声を上げた。

それもそのはず。やっと末娘が戻って来て、まだ半年ほど。狙われた娘を護ってもらえるのは有りがたいが、今度また王城に行ったら、今度はいつ戻ってくるのだろう。 

領主は妻や娘たちに視線を向け、不安に顔を曇らせた。ギルバードがどれだけ真摯にディアナを想っているかは承知している。記憶を失った経緯も、それを戻すために必要なことも、全てを包み隠さず話してくれた。深い愛情をもってディアナを慈しんでくれているのは、重々承知だ。 

それでも再び遠く離れた王都に、それも王城に連れ行かれるのかと、即座に返答することが出来ない。

代わりのようにロンが口を開く。

 

「レオン侍従長殿。年明けからの騒動は、落ち着いたはずではなかったのですか?」 

「そのはずでした。アラントル領に届けられた書簡、王城に届いた書簡には漏れなく正式な返答を送っております。今後、ギル殿下へ見合い話を持ち込むことをお止め頂くようにと。ギル殿下にはすでに決まった御方がおり、それをアルフォンス国王陛下もお認めになっておられると。―――まあ、もう少し政治的手法を用いた書面内容となっておりますがね」 

滔々と語るレオンの横で、ギルバードは動揺が顔に出ないよう唇を固く結んでディアナを見つめ続けた。今の話を聞いて、ディアナはどう思っただろう。面倒なことに巻き込まれたと呆れてはいないだろうか。今回の一件で、ギルバードに係わるのは御免だと思っていないだろうか。 

 

「ディアナ嬢、あなたはギルバード殿下に求婚されていたということを、ご存知ですか?」 

レオンからの問いに、ディアナの瞳が大きく見開かれる。戸惑うように右へ左へと揺れ、やがて小さく頷き、「はい」と答えた。 

「王城で目が覚めた時、殿下より、そう伺い・・・ました」 

「それはそれは、天が落ちてきたかと思うほどに驚かれたでしょうねぇ。まさか自分が、何があって、こうなったのだと、茫然となさったことでしょう。ですがディアナ嬢はそれをお受けになり、あとは幸せの階段を上る一歩手前まで行かれたのですよ」 

僅かに顔を強張らせたディアナは頷くでもなく、周囲がそれを知っている事実に黙って耳を傾けている。

 

そうだ。ディアナが無事に目覚めたら全ての問題は解決すると、あの時はそう思っていた。

公式に婚約を発表すれば国内外から持ち込まれる厄介事も消失する。そうすればディアナを守ることが出来るのだと、慈しむことが出来るのだと、一番近くで微笑むディアナを抱き締めることが出来るのだと信じていた。多少の面倒事が舞い込もうと問題ないと思っていた。 

実際は多少どころかディアナの記憶が消えていたという大問題が生じたのだが、それも受け取り方次第だと今は思っている。視覚聴覚触覚などに問題はなく、身体的にも損傷はない。ディアナ自身は記憶がないことで精神的に落ち込んだだろうが、年末にはギルバードに笑顔を見せてくれた。もし何か問題があったとしても、それを補うのは自分の役目であり、どんなことをしても愁いを払うと何度も誓った。 

記憶に関しては、これ以上解毒剤を作って飲んでもらっても無駄だろう。それを承知で、カリーナたちは未だに日々研究を重ねている。本来携わってはならない、人の心に関することに、禁忌と知りながら。それには密やかながら王から許可が出ていることをギルバードは知っている。 

ギルバードの周囲のみんなが、ディアナとの未来を待ち望んでいるのだ。 

「まあ、ギル殿下からの求婚話は捨て置いても構いません。私がこれからお話する件には一切関係ありませんので。ディアナ嬢。あなたを王城にお呼びしたいと申し出た理由は、教育に関してで御座います」 

「―――教育、ですか?」 

「はい。貴族子息は長子であれば世継ぎとして王都の学問所で学ぶことを課されております。長子以外は強い希望があれば同じように学ぶことも出来ましょうが、王都外では従騎士として騎士団に入隊する者が多いでしょう。ロン殿もそうですね?」 

レオンから急に話を振られたロンが、それでも「そうです」と、頷きを返す。 

「そして王都に住まう貴族息女の一部は、王城にて特別教育を受けています。これはあまり公にはなっておりませんが、殿下の姉上方が教育を受けられる際に同じ年の頃の貴族息女を招いたのが始まりです」 

「ああ・・・、そう言えば聞いたことがあるな」 

レオンの言葉に、ギルバードも思い出す。

ひとりふたりに教えるのも、十人に教えるのも同じこと。知識はたくさんの者で分かち合えばいいと、そして広めるべきだと聞いた覚えがある。王妃が亡くなったことで姉上たちが寂しくならないよう、王が心配ったのだろうとも聞いた。一堂に集められた貴族息女は誰が王族かも知らずに仲良くなり、事実を知った後でも気を遣うことなく今も懇意にしている友人が多いと姉が話していたのを思い出す。

 

「王都にある図書館にも匹敵する多くの蔵書、最高の教育、最新の勉学を身に着ける機会をディアナ嬢にお受け頂きたい。それはディアナ嬢だけでなく、未来のリグニス家子息、息女のためにもなりましょう。厳しい面もあるでしょうが、その分、得るものは大きいですよ」 

「・・・・・」 

目を見開いたままのディアナが、身振り手振りの大袈裟なレオンにつられたように頷きを返す。ディアナの姉たちも身を乗り出して話に聞き入っており、流石はレオンだと心の中で拍手喝采した。 

「アラントルの更なる発展のために多くの知識を得る。そして得た知識を上手く循環させる。昔と違い、今は女性も知識欲を高めることが出来ます。それに王宮にある図書の間には、他国の珍しい料理に関する本が何冊も、何十冊もありますよ」 

「・・・っ」 

ディアナの肩が揺れたのを目にして、喰い付いた―――そう思えてしまったのは致し方ないだろうとギルバードは苦笑する。キラキラと輝く瞳に覚えがあり過ぎて、思わず鼻の奥が熱くなるのを感じた。

 

「殿下の求婚を受ける受けないはともかくとして、知識を得ることは、あなたと、あなたの家族が住まうアラントル領のためになります」 

「・・・はい、ぜひ行かせて頂きます。よろしくお願い致します」 

立ち上がったレオンに倣うようにディアナも立ち上がり、深々と頭を下げた。

娘ディアナの決心に、父親である領主は驚いた顔を見せたが、すぐにディアナの背を撫でて同じように頭を下げた。再び王城に行くことを、認めたようだ。

即答に目を瞠ったレオンはちらりとギルバードに視線を流し、鷹揚に咳払いを落とす。

「では直ぐにでも出立できるよう、御用意願います」

着替えなどは王城に置きっ放しの物が多くあるため、最低限で構わないなどの注意を姉たちに伝えると、早速用意すると部屋を出て行った。領主はまたも気を失いかけている奥方を支えながら城内の者たちに伝えに行くと退室し、レオンはロンと共に双子騎士と魔法導師の許へ向かった。

 

 

 

部屋に残されたギルバードの身体から、一気に力が抜ける。

だが頭の中では、夢見るように花が咲き始めていた。

ディアナが滞在する部屋は、以前と同じ場所でいいだろうか。もっと日当りのいい最上の部屋を設えるよう侍女長に伝えたいが、間に合うだろうか。部屋にはたくさんの花を活け、カーテンや天蓋を新しくして居心地良く設えよう。そうだ、東宮の庭園を散策するだけではなく、以前は連れて行けなかった温室に案内するのを忘れてはならない。図書室で料理本を見たあとは、菓子を作ってもらいたい。菓子だけじゃなく、三食作ってくれてもいい。出来立ての料理を一緒に食べられたら幸せだろうなぁ。いや、一緒に食べる。ディアナの手料理を腹が裂けるほど堪能したい。ディアナは大きく目を見開き、そして笑うだろう。その笑みを独り締めしたい。 

 

「殿下、・・・あの、殿下?」

柔らかな声音に閉じていた瞼を開くと、そこには愛しいディアナが立っていた。何があったのかとても心配そうな表情をしており、何の問題もないと伝えたくて彼女を引き寄せる。いつものように抱き締めようとして、何故か胸に鈍い痛みを感じた。見るとディアナの腕が胸を押し出そうとしている。離れようとするかのようなディアナの動きに、ギルバードの手が無意識に動いた。

「えっ!? あ、あのっ」

膝上の重みに、これが正解だと満足する。ディアナが膝上から降りようとするから、落ちないよう膝裏に手を回して固定した。それでも再び胸を押し出そうとするから、何も心配することはないと震えるように揺れる髪にキスを落として背を撫でた。

「でっ、殿下!」

驚くほど近い場所から、ディアナの声が聞こえた。

どうか、殿下などではなく、ギルバードと呼び捨てて欲しい。ぼんやりした頭でディアナを覗き込むと、真っ赤な頬が目に映った。伏せられた睫毛から覗く瞳は潤み、きらきらと輝いて見える。果実のように艶やかな唇が戦慄き、キスをせがむかのようだ。それなのに胸を押し出そうとする手は強く、顔を近付けることが出来ない。 

「殿下っ!!」

いっそのこと押し倒した方が早いだろうかと行動に移そうとする寸前、大きな声に目を瞬いた。 

「え? あれ・・・?」 

「お、大きな声を出して申し訳御座いませんっ。ですが・・・あの」

上擦った声がギルバードの目を幾度も瞬かせる。周りに見えた景色は見慣れた執務室でも、王宮の応接室でもない。薄暗い一室は、しかし見覚えがあるとギルバードは唾を飲み込む。恐る恐る視線を落とすと、何故かディアナが仰け反るような体勢で膝上にいて、さらにギルバードの胸を押しながら顔を真っ赤に染めていた。

またやってしまったのかと顔を顰めながら、出来ればこのまま座っていて欲しいと願ってしまう。落ちないように腰を引き寄せ、密着している体勢も好ましい。

だが、ディアナが困っているのは見てわかる。急に抱き上げられて膝上に座らせたら驚くだろう。これが日常化するよう、今は記憶が戻るのを祈り願うしか出来ない。

膝下から手を抜くと、やはりディアナは離れていった。

 

「ディアナの許可もなく不埒な真似をした。申し訳ない・・・」

「いえ・・・。お考え中のところ、不躾に声を掛けた私が悪いので御座います」

人ひとり分離れて座っているディアナは視線を落としたまま顔を上げようとしない。

無意識な己の行動を恥じながら、ギルバードは咳払いを落とした。

「ディアナ、王城に来る決意をしてくれたこと、とても嬉しく思う。ありがとう」

「いいえ」

少し落ち着いたようで、ディアナがようやく顔を見せてくれた。ほんのりと赤みが残る頬に手が伸びそうになり、ギルバードは大きく息を吐く。 

「覚えてないだろうが、ディアナは王城にいた時にローヴの許で多くのことを学んでいたから基礎知識は記憶に残っているはずだ。だから王都に住まう者たちの生活を覗くつもりで、のんびり過ごして欲しい」

「はい」 

「それと出来ることなら俺と過ごす時間を・・・、いや無理強いをするつもりはないが、ここ数か月逢えなかった分を取り戻す、その機会が欲しい。少しでも記憶が戻っているなら、俺と過ごすことでさらに多くの記憶を取り戻せるかも知れない。だが、もし記憶が戻らなくても安心してくれっ。俺はディアナと添い遂げると決定している。これは譬えディアナでも覆すことは出来ない。俺はディアナが好きだから、心底惚れているから、ディアナに俺のことが好きだと、もう一度言ってもらいたいんだっ」 

「ほ、惚れ・・・っ。・・・す、す、すぅ?」 

「そうだ。もう一度、俺の妃になると言ってくれるまで俺は諦めない。ディアナを、諦めたくない」

「諦め・・・っ」

「俺と過ごしてくれると、どうか言ってくれ!」

 

本当はディアナが胸高鳴らせるような口説き文句を伝えようと思っていた。しかし、どうしても思い付かなかった。結局は直截な物言い、武骨な振る舞いしか出来ない自分に呆れるほどだ。もし、これがレオンに知れたら失笑されるだろうことは間違いない。

しかし、これはこれで自分らしいとも思う。ありのまま綴った言葉の、どこか欠片でもいいから、ディアナの心の琴線に引っ掛かって欲しいとギルバードは願った。 

「殿下。出来ましたら先に、・・・私の話を聞いて頂けますか?」 

少し困ったような声に顔を上げると、ディアナが真っ直ぐに見つめている。真剣な表情のディアナを目にして眉を寄せながらギルバードは頷き、先を促した。

 

「殿下が私を妃に望まれるのは魔法で繋がっていた、その償いのためと・・・・そう思っておりました」

「そっ、そんな訳ないだろう! そうじゃなくて、俺は」 

「殿下、申し訳御座いません。もう少し、話しを続けさせて頂きます」 

思わず大きな声を出してしまったが、ディアナは動じることなくギルバードを制する。真っ直ぐな視線に促され、ギルバードは口を閉ざした。 

「殿下と私が魔法で繋がっていた、その経緯は聞きました。その繋がりを解くために王城に行き、その後いろいろあったことも聞きました。怪我をしたり、連れ去られたこともあると。・・・殿下はそのことに御心を痛めて同情され、それで私などを好きになったと、お間違えになっておられるのではないか。そう思うこともありました」 

ギルバードは愕然としたまま、滔々と語るディアナの顔を見つめた。

ディアナが怪我したこと、連れ去られたことに心を痛めたことは確かだ。か弱い、愛しい存在を護れない自分を激しく罵ったほどだ。しかしディアナを好きだと自覚したのは怪我をさせたからではない。恋心を同情とか償いなどと同列に扱われるのは辛すぎる。 

直ぐに話しを断ち切りたいと拳を握った時、ディアナが柔らかな笑みを浮かべた。 

「まだ、全ての記憶が戻った訳ではありません。思い出した記憶が直ぐに消えてしまうこともあります。王宮で過ごしたはずの半年間の記憶の中に、殿下の御姿を拝することはなく、私などとどうやって殿下が慕い合うようになったのか、・・・・今も思い出せないままです」

 

静かに語るディアナを目にして、ギルバードの唇は開くことを止めた。彼女がこの先何を口にするのか、悪い想像しか出来ずに目を逸らしそうになった。ディアナが柔らかな笑みを浮かべているから目を離せずにいるが、次に何を言い出すかと息が詰まりそうになる。 

何より嫌なのが、今のディアナが口にする、自分などという言葉だ。あれは夢に逃げ込んだディアナが何度も口にしていた言葉であり、魔法が解けてもディアナの核となっていた。王城に連れてきたばかりの頃は、自己を貶めるような言動を見せていた。本来なら侯爵家の娘として美しく装い、優雅に過ごしていたはずのディアナは十年近くも侍女として働き続け、家族でさえも敬うようになっていた。

それはすべてギルバードが未熟であり、愚かだったせいだ。ディアナを幸せにしたいと心から願うのに現実はギルバードに甚く厳しく、思うように事を進めてはくれない。  

記憶を失ったディアナに、また同じように説得しなくてはならないのか。好きになった女性を蔑むなと、身分や立場などは関係がないと、ディアナが心から納得出来るまで繰り返し伝えなくてはならないのか。それが厭だという訳ではない。しかし、咽喉を締め上げるような切なさに苦しくなる。 

 

「リグニス家は名ばかりの侯爵家で、アラントルは田舎です。王城主催の晩餐会や舞踏会に参加した者もおりません。アギナ皇国からいらした方がおっしゃっていたように、殿下に相応しいお相手は高名な貴族息女や他国の王女様なのでしょう。・・・・ですが、それを考えると胸が痛むような、疼くような感じがするのです。反対に、殿下が下さった言葉の数々を思い出すと胸が温かくなります。す、す、好きと伝えられても直ぐに受け入れることも応えることも出来ませんが」

「ああ、それは仕方がないと判っている。それでも俺は」

「でも、殿下。自分は、確かに以前の自分ではないようです。・・・以前の私なら、殿下を前にこうして話をすることさえ烏滸がましいと、きっと逃げ出していたはずです。一緒に時を過ごすことなど畏れ多いと、お顔を拝することさえ出来なかったはずです。私が変わったのは、思い出せない半年の間に、殿下を始めとする皆様が御尽力下さったからなのでしょう」 

ギルバードは、ディアナの言葉と声色に目を瞠った。

以前の自分とは違うと、ディアナは口にした。ギルバードの言葉を思い出すと胸が温かくなると言ってくれた。それは――――何を意味するのか。  

「貴族の娘として、私はまだ至らぬことばかりです。殿下からの御提案を心より有りがたく受け取り、王城で多くのことを学びながら、記憶が戻る努力をしたいと思います。どうか、よろしくお願い致します」

 

頭を下げるディアナの艶やかな髪を見つめるうち、ギルバードは目が潤みそうになった。少しではなく、大きな前進だと拳を握る。逢えずにいた間に何があったのか分からないが、ディアナは大きく変わった。それも嬉しい方向に。

 

「お、俺の方こそ、よろしく頼むっ! ああディアナ、嬉しいよ! 嬉しくて嬉しくて、このまま王城まで飛べそうなくらいに嬉しいよ!」

感情の赴くままに手を伸ばしそうになり、ギルバードは己を叱咤した。

今は駄目だと、今は我慢の時だと必死に言い聞かせる。

しかし、気付くと既にディアナは腕の中で、両手で真っ赤に染まる顔を覆い震えていた。

淑女に対する騎士としての振舞いとレオンとカリーナの剣呑な表情が脳裏を過ぎり、直ぐにこの手を広げなくてはいけないと思った。ディアナを困らせてはいけないと。

そう思うギルバードの腕はしかしディアナを解放することなく、きらきらと輝く髪に口付けながら背を撫で続けていた。

 

 

 

 

  

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