紅王子と侍女姫  118

 

 

「・・・・殿下には、恋愛に至る前の甘美なひと時を愛しむ、そういうお考えはないのでしょうか。愛しく思う相手の一挙手一投足に、時に心浮かれ、時に焦らされる時間を甘受するという、高尚な考えは皆無ですか? 愛しい女性の唇から紡がれる言葉を想像し、胸に広がる甘美に酔い痴れる・・・。または震える睫毛の下から垣間見える新緑の如き瞳の色を脳裏に浮かべ、その視線が自分に向けられることを恋い焦がれる・・・。そのように秘めやかで甘やかな一時一時を楽しむ余裕が、ギルバード殿下には全くないように感じられ、同じ男として残念でなりません」 

 

大仰な嘆息を零しながらネチネチと喋り続けるレオンの隣で、ギルバードは肩を落とした。 

レオンの言っていることは難解過ぎて、ギルバードにはどうやっても理解出来る気がしない。もし理解出来たとしても、後の祭りだと乾いた笑いが零れていただろう。

結局はディアナが頬を染めるような上等な口説き文句ひとつ口に出来なかった。出来たことは、好きだ、だから妃になってくれと、心の叫びを繰り返しただけ。おまけにレオンが部屋に戻ってくるまでディアナを抱き締め続けていたのだ。ディアナを前にすると少しも辛抱出来ない自分に呆れてしまう。

 

「ディアナを前にすると、俺は理性を働かせることの難しさを知る・・・」 

「つまり、殿下は理性のないケダモノと一緒ということですね。それよりも、抱き締める以上のことはなさいませんでしたか?」 

ソファに押し倒しそうにはなったが、実際にはその寸前でディアナが止めてくれた。あの時止めてくれなければ、どうなったことか考えるのも怖い。襲い掛かるようにキスする寸前だったなど、レオンの前では口が裂けても言えない。ギルバードが強張った顔を背けると、レオンが呆れたように溜息を吐いた。 

「近いようなことは、されたのですね」 

ディアナ嬢の部屋は東宮外に用意させますと断言するレオンに、ギルバードは目を剥いた。  

「王城で教育を受けられていた貴族息女は、皆様ご自宅よりお通いでした。それは王都に住まう貴族息女だったからです。ディアナ嬢が教育を受けるためには王都に滞在場所を用意するか、西翼宮の客室に滞在して頂くのが基本でしょう」 

「お、お前っ! ディアナとの貴重な時間を削るつもりか!?」 

 

王城の外に住まわれては気軽に逢うことが出来ない。西翼宮は王城内にあるといっても、城外から来た賓客が滞在するための宮だ。その宮にディアナは貴族息女として滞在することになり、そうなると王子といえど、ギルバードが気軽に足を向ける訳にはいかない。

ディアナには何度も気持ちを伝えているが、正式な求婚をし、その返答をもらえたのかと問われると言葉に詰まる。しばらく逢えなかったこともあり、今のディアナが自分をどう思っているのか分からない。だからこそディアナが王城に来ることに歓喜したのだ。記憶を失っていても、二人で過ごすうちに何かを思い出すかも知れない。以前と違い、今度はディアナが望んで王城に来るのだ。時間を有効に使い、今度こそディアナを口説き、花咲く未来に進みたい。

――――だが、西翼宮は東宮から最も離れた場所にある。

東宮は王と王太子が住まう宮であるため四六時中近衛衛兵が警護しており、さらには魔法導師が結界を張っており、限られた者しか出入りできない仕様になっている。一度東宮に招かれたディアナは問題なく行き来できるだろうが、来賓ではない今、ギルバードが気軽に逢いに行くことも、ディアナを呼び寄せることも難しい。

恨みがましく睨み付けるが、レオンは動じる様子もない。 

「殿下、ディアナ嬢は教育を受けに来られるのです。殿下の婚約者として滞在する訳ではありません。それとも先程の逢瀬で、きちんと口説くことが出来たのですか? 殿下の婚約者として王城に来ると、ディアナ嬢が頷かれたのですか? もし違うのでしたら、許可もなく抱き締めるのはお止め下さい」

痛いところを突かれ、ぐうの音も出ない。ギルバードが歯噛みしていると、叩扉の音がした。 

 

「ギルバード殿下、レオン様。お待たせ致しました」 

荷物はまとまり、いつでも出立できるが、アラントルにある馬車では王太子が乗るには粗末なものしか用意出来ないと、ロンと執事が申し訳なさそうな表情を浮かべる。 

「殿下と私は、魔法導師の作った『道』を通って参りましたので馬車は必要ありません。ディアナ嬢を王城にお連れするにあたり、我らが来た時と同じように『道』を使うつもりです。ディアナ嬢の荷物は双子騎士が運びます」 

てきぱきと指示を出すレオンに従い、玄関前に集まった皆は馬車に積み込んだトランクを降ろして双子騎士に渡した。道中に再び襲われないとも限らない。そのための策だと伝えると、領主夫婦は安堵して頷いた。姉ふたりは『道』の前に立つ魔法導師に畏れつつも興味を示し、ディアナをよろしくお願いしますと頭を下げる。 

ディアナの隣にはカリーナがいて、ギルバードが近付くのを阻むような雰囲気を醸し出していた。

ディアナに心酔する者ならでは直感で、何か感づいているのかも知れない。カリーナが訝るようなことは何もないと胸を張って言えないギルバードは、刺々しい視線を避けるように顔を逸らし続けた。 

家族にお別れを伝えたディアナはカリーナに連れられ、あっという間に『道』に消え、続いて双子騎士、カイトが姿を消す。領主に深々と頭を下げられていたレオンが「良ければ、王城に遊びにお越し下さい」と微笑んだ後、ギルバードを振り仰いだ。

 

「リグニス領主、ディアナ嬢は王城にて多くのことを学ぶでしょう。そして、もし滞在中に記憶が戻られたら、めでたい話がアラントル領を賑わすことになるはずです。そうなれば良いと、国王を筆頭に多くの忠臣は心より願っているのです」

突然、レオンから振られた話に、ギルバードは背筋を正して頷いた。

「そうだ。それに記憶がないままで過ごすのは、やはりディアナのためにならない。いや・・・俺が我慢出来ないのだ。ディアナには失った記憶の全てを思い出して貰いたいと、誰よりも俺が心の底から願っている。王城に滞在中はディアナが心穏やかに過ごせるよう、多くのことを学べるよう、そして何より、ここにいる皆が喜ぶような話を届けられるよう、最大限努力すると約束する 

誓いも新たにギルバードが深く頭を下げると同時に「ひっ」と小さな悲鳴が聞こえ、驚いて顔を上げると領主の妻が倒れる寸前だった。

 

 

 

***

 

 

 

『道』を通る間は目を閉じていてとカリーナに言われ、ずっと目を閉じていたのだが、気付くと繋いでいた手が離れていることに気付いた。目を開けると色鮮やかな花々が溢れる広い庭園が広がっていて、ディアナは目を瞠る。東宮の庭園かと思ったが、見覚えのないガゼボや川がある風景に首を傾げていると肩を叩かれ、振り向くとローヴが立っていた。 

「まあローヴ様、お久し振りで御座います。・・・あの、カリーナさんは」 

「ディアナ嬢、お元気そうで何よりです。カリーナとカイトは瑠璃宮に戻りました。まずはお泊りになられる部屋へと案内致しましょう。それから、国王との謁見があります」 

「謁見、ですか?」

「はい。滞在する貴族は必ず国王に謁見するのが決まりなのです」 

あっという間に王城に来ていることに驚く間もなく、国王陛下との謁見があると言われる。茫然としたまま周囲を見回していると、関係のないことが口から零れた。 

「あの・・・、ここは東宮の庭園ではないのでしょうか」 

「こちらは遠方から来られた貴族が滞在する時に使用する、西翼宮の庭園です。今回は魔法を解くために来たのではなく、ディアナ嬢は教育を受けに来られたのですから、東宮滞在は難し・・・・ぶほっ!」

「ローヴ様!?」

 

話しの途中で急に激しく噎せ込み出すローヴに驚き、ディアナは慌てた。彼の顔や首は真っ赤に染まっていて、苦しそうに背を丸めて咳込んでいる。ディアナはふと、これと同じような光景を目にした覚えがあると眉を寄せた。どうしてローヴが噎せ込むのか分からないまま背を撫で摩る。

やがて、ひぃひぃと苦しそうだった息も整い、ローヴは胸を叩きながら体を起こした。 

「・・・ああ、苦しい。いやはや、ディアナ嬢の滞在場所を知った殿下がどれだけ落胆するか。それを想像しただけで息が止まりそうなほど笑えました。今夜、思い出して寝られなくなるかも知れません」 

何と返答したらいいのか分からず首を傾げていると、ローヴは笑いを引き摺りながらディアナを西翼宮へと案内してくれた。

 

「ここですよ」と案内された部屋の扉を開けると、大きな窓が目に入った。広い部屋は基本的に白を基調としており、壁も床も家具も白だ。奥に寝室があり、天蓋付きの瀟洒な寝台が置かれている。部屋にはたくさんの花が飾られていて、甘やかな香りが漂っていた。西翼宮は遠方から来る貴族が宿泊する施設であり、そのため豪奢な作りになっていると説明される。以前ディアナが滞在していた東宮の部屋もとても広かった。違うのは、窓から見える景色くらいだろうか。 

運ばれていた荷物を解き終えたころ、叩扉の音に振り向いた。

見覚えのある衣装を身に纏った王宮侍女が、恭しく頭を垂れて挨拶をする。ディアナが泊まる部屋の専属侍女と聞き、丁寧に挨拶を返すと、くすくすと笑い声が聞こえてきた。侍女の顔をよく見ると、東宮滞在時にお世話になっていた侍女と分かり、細やかな気遣いを嬉しく思った。 

一時間後に国王との謁見になると侍女から聞かされ、ディアナは一気に緊張する。

アラントルに戻ると挨拶したのは半年前のこと。たった半年でまた王城に足を運ぶことになろうとは思ってもいなかった。その半年間のことは何も覚えていないのだけど・・・・・。

項垂れると淡い色合いのドレスが目に映る。双子騎士から贈られたドレスのままで王城に来たが、この衣装で国王陛下の御前に出てもいいのだろうか。

恐る恐る侍女に尋ねると、軽く目を瞠った侍女は柔らかく微笑んでくれた。まったく問題はないと。 

「これからは、どんなことでも、お尋ね下さいませ」 

カリーナのように安心出来る存在が増えたようで、ディアナは「よろしくお願いします」と安堵の笑みを浮かべた。 

 

 

国王陛下との謁見にはローヴが同伴してくれると聞き、安堵の息を吐く。しかし扉が開き部屋に入ると、ローヴはディアナの背を押し、ひとりで進むように言う。足が竦みそうになるのを叱咤して部屋の中央まで進み、深く頭を下げた。 

「やあ、ディアナ嬢。久し振りだが、息災で何よりだ」 

「御心遣い、ありがとう御座います。国王陛下に拝謁賜る栄誉を頂き、心より感謝申し上げます」 

「ああ、そんなに畏まることはない。それよりも、王太子が原因でまたもアラントル領地に迷惑を掛けたようだな。親として、私からも謝罪する」 

国王からの言葉にディアナは思わず顔を上げ、蒼褪めながら首を振った。

 

「いいえっ。こ、国王陛下から謝罪されることなど、何も御座いません。その節は国王陛下より多大な御心遣いを賜りましたこと、深く御礼申し上げます。そして、王宮騎士であるエディ様とオウエン様を長くアラントルに留め、私どもこそ謝罪申し上げねばならない立場で御座います。今回の件も早急な対応をして頂いたお陰で、領地の民は憂いなく祭りを楽しむことが出来ました。国王陛下には面倒を掛け続けておりますのに、色々と御心遣いを賜りまして、本当に、あの・・・多大な御心遣いを賜りまして、感謝の気持ちでいっぱいで御座います」 

一気に喋ったせいか動悸が激しく、目の前が翳みそうになる。伝えたいことが一気に口から零れ落ち、上手く伝えられたか判らない。ディアナはいま自分が何を言ったのか、振り返ることが出来ないほど緊張していた。

 

「ディアナ嬢が気にすることはない。それよりも、アラントル領に現れた他国の者に襲われそうになったと聞いた。大事はなかったようだが、あとでギルバードにはきつく言っておくからな」 

襲われたと聞き、ディアナは思わず顔を上げた。さらには王子が叱責されると聞き、大きく首を横に振る。他国からの使者には指一本触れられていない、王子や魔法導師のお蔭で何も問題は起きていないと伝えるが、国王は「いいや」と浮かべた笑みを深くする。 

「ギルバードに係わったがために、ディアナ嬢の未来は大きく変わったはずだ。覚えのない過去でも、そしてこれからも」

 

僅かに低くなった声色に驚き顔を上げた途端、目の前の歪みが大きくなった。緊張のせいかと目を閉じて深呼吸するが、眩暈は一向に治まらない。腰を落としている体勢は辛い。何かに縋りたい。

このままでは国王の前で失態を見せてしまいそうで、ディアナはそっと隣りを窺った。

しかし、そこには誰の姿もない。いるはずがないと理解する頭の片隅で、どうして誰もいないのだろうと疑問が湧いた。どうして誰もいないのか。――――いや、誰がいると思ったのか。

誰かがいるはずだと視線を向けた自分を訝しく思いながら、何もない空間から目が離せない。

「・・・・っ」

訳の分からない事象を振り解こうとしてディアナは首を振った。膝から力が抜けたように感じると同時に目の前が暗くなり、無意識に伸びた手が宙を掴んだ。

 

  

 ***

  

 

「ディアナが・・・・倒れた!?」 

レオンが続けて何か話しているようだが、それよりも、そんなことよりもと身体が動く。たったいま耳にした報告に気が急き、ディアナに逢いに行くことしか考えられなかった。

しかし腕を掴まれ、足が止められる。睨むように視線を動かすと腕にはレオンの手があった。 

「ディアナ嬢はいま、西翼宮の部屋にて御休み中です。いろいろなことが立て続けにあったための精神疲労によるものだろうと医師が言っておりました。・・・今日はゆっくり休ませてあげましょう」 

「だが、顔を見に行くくらいは」 

掴む手を振り払って扉に駆け寄ろうとするが、レオンが腕を広げて阻止する。

 

「国王より伝言を承っております。『王太子が西翼宮に立ち入るのを禁ずる。ディアナ嬢に会う時間が欲しければ、己がすべきことを為してからにしろ』とのことです。さらに『ディアナ嬢との面会は、正式な手順を踏み、決められた場所でのみ許可する』とのこと。ですから、今日お会いすることは無理です」

「なっ! ・・・・くそっ」

 

淡々と告げられた言葉に眉を顰め、ギルバードは扉横の壁を撲り付けた。

ディアナと一緒に東宮内の想い出の場所を散策しようと夢見ていたギルバードは、ディアナを見舞うことすら出来ない現実に歯噛みする。

ディアナが王城に来たら何をしよう。

まだ案内できていない温室に連れて行き、珍しい花々を一緒に愛でようか。瑠璃宮にある温室も楽しみにしていたはずだ。ディアナが得意とする料理を東宮厨房で作ってもらおうか。またたくさんの菓子を作ってもらえたら嬉しい。騎士団専用馬場で、また一緒に早駆けをするのもいいな・・・。

―――そう夢見ていたのに、正式な手順を踏めなど、嫌がらせとしか思えない。いや、王はそういう嫌がらせが大好きだったと思い出して溜め息が出た。 

ディアナがアラントル領の未来のため、そして新たな知識を得るために王城に学びに来たのは重々承知している。王城所有の珍しい料理本に興味を持ったというのもあるだろう。

だがディアナは、『王城で多くのことを学びながら、記憶が戻る努力をしたいと思います』と、言っていた。その努力の手助けをしたいと思っていたのに、会うことすら出来ないとは何という悲劇だ。 

春祭りの準備で、ディアナはしばらくの間忙しく動いていたと双子から聞いている。

それなのに久し振りに自城から出て祭りに参加すれば魔法結界に閉じ込められ、他国から来た怪しい男に脅される。無事に解放されるも、その日のうちに王城に移動することになり、心細いままに王との謁見があると言われ・・・・。

 

「・・・こうなると想定も出来ず、迷惑を掛け続けている自分が・・・・情けない」 

「その通りですね。予め、ディアナ嬢の心身への疲労を鑑み、王との謁見は翌日にするよう伝えておくべきでした。殿下に任せることなく、私から伝えておくべきだったと、心より反省しております」 

レオンの滔々とした物言いに、俺は王とディアナが会うことなど聞いていないぞと口中で愚痴ながら、ギルバードは積み上げられた書簡に手を伸ばした。いまはいくら書いても減らない書簡を少しでも減らす努力をし、出来るだけ早く面会出来るよう努めるしか出来ない。

 

「では、レオン。ディアナの体調が整い次第、出来るだけ早く面会出来るよう、西翼宮の侍従長に申請してくれ。それと庭師の爺に、早咲きの薔薇を掻き集めてディアナの部屋に運ぶよう伝えておくように」 

「分かりました。殿下は机上の書類を綺麗に消すよう、お努め下さいませ」 

「・・・・わかっている」 

いくらサインしても一向に減らない決裁書類を前に、ギルバードは大きく嘆息した。

 

  

 

 

 

 → 次へ

 

← 前へ

 

メニュー