紅王子と侍女姫  27

 

 

 向かった部屋は王と王子以外立ち入ることの無い部屋だ。

ここなら元の部屋主が残した思念が部屋を包み、他の魔法導師から覗かれる心配がない。

三人掛けのソファに掛けられていた布を取り外し、ディアナに座るよう伝えた。

 

「鍵となる記憶をディアナが思い出し、扉となる痣が浮かび上がった。俺の痣は魔法をかけた時にディアナに向けた手に浮かんでいる。たぶん、ディアナの胸の痣は魔法を受けた場所なのだろう」

 

思わず胸元を見るが、きっちりと釦がしてあり今は見ることが出来ない。痣を見せた方がいいのかと顔を上げると王子も自分の胸を注視しているのが判り、目が合うとじわりと頬を赤らめるから、ディアナの顔もじわりと熱くなる。 

「と・・・、とにかく、胸の痣に向けて魔法をかけてみる、からな!」

「は、はい!」

 

ディアナは当時を思い出して王子に向き直ると、持っていたリボンが淡く輝いたように見えた。そのリボンをじっと見つめながら、魔法が解けたらこれで王子とはお別れになる。そう思うと、また胸の奥から鈍い痛みがディアナを包み込む。

どうして胸が痛むのだろうと思う内に何故か目が潤み出し、瞬きを繰り返しながら王子を見上げると、痣が浮かぶ手の平を向けられた。その手の向こうから王子の瞳が自分を強く見つめていると判った瞬間、ディアナの視界がぐにゃりと歪む。

 

黒曜石のような瞳に紅が混ざる。

黒檀のような艶やかな髪が窓を閉め切った部屋で揺れる。

見たことのある光景。顰められた眉と紅い瞳。私に向けられた強い感情。

目の前に広がる噴水の水飛沫と白い紙片と黒い紙片。 

 

歪んだ視界に痣だけがはっきりと映り、それがとても怖いと思った。目を瞑ると急な動悸と痛いほどの耳鳴りに襲われ、ディアナが耳を塞ごうとすると王子の声が耳に届く。

 

「ディアナ! どこか痛むか? 大丈夫か?」

「だ、大丈夫です。・・・・魔法は解けたの、ですか?」

 

耳を塞ごうとしていた手が王子の手の中にあり、正面に見える王子の瞳は黒曜石に戻っていた。片手が離れ、手の平を見た王子が小さく首を振り、それを見せる。王子の手の平には葉船の痣がまだくっきりと残っていた。 

「殿下が宜しければ、もう一度お願い出来ませんか?」

「・・・・判った」

 

王子の目を見ていたのが駄目だったのかと、今度は最初から目を閉じることにした。

同じような光景が瞼の裏に広がり、動悸と耳鳴りが襲う。ディアナが眉を顰めると、急にそれが消えた。何故楽になったのだろうと目を開くと王子が苦しそうな顔で自分を見つめているのが判り泣きたくなる。無理ならこのままでも構わないと言いたいが、口に出せない。

きゅっと口を結ぶと、王子が強く手を握り締めた。

 

「俺がかけた魔法で眠り続けた時、東宮で声が出せなくなった時、ディアナの許可なく手の甲と額に口付けたら魔法が解けた。それを・・・・試してもいいだろうか」

 

王子からの提案に頭の中が真っ白になる。目を瞬き、そろりと顔を上げると王子の唇が見えるから思わずディナは俯いた。魔法を解くための試しとして、それは妥当だろう。王子の言うように確かに自分は目覚め、声も出るようになった。どんな試しも厭わずに受けると最初に言ったのは自分だ。ディアナは顔を上げると頷いた。 

「どんなお試しでもなさって下さい」

 

そう告げると握られた手が恭しく持ち上げられる。そして、目を瞠ったディアナの前に跪いた王子が一国の姫にするように手の甲にそっと唇を寄せた。

その瞬間、手の先から首筋へと這い上がる感覚は何だろう。

ぞくりと肌が粟立つ感覚に、手の甲に唇を寄せる王子から目が離せない。ゆっくりと離れた王子が自分の手の平を見ると、今度は額の髪を持ち上げた。王子の顔が近付き急いで目を瞑った時、額に触れる柔らかさに今度は背筋を駆け上がる痺れのような感覚に襲われ身震いしそうになる。

 

「・・・口付けても?」

 

何と言えばいいのか判らないまま、ディアナは頷いていた。俯きかけた顔が上へ向けられ、頬に添えられる手が熱い。さっきは急だった口付けが、前置きされると心臓が破裂しそうなくらいに緊張する。そっと重なる唇から、今度は胸が痛くなるほどの自分では説明のつかない感情が溢れそうになり、強く瞑った眦に涙が滲んだ。

静かに離れていく唇と手の熱を追うように目を開けると、真っ赤な顔の王子が自分の手の平をじっと見て、首を傾げる。

 

「・・・痣は消えないな。ディアナの痣は・・・っと! あ、あの、俺は見ないから自分で確かめてくれないか? もしかしたらディアナの痣だけ消えているかも知れない」

「わ、判りました」

 

王子が立ち上がり背を向けるから、待たせてはいけないと急いで胸の釦を外す。だけど痣は確かにそこにあり、意識して見つめると熱く感じた。痛みはないのに熱いと感じる痣を見て、ローヴの言葉がディアナの頭に浮かび上がる。

 

「私の胸にも痣は残っております。・・・・殿下、こんなことを私から申し上げるのは不敬で御座いましょうが、宜しければお聞き下さいますか?」

 

振り返ると釦を外したままの状態で胸を押さえたディアナが真剣な顔を向けていた。思わず胸に目が行きそうになり、背を向けると彼女が沈黙してしまう。

 

「あ、いや! ふ、不敬とかないから、何でも言ってくれて構わない」

「ありがとう御座います。あの・・・・殿下の手の痣と私の胸の痣を合わせながら、魔法をかけてみるのはどうでしょうか。ローヴ様が痣を扉と言っておりましたので、扉同士を合わせてはと思うのですが。一度、お試しになりませんか?」

 

そういう考えもあるかと感心しながら振り返ると、ディアナの目尻が赤く染まっているのが見えた。もしかして今の試しの数々が厭で泣きそうになったのかとギルバードの心臓が止まりそうになる。何度も口付けた自分が、今度は彼女の胸に・・・・? 

扉同士を合わせるということは、互いの痣同士、つまり痣のある自分の手を彼女の胸に直に触れるということ。ぽかんっと開けた口を閉じることが出来ないギルバードから視線を外したまま、ディアナの説明は滔々と続く。

 

「触れることにより今まで魔法が解けていたのでしたら、可能性があると思うのです。まず、ローヴ様が仰っていらしたように、実行あるのみで御座いますね」

 

勢いよく立ち上がった彼女が俺の目の前で次々と釦を外す音が響くように耳に届けられ、そしてコルセットの紐を緩めて胸の痣を確認する。目が離せないままでいる俺に向かい、ディアナがこれくらいでいいかと窺うように顔を上げるが、見える白い肌と胸の谷間に何を言えばいいのかわからないと悩んでしまう。

それは見てもいいモノなのだろうか。いや、そんな筈はない。

どうしてディアナは平気なんだ。一度、馬車で彼女のコルセットを外したことがあるから平気だというのだろうか。それとも魔法を解くためなら下着や胸の谷間くらい見られても平気だと、それよりも早く魔法を解いて帰りたいと望んでいるのか。

・・・・いや、帰りたいと望むのは当然だろう。

元々無理やり王城に連れて来たようなものだし、彼女は侍女のままの生活を続けたいと願っていた。いや、それは魔法によってそう思っているだけで、魔法を解いたら考えも変わるだろう。考えが変わればディアナも普通の貴族息女として過ごすことになり、水仕事も厨房仕事もせずにドレスを着て舞踏会で優雅にダンスを楽しく踊り、いずれ親が勧める貴族子息と結婚を・・・・。

いやいやいや、まだ彼女は十六だ。結婚は早いだろう。・・・・早くはないのか? 

ちょっと待て、違うだろう! 

今考えることはディアナの結婚適齢期ではなく、何故そんなにも潔く釦を外すことが出来るのかということだ。成人男性の前で、それも他に人が来ない状況で、堂々とドレスの釦を自ら外すして下着姿を晒すなど、彼女は何を考えているのだ。

 

―――それは魔法を解くこと。

 

魔法を解くために何度も試しを行った。時にひどい頭痛に襲われ眩暈に倒れそうになり、それでも続けて欲しいと蒼褪めた顔で訴えたこともあった。無理はするなと押さえ込もうとして、逆に魔法をかけたこともある。彼女はそれでも必要なことだと付き合い続けてくれている。悪いのは自分だと言い続け、困惑した顔を浮かべながらも東宮で過ごし、鍵となる言葉を思い出した時には全身を震わせて泣いていた。

 

「殿下、御手を当てて、どうぞお試し下さいませ」 

胸の下までドレスの釦を外し終えたディアナから掠れた声が掛かる。

確かに胸の谷間から少し左側に同じような痣があった。真白い肌に浮かぶ黒い痣は、まるで咎人に押し当てられた烙印のようにも見え、ギルバードは唇を噛んだ。まだ熱く感じているのだろうかと思いながら、同じ痣が浮かぶ手を近付ける。

 

「・・・男に見られるのも、触れられるのも・・・・初めてだろう」

 

あの時、王城の庭園で自分と出逢わなければ、彼女は侍女として働くことも羞恥に身を晒すこともなかったのに。彼女の痣に視線を落としたまま近付けた手を宙でぎゅっと握りしめた時、ディアナから僅かに恥じらいを帯びた言葉が届けられた。

 

「は、初めてですが・・・・殿下でしたら私は・・・・厭では、ないです」

 

俯いているディアナの表情は見えない。魔法を解くことに手間取っている俺を気遣っての言葉だと解かっているが、開襟したドレスを掴んでいる手と肌蹴た場所が見て判るほどに赤く染まり出したのが見え、何故そんなことを訊いたのだろうと自分自身を殴りたくなった。

ただでさえ恥ずかしさを耐えて見せてくれているのに、魔法をかけた張本人が言葉でも追詰めるとは、自分の学習能力の無さに逃げ出したくなる。

ディアナが羞恥を耐え忍び、魔法を解くためにここまでしてくれている。

それならば自分も自分が為すべきことを早急に行うだけだ。

 

「触れるぞ。・・・・もし痛みを感じるなら直ぐに言ってくれ」

「はい、大丈夫で御座います」

 

波打つプラチナブロンドを背中に流し、広げられたドレスへと手を伸ばす。触れやすいようにと震えながら精一杯胸を反らしているディアナを前に、申し訳なさが胸を締め付ける。彼女がここまで覚悟して頑張っているのに、自分は何を考えていたのか。

痣が合わさるように手を重ね、魔法の反動で彼女が後ろに倒れても支えられるように片手をディアナの後頭部に添えたギルバードは、一度目を閉じて口を開いた。

 

「あの時もディアナは俺の目を見ていたはずだ。以前ローヴに母親の血のせいか、魔法を発動させると俺の瞳が紅くなるらしいと言われた。・・・・その瞳から、目を離さないでくれ」

「はい、殿下・・・・」

 

自分を見つめる黒曜石のような瞳に小さな光が宿ったように見えた。

それは徐々に紅く揺らめき、黒曜石から鮮やかなルビーへと変わる。艶やかに輝くルビーが、まるで炎が舞うように自分を捉えているようで、王子に言われるまでもなく目が離せないとディアナは思った。

こんな綺麗なものを、どうして自分は十年間も忘れていたのだろう。

そうだ・・・。あの時は少年の歪んだ表情に目を奪われたんだ。どうしてそんな顔をするのだろうと悲しくなり、息を吸い込んだ途端に彼は走り去って行った。

そして私は詳細を忘れ、記憶の端に残ったのは少年の辛そうな顔だけ。その辛そうな顔さえ侍女として過ごす内に翳んでいき、思い出すことなど殆ど無かった。王子が何度も繰り返し、私のために謝罪をしていたことを知りもせずに。

 

魔法を解くのは王子を自由にするため。

魔法で繋がっているという私と切り離すため。

 

多忙を極める王子の心痛を取り除けるのなら、胸を見せようが触れられようが、必要だというなら斬り刻まれても構わない。自分は王子がリグニス城に来た時、自分が侍女として過ごしたいがために虚偽の報告を領主である父親にさせるような非情な人間だ。

清廉な王子と魂の一部が共有されているなど、とても信じられない。

これでも魔法が解けないというのなら、いっそのこと息が止まればいい。

胸の動悸が激しくなり目が潤み出した。綺麗な珠玉に見つめられているのが自分であることすら申し訳なく心苦しいが、今は目が離せない。泣かないように瞬きを繰り返していると王子の唇が僅かに震え、何かを呟くように動くのが見えた。

 

呟きが落ちた瞬間、頭の奥で何かが弾けて胸に熱が奔る。胸から王子の手へ、王子の手から胸へと見えない何かが全身を駆け巡り、締め切ったはずの部屋で風がドレスの裾を舞い上げ、ディアナの髪を大きく靡かせた。

それなのに一切の音が聞こえない。

王子が紡ぐ言葉も足元から巻き上げるように吹き上げる風の音も聞こえず、ただ互いを見つめ合う。胸の熱が咽喉を這い上がると同時に口が開かれ何かを唱え始めたが意味は分からない。何を言っているのか、何故突然口が動くのか判らないが、王子も同じように呟き続けているのが判る。やがて呟き終えた王子が支えていた後頭部から手を離し肩を掴んだ。

見開いた目の前で、王子のルビーの双眸に焔が舞う。

血の色に似た焔に焼かれる感覚に包まれ、肌が熱く粟立ち頭の芯が酩酊する。

身体が浮いているようで、沈み込むようで目を閉じそうになる。閉じないように唇を噛んだ瞬間、その瞳が私から離れて行く。

追うように視線を下げると、王子の唇が胸の痣に近付くのが見えた。

 

「・・・っ!」

 

突如熱を持たない焔に包まれた感覚に襲われ、思わず身を捩って逃げ出そうとした。しかし肩を掴んだ王子の手がそれを阻み、胸の鼓動が大きく跳ねる。

怖いと思った。自分じゃなくなる感覚に恐ろしいと、止めて欲しいと抗いたくなる。手を伸ばして振り解こうとするが、王子の腕を掴むのが精いっぱいで力が入らない。

 

「・・・っ、・・・は、ぁ!」

 

頭の中いっぱいに舞い始めた紅い紙片が燃え始め、泣きたくなる。恐ろしいほどの消失感に身悶えながら、焼け焦げる紙に手を伸ばして火を消した。自分が自分で無くなりそうな恐怖と悲しみ。必死に焼けて消えゆく紙へ手を伸ばしていると、それらが忽然とまるで淡雪のように消えてしまった。何処に消えたのかと周囲を見回すが何処にも見当たらない。大事な何かが消えてしまったようで、目が潤み出した。消えちゃ駄目だと、それは大事なのだと声を上げて探すが見当たらない。 

 

「・・・アナ、大丈夫か。ディアナ!」

「・・・・あ。で、殿下・・・・」

 

鋭い声に正気に戻り、ディアナは目を瞬き周囲に目を向けた。今いる場所が王子に連れて来られた部屋だと判ると、頭重感に襲われ手を宛がう。

全身が訳のわからない恐怖に震えていて、王子の大きな手が頬を拭う動きに自分が泣いているのだと知る。促されソファに腰掛けても全身の震えは止まらず、王子が胸の釦を閉めてくれるのを、ただ茫然として眺めていた。

 

「・・・互いの痣は消えていると確認した。これで魔法による繋がりは解かれたはずだが、しばらくは様子を見たい。ディアナ、痛みや気持ち悪さはあるか? 涙は止まらないか?」

 

大事なものが消えてしまった喪失感が胸を苛む。それは何なのだろう。

 

「わ、私には痛みなどありません。あの、殿下は大丈夫ですか? ・・・それと、もう少しだけ、ここで座っていても良いでしょうか」

「ああ、構わない。・・・ひどく疲れた顔をしているから、落ち着くまで休んだ方がいい。俺も痛みはないが妙な倦怠感があるから、このまま少し休みたい。隣に座っていいか?」

 

私は耳に届けられる王子の言葉に頷き、共にソファに身体を沈ませた。少し話をしている内に涙は止まったようだが、喪失感は消えてくれない。胸にぽっかりと穴が開いたような悲しい気持ちになるのはどうしてだろうと思いながら、ディアナは目を閉じた。

 

 

 

 

 

→ 次へ

  

← 前へ

 

メニュー