紅王子と侍女姫  40

 

 

自分は何て夢を見ているのか。きっとこの国の貴族息女なら皆一度は想像する夢だろう。

まるで物語の中のお姫様のように王子に求められ、その腕に包まれる。

自分は舞踏会から戻りイブニングドレスを脱ぎ、荷物をまとめ終えてソファに横になったはずだ。重い音が扉で響き、扉を開けると王子がいて、いつの間にかその王子に抱き締められていた。夢のようだと思っていたが、もしかして夢なのかも知れない。

頬を抓ろうとして手が動かないと気付く。王子の腕がぐるりと包み込み、腕が頬まで上がらない。

それならと太腿を抓ってみるが、痛みは感じなかった。

知らずガウンを摘まんでいたのだが、それと気づかずディアナはすっかり自分は夢の中なのだと納得してしまった。夢ならば心の裡を吐露してもいいと、王子に問われたことを夢の中なら正直に零してもいいだろうと口を開く。

 

「殿下は・・・とても優しい御方で、迷惑をかけてばかりの私のような者にも気を配って下さり、長い間何度も私のために謝罪を繰り返して下さる、器の大きな心の温かい人です。そんな御方に好きと言って頂けて、嬉しくない訳がありません」

「いや、元々は魔法をかけた俺が悪いんだから、謝罪するのは当たり前だ。解くまでに十年もかかったのは、俺が自分のしたことを深く理解していなかったからで・・・。そんな俺をどう思った?」

「各領地を巡りながら御公務もされる忙しい御方ですのに、田舎領地の侍女の火傷を気遣い、軟膏を渡して下さるお優しい御方だと・・・。殿下がどの様な身分にも優しい御心をお持ちと知り、このような方がエルドイド国の世継ぎで大変嬉しいと思いました・・・」

 

力を抜いて凭れ掛かるディアナを抱き締めながら、火傷とは何だと、ギルバードは首を傾げた。

しばらくしてリグニス家の城で夜遅くまで働いている侍女の火傷に軟膏を渡した時のことかと思い出す。それよりも水桶に手を突っ込み、水が異様に冷たくなり不思議に思ったことが脳裏に浮かぶ。あの時はまさか侍女がディアナだとは気付かなかった。気付かなかったのに追い掛けてまで軟膏を渡し、その後も気になっていた自分だ。

その後レオンが厩舎で彼女を口説いているところに遭遇した。

いつもの見慣れた光景に口を出す気になったのも、侍女がディアナだったからなのだろうか。

 

「最初から俺はディアナが好きだったかも知れない。侍女をしていたディアナが気になって仕方がなかった。女性の顔や声を覚えるなど今までなかったのに」

「私は・・・・殿下に見つからないよう姿を隠すことばかり考えていました。身分の高い人の前に出ることが、とても・・・厭だった。貴族息女として紹介されるのが怖かった。だから逃げていたのに、だけど殿下は長い間、ずっとリボンに謝罪をしていた。私が忘れていた過去を、ずっと忘れずにいてくれた」

「王宮庭園で初めて会った時から俺はディアナが好きだったのかな。自分が犯した愚かな行為を詫びる気持ちもあったが、この綺麗な髪が日差しに輝いていたのを何度も思い出していた・・・・」

 

彼女の柔らかな髪を撫でた後、自分の言った言葉に心臓が跳ね出す。思わず心に浮かんだままを口にしたが、当時六歳のディアナに懸想していたと告白したも同然だ。

迷子になった、出会ったばかりの幼い少女に一国の王子が懸想を? 

そんな風に受け取られたら間違いなく白い目で見られるだろう。

だけどディアナはゆったりとした口調のまま話し続ける。

 

「魔法を解くためアラントルまで足を運ばれた殿下に、私は馬車の中でコルセットを緩ませたり、背の釦を外させたり・・・。面倒ばかり掛けておりますのに」

「そんなこと! いつでも言ってくれたらいい・・・って、あ、いや! コ、コルセットや背中の釦はディアナが困っていたからで、あ、あの」

「抱き締められたのも、抱き上げられたのも、父以外では初めてです」

 

その言葉を耳にしてギルバードの身体中から、ぶわっと汗が噴き出す。

 

侍女として一生を過ごすものだと信じておりましたから、そんな私が王太子殿下から何度も抱き締められるなど驚きで・・・・。ましてや王宮の庭園で・・・・・く、唇が触れるなど・・・・・、今でも夢の中の出来事かと思っております」

 

覚えがあることだらけで、ギルバードは全身が強張りそうだった。

胸に凭れ掛かるディアナが少しでも動けば、きっと脱兎の如く部屋から逃げ出したかも知れない。不埒な真似ばかりをしている自分が脳裏に浮かび、今現在ディアナの身体を包み込む自分の腕を動かすことも、唾を飲むことさえ出来ずに固まっていた。

ディアナの頭がゆっくりと前に倒れて胸に凭れ掛かって来ても、ギルバードは息を潜めて浅い息を繰り返すしか出来ない。しかし、聞こえて来た言葉に大きく目を見開いた。

 

「・・・その全てが嬉しいと、殿下からの言葉が夢の出来事のように嬉しいと思うのです。好きだと伝えて下さった御言葉が宝石よりも輝いているようで、とても嬉しい」

「嬉しいって。そ・・・れは、ディアナも・・・・俺が好きだと?」

 

そっと肩を掴んで顔を覗くと、まるで酔っているような紅潮した頬と咲き出したばかりのような花の笑顔が見えた。

 

「はい・・・・私は殿下が好きです」

「ディアナの好きは、ど、どのくらいの好き、だ? 尊敬している意味合いの好きか? 俺が間違って受け取らないように、しっかり、はっきり教えて欲しい」

 

眉尻が下がり少し困った顔を見せながら、ディアナが視線を落として瞬きをする。

その仕草さえ胸をときめかせ、このままキスをしたくなるほどだ。

 

「・・・殿下が王女と踊っているのを見るのが辛いと思いました。見たくないと顔を背けてしまうほど、思い出すだけで絵画のようなお二人の姿に胸が苦しくなるほど辛いと・・・・ごめんなさい。私などが、こんな不遜な思いを持つなど申し訳御座いません」

 

揺れる瞳に涙が溢れる。ディアナが眉を寄せて碧の瞳を潤ませながら、自分を好きだと口にした。

しかしその好きはどのような意味なのか、自分の好いように捉えては失敗を繰り返してしまうだろうと、ギルバードは唾を飲み込み再確認をする。

 

「俺が他の者と踊る姿を見るのは厭だと、ディアナは思った?」

「はい・・・・申し訳御座いません」

「誰とも結婚の約束も、婚約もしていないと聞いてどう思った?」

「嬉しいと・・・・思いました」

「俺はディアナが好きだ。抱き締めたくなるほど、口付けたくなるほど、ずっと側にいて欲しいと願うほど好きだ。ディアナの好きは・・・・どんな好きだ?」

 

じっと自分を見上げてくるディアナの視線が痛いほど嬉しい。肩を掴んだ手が震えそうになる自分に戸惑いながら、ギルバードは彼女の言葉を待った。望む言葉が次々に零れる唇を今にも塞ぎそうになる自分を制するのが難しく、だけど最後まで聞こうと深呼吸をする。

 

「・・・こんな感情、初めてで上手く言葉に出来ませんが、最近は殿下を想うと胸が苦しくなって。でも魔法で繋がっていたから私が勝手にそう思うだけだと、殿下の御気遣いもきっと魔法の繋がりが解けたばかりで口に出されるのだろうと」

「そうじゃない。俺もディアナを想うと胸が苦しくなる。だけどそれは魔法とは関係なく、ディアナが好きだから苦しくなるんだ。ディアナを独り占めしたいと、他の者と踊って欲しくないと願い、その願いが叶わないから苦しくなる」

「そう思って頂けて嬉しいです。私も・・・・殿下を独り占めしたい」

 

夢にしては都合の良い夢だとディアナは思った。夢の中なのに王子から熱が伝わり、頭の芯をとろりと蕩かせる。思う気持ちを吐き出せたと深く息を吐くと抱き締める王子の腕に力が入り、自分はこんなにも抱擁を望んでいるのかと恥ずかしくなる。

 

思いも掛けない彼女からの言葉に、ギルバードが回した腕に力を入れて柔らかな身体を抱き締めるが、ディアナは抗いもせずに力を抜き凭れ掛かる。しっとりと濡れた髪に頬を寄せてキスを落とすと彼女から零れた吐息が首筋を擽り、ゾクリと肌が粟立った。

 

「俺は・・・・俺はディアナに独り占めされたい」

「でも殿下はこの国の王太子殿下です。田舎領主の娘にいつまでも殿下が係わっているべきではありませんし、これ以上は・・・・この先は見ているのが辛くなります」

 

幸せに酔っていたギルバードの耳に届けられたディアナの口調が一転して苦しげに聞こえ、眉を顰めた。彼女の口から聞こえて来たのは身分を気にする言葉だ。

それは最初から彼女が気にしていることであり、だけど自分自身は何も気にしていないこと。

彼女の『好き』は好意以上のものだと確信出来たが、素直に口にしながら何故頑なな態度が続くのかと悲しくもなる。

 

「何が辛い? 俺はディアナに側に居て欲しいと望んでいる。ディアナが好きだと伝えている。見ているのが辛いと言うのは何故だ。何故そんなことを思う?」

「殿下は高貴な身分ある御方です。私の想いは殿下には届かないと承知しております。それに殿下は私に口付けされた後・・・・・ローヴ様からの問いに何もなかったと仰いました。私のような者に口付けされたことを無かったことにしようと」

「そ、それは違うっ!」

 

突然聞こえて来た大きな怒声に、ディアナの意識が現実世界へと放り出される。

身体に巻き付く腕の強さに痛みを感じ、目を瞬いて手を動かすと触れる衣装のはっきりした感触に震えが走った。

思ったのは―――まさか、だ。

自分の身体は何処に凭れ掛かっているのか、包み込む温かさは何処から来ているのか、今自分は何処にいるのか。それらがひとつひとつ理解出来ていくとともに、ディアナは蒼白になる。

抓った足が痛くないから夢だと思っていた。自分は夢を見ているのだと。

だからこそ吐露出来た言葉だったはず。

それを、まさか王子に伝えていたのだろうか。

 

「・・・・え?」

「それは違うっ! 俺が勝手に・・・許しもなくディアナに口付けたことをローヴに知られると煩いから、思わず口にしたことだ。無かったことにしたいなど思ってもいない!」

「え? ・・・ゆ、夢じゃ・・・?」

 

背に回っていた腕が離れ、王子の手が肩に置かれて身体が離される。凭れ掛かっていた胸が視界にはっきりと見え、ディアナは顔が上げられない。まさか今まで自分が口にしていたことを全て王子は聞いていたのだろうか。自分が何を口にしたかを思い出すと、じわじわと身体中から汗が滲み出るようで、羞恥に指先までが痺れたように震え始める。

 

「ディアナの許可を受けてから口付けするべきで・・・、いや違うな。互いの好きという気持ちを確かめ合ってからキスすべきだったんだな。ディアナが俺のことを好きだと言ってくれて嬉しい。・・・・キスしてもいいか?」

「・・・え? あ、あの」

 

大きな手が頬から耳を包み込み、真っ黒な瞳が熱を帯びて直視してくる。

狼狽して呆けたままのディアナに近付く顔が一瞬止まり、窺うように首を傾げた。

王子が何をしてもいいかと訊いたのか頭の中で繰り返そうとして、そして唇が重なる。

 

薄く開いたままの唇に柔らかな吐息が落ち、啄むように繰り返される口付け。

目を大きく見開いたままのディアナは軽く吸い上げられる自分の唇が、誰の唇と重なっているのか信じられない思いで息を吸おうとした。その瞬間差し込まれる柔らかく濡れた感触に息が止まる。咥内から耳へ響く濡れた音と絡まる舌の感触に、思考も身体も全てがその動きを止め、頭の中が真っ白になった。

驚きに動きを止めたディアナは掻き抱くように引き寄せられ、口付けは深まっていく。

真っ白に染まった頭の中が徐々に赤く染まり、鼓動がかつてないほど跳ね、息が出来ない苦しさが胸や頭に響き出す。耳奥でガンガン鳴る脈動と王子の手から伝わる熱。

どこかで、もう駄目だと叫ぶ声が聞こえ、そこでディアナの意識が途切れた。

 

 

 

柔らかな身体を抱き締め、夢心地にキスを繰り返していると急にディアナが脱力し、全身が凭れ掛かって来た。彼女の気持ちを知った衝動に身を任せて深いキスをしてしまったと、慌ててディアナの顔を覗くと瞼を閉じてぐったりしているのが判る。

 

「ディ・・・ディアナ? あ、あれ? ディアナ!? 息が!」

 

くたりと脱力する身体にギルバードは慌てた。頬を軽く叩きながら何度も名前を呼ぶと瞼がひくりと動き、ゆっくりとディアナが目を開く。いったい如何したんだと急ぎ抱きかかえてベッドに寝かせ、呆けたような表情で自分を見上げるディアナの頬を撫でる。

 

「く、苦しくなったのか? 今は大丈夫か?」

「・・・・口を塞がれては息が・・・どうしたらいいのか判らず、私」

 

ゆっくりと呼吸を繰り返すディアナを前に、ギルバードは真っ赤になった。

気持ちが通じ合ったばかりだというのに性急な深い口付けをした自分が恥ずかしくなり、それほどまでに彼女を求めているのかと身悶えしそうになる。ローヴに言われた『好きだと叫びながら抱き締めるようなことが無いように、ましてやそれ以上の事に及びませんように』の言葉が頭いっぱいに広がり、まさにその通りになったと羞恥に燃えるような赤い顔を腕で隠した。

 

 

  

 

 

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