しかし戻って来た従者からの報告を耳にして、ギルバードとレオンは一気に蒼褪める。
立ち上がったギルバードは机に置かれた自分の手が信じられないほど震えているのを感じながら、扉近くで低頭する侍従を強く見据えた。
「こんな時間に・・・・ディアナが部屋から出たと?」
「は、はい! 部屋前の近衛兵はそう申しておりました。・・・・殿下からの手紙を持った侍従が部屋を訪れ、殿下の指示だとディアナ嬢を伴い、部屋を御出になられたそうで」
「ギルバード殿下! 直ぐにローヴ殿をお呼び出しして探索を」
「俺の名を騙り、・・・・・誰が・・・・ディアナを」
「殿下、まずは落ち着いて下さい!」
レオンの声が届くがギルバードの目の前は真っ赤に染まり始め、周囲が揺らいで見えた。
頭の中には何故、何処へ、誰が自分の名を騙ってディアナを呼び出したのだと疑問が吹き荒れ、そして彼女にカリーナを呼び出すための魔道具を渡してないことを思い出す。自分の不甲斐無さに胸が憤りに痛み、ギリリッと重く鈍い音が咥内から聞こえ、同時に手の内でペンが折れる音が響く。窓枠が今にも割れそうなほどガタガタと激しく鳴り出し、卓上の書類が床へ舞い落ちた。
「ギル殿下っ! 落ち着いて下さい!」
レオンの声に顔を上げたギルバードは、顔を蒼褪めて怯える侍従の背後に見えた扉に手を伸ばし、抑え切れない感情を向けて開き、黙したまま足を向ける。肩を強く掴まれたが、それを激しく振り払って低く掠れた声を絞り出した。
「・・・レオン、落ち着くことなど出来るはずもなかろう。騎士には俺が直接話を聞く。手紙から相手を探し、そのまま相手の許へ飛んで鉄槌を下してやる!」
「三十分で・・・・いえ、十分で結構ですから私の話を聞いて下さい!」
「そんな暇はないっ!」
「ギルバード殿下っ! 先ずは落ち着くのが先決です。魔力が暴走するのを止め、状況を判断してから動く方が得策でしょう。まずは私の話に耳を傾けることです!」
滅多にないレオンの大声にギルバードは動きを止め、息を荒げて振り向いた。肩を掴んだままのレオンの厳しい顔が自分を覗き込むのを歯噛みしながら見つめ返す。
「・・・・解かった、話を聞く」
「まずは状況を把握しましょう。侍従は急ぎ王宮へ向かい、宰相へ詳細を報告するように。殿下は魔法導師長をお呼びしてディアナ嬢の部屋へ向かって下さい。このまま苛立ちの感情で魔法を暴走するようなことになれば、後にそれを知ったディアナ嬢が哀しまれますよ」
レオンの言葉を耳に、ギルバードは苦々しい思いで大きく息を吐いた。
深呼吸を繰り返す内に渦巻いていた闇色の感情が多少薄れたのを感じつつ、未だ震える手を持ち上げて指輪に唇を寄せてローヴを呼び出す。空間が攀じれ険しい表情のローヴの姿が現れた瞬間、ギルバードは手を伸ばして袖を引き寄せた。
「ローヴ、ディアナが部屋にいない、攫われた可能性が高い! 今すぐに王城の門を閉めろ!」
「直ぐに閉めましょう。殿下、まずは私の衣装から手を放して下さい。殿下の感情が火花のように溢れており、何があったのかは概ね理解出来ました。・・・・殿下が魔法を暴走させること無く落ち着くことが出来たのはレオン様のお蔭ですね」
「こういう時のための侍従長ですから」
柔和な表情に戻ったレオンが礼を取り、ギルバードの手を静かにローヴの衣装から外した。
そしてギルバードの顔を覗き込み、目を細めて笑みを浮かべたレオンは、自分は宰相の許へ向かい出来る対策を講じて来ると部屋を出て行く。
その姿を見送り、ギルバードは全身から力を抜いた。
「・・・レオンがいなければ間違いなく部屋を吹き飛ばしていただろうな」
「では、ディアナ嬢の部屋へ向かいましょう」
背を叩かれたギルバードは唇を強く噛み締めて頷いた。
ディアナの部屋に二人が到着すると、蒼褪めた近衛兵たちが即座に跪き、謝罪の言葉を口にしながら深く低頭してくる。
「お前たち、部屋に訪れた侍従の顔に見覚えはあるか」
「それが・・・。先ほど殿下の伝言を携えた先触れの侍従に驚き、その前に来た者は誰だと二人で顔を見合わせたのですが・・・何故か、その者の顔も衣装も朧気で・・・思い出せないのです」
「私も同じです。男だったとしか・・・・、申し訳御座いませんっ」
近衛兵たちは困惑の表情を浮かべ、額に手を宛がい眉を寄せた。
東宮の客人として滞在するディアナの部屋を訪れるのはギルバードの他、ローヴやレオン、双子騎士だけで、他は食事を運ぶ侍女だけだ。他にディアナを訪れる者はいないはず。それだけに初めて部屋を訪れた人物に注視していたはずなのですがと口惜しげに語る近衛兵たちは、何故思い出せないのか理解出来ないと互いを見つめる。
黙って話を聞いていたローヴが唐突に袖から杖を出し、近衛兵の頭上で大きく振り翳す。
近衛兵は首を竦めながら杖の動きを目で追い掛け、そして幾度か瞬きをした後、驚いた表情に変わると眉を顰めて荒げた声を出した。
「ああ・・・っ、あの者は侍従などではありません! 衣装だけは東宮侍従のものを着ておりましたが、王城内では見たことの無い顔です! そして・・・そうだ、何かを嗅がされた覚えがあります」
「香のような物を持っていて、それを近付けられました。ディアナ嬢にお渡しする品だから、一応確認して欲しいと言われ、それで・・・・香を嗅ぎ、ました」
二人の近衛兵は口惜しそうに語り、跪いたまま深く低頭する。
ローヴはギルバードに振り向き、眉尻を下げた。
「殿下、彼らにはどうやら記憶が曖昧になる魔道具が使われた形跡がありますね。しかし強力なものではない。・・・部屋の中に何か残っているといいのですが、まずは探してみましょうか」
「そうだな。渡された手紙が残っているといいのだが」
部屋に入るとソファには濡れたタオルと、バスローブ、夜着が畳まれて置いてあり、着替えてから部屋を出たのだと解かる。テーブルの上にはローズオイルの効用が詳細に記されたメモ用紙が残されており、書いている途中であったことが判った。小瓶の蓋がテーブルの上に置かれ、薔薇の甘い香りが部屋に広がっている。
ただ、いくら見回してもディアナが受け取ったという手紙は見当たらない。
「・・・ローヴ、この香りを元にディアナを追えないか?」
「この香りを元にですか?」
「そうだ。ディアナは毎晩ローズオイルの試しをしていて、今夜使ったのはこの瓶だろう。この香りを追えば彼女の許に辿り着ける可能性がある。それと俺の魔法が万が一にも暴走しないよう、何か枷となる方法はないか?」
きつく眉を寄せたギルバードの横顔を見つめた後、ローヴはテーブル上の紙を持ち上げた。メモ用紙には今日の日付と使ったオイルの名前や使った感想が細かく書き記されている。入浴で使ったのなら王子の言う通り、香りで追うことが出来るだろう。
問題はギルバードの感情による魔法の暴走だ。
自身でもその懸念があるのか、強く握り締めた拳が震えているのが見える。
今のギルバードを落ち着かせようとリラックス効果のある魔法玉を握らせても、噴火寸前の火山噴火口にバケツの水を掛ける程度の効果しかないだろうとローヴは顎を擦った。
ローヴは手にした杖を持ち上げ床を軽く叩いた。杖がぶつかった床から柔らかな波紋が部屋いっぱいに広がり、それはある場所で留まり淡く光を放つ。
「許可もなくディアナ嬢のお荷物に手を出すのは憚れるのですが」
広がった波紋が軽やかな音を奏でながら淡く光る場所へ導き、ローヴは手を伸ばした。
ソファに置かれたバスローブのポケットから出て来たのは小さな袋。その中には乾いた薔薇の花びらと、見覚えのある古ぼけた紐が入っていた。
「これは・・・・・、ディアナのリボンだ」
「そうです。これは何度も殿下の怒りの感情を抑える役目をされていたディアナ嬢のリボンです。魔法による暴走はしないと、このリボンに誓いを立てて下さい。それが枷となります」
ギルバードの手首にリボンを巻き付けて結ぶと、ローヴは手を翳して呪文を唱えた。
「ディアナ嬢の香りを追えるようにしましょう。緊急時ですので、多少の魔法発動は構いませんが、夜間ですので極力静かに行動するよう心掛けて下さい。対応しきれない場合は速やかに私を御呼び下さい」
「わかった。出来る限り、無茶はしないと誓おう」
「ディアナ嬢の気配は東宮内にはありません。カリーナの『目』で王城内を探索中ですが、城から連れ出された可能性もあります。馬の用意と双子の呼び出しをしましょう」
「頼む。それと、ここまで知りえた分をレオンに伝えてくれ」
頷いたローヴが杖を持ち上げ床を叩くと同時に姿を消し、テーブル上の小瓶から甘い香りが薄い筋を作り廊下へと流れていくのが見え始めた。
ギルバードは右手首のリボンを強く見つめた後、顔を上げて廊下へ出る。ディアナの部屋から流れ出る香りの筋は魔力を持つ者だけが見えるものであると同時に、彼女を連れ去った輩に魔力を持つ者が居たとしても、ギルバードにしか見えないようになっている。
部屋前にいた近衛兵は悔しげな表情で深々と頭を下げ、繰り返し謝罪の言葉を口にした。
「謝罪は無用だ。魔道具を使われてはどうしようもない。この部屋に俺の許可なく誰も立ち入らぬよう、引き続き警護を続けてくれ」
「御意。必要な時は直ぐに御連絡を」
「その時には頼む。ああ、一人は騎士団長へ報告をして各関所の封鎖をするよう指示を伝えよ。これは王宮騎士団副団長としてではなく、王太子からの伝令だと伝えろ」
「は、直ぐに報告致します!」
走り去る兵の背を見つめながらギルバードは強く唇を噛んだ。
ディアナが連れ去れたのは、きっと妃推挙が関わっているのだろう。
突然舞踏会に現れた彼女がレオンに誘われて王座に近い場所に座り、舞踏会では国王や王太子侍従長と踊り、その後は王宮庭園に王太子と共に消えた。それがどんな噂となって注目を集めたことか。
調べたら直ぐわかることだが、彼女は半月以上も東宮に滞在している。自分と共に東宮庭園への散策をするのを見ていた者もいるだろう。それらの行動に対して自分は何の防衛策もしていなかった。
東宮内は魔法陣により守られているから問題はないと安堵していたことが情けないと、ギルバードは回廊柱に拳を叩き付ける。まさかの可能性を考えていなかった自分を悔やみ、不甲斐無さに視界が炎に包まれたかのように揺れ始め、近くの茂みが葉を鳴らし足元から風が舞い上がった。感情を抑えなくてならないと解かっているが、まさかの事態に耳鳴りがするほど昂ぶっていると自覚する。
それでも自重しなければと強く目を閉じて頭を振り、柱に損傷はないかと顔を向けると手首に括られたリボンが目に入った。もうリボンなどとは呼べない代物となった紐を前に、昂ぶっていた感情が次第に落ち着き始め、息を吐くと同時に肩から力が抜けていく。紐を指でなぞると温かく感じ、そして薔薇の香りがしてギルバードは額に押し付けた。
必ず助けると心に刻みながら顔を上げ、香りの筋を追い駆ける。
***
ディアナは異様な振動と音に、目を覚ました。
耳元でガタガタと響く音がして、眉を寄せて周囲を確認しようとして布に包まれていることに気付く。さらに手が背に回った状態で縛り上げられ、足首も動かせない状態だとわかった。口には猿轡がされていて声を出すことも出来ない。
ガタガタという音は馬車が石畳の上を移動している音だろうか。朦朧とした頭が次第にはっきりすると同時に王宮庭園でのことを思い出した。大きく馬車が跳ねた振動とともに庭園で会ったエレノアの苛立った表情が脳裏に浮かび、胸が痛くなる。
王弟の娘であるエレノアは王太子妃になることを望んでいた。
それなのに突然ギルバード王子が田舎領主の娘を連れ戻り、それがいつまでも東宮に滞在し、舞踏会では国王とのダンスを披露したのだ。王太子妃になるはずと思っていた王弟息女であるエレノアが立腹するのも無理はないだろう。国王主催の誕生会にも招待されたと聞けば、エレノアの苛立ちが増すのは仕方がないことなのかも知れない。
王子の気持ちがどうあれ、エレノアからすると邪魔なのは私なのだ。
―――王宮庭園で言われた言葉が甦る。
『自ら辞退出来ないと言うなら、手伝ってあげましょうか』
あれは自分で国王主催の誕生会を辞退することが出来ないなら、王城から姿を消す手伝いをするという意味なのか。もちろん、いつかは自ら王城から出るつもりだった。
だけど、こんな風に姿を消すのは違う。
ふと潮の香に気付き、このまま海に投げ捨てられるのだろうかと考えた。
慌てて縄が緩まないか腕や足を動かし始める。
誰にも気づかれること無く死んでしまっては王子にも両親や姉たちにも申し訳がない。魔法が解けたと報告の手紙を書いたばかりで、今までどんな気持ちで侍女として働く娘を見つめていたのか、やっと両親や姉たちの気持ちが知り得たのに。出来るなら皆の顔を直接見て今までの礼と詫びを伝えたいと、縄が解けるよう必死に抗う。縄が擦れて肌が酷く痛むが逃げ出すためには我慢するしかない。
もし海に投げ捨てられても泳ぐことは出来るだろう。しかしドレスを着たままだと、ましてや袋に入れたまま投げ捨てられたら間違いなく溺れてしまう。せめて手足を自由にしておかなければ逃げることも出来ない。
やがて潮の香りが一層強くなり、馬車が停まったことで港に到着したのだとわかる。
焦りそうな気持ちを抑えて縄が緩むよう手足を動かしていると、馬車の外で聞き慣れない声が聞こえて来た。異国の言葉が幾つか耳に届き、潜められながらも怒鳴っているとわかるような声が聞こえる。何を話しているのか判らないが、荒々しい言い合いにディアナは蒼褪めてしまう。
これは少しでも早く逃げた方がいいと判断し、手足を動かしていると痛みと共に厭な感触がした。縄で擦れた肌から血が出たのだと思うが、今は痛みを耐えるしかない。
馬車が揺れる振動に心臓が大きく跳ね、力任せに足を引き抜くと片足が解放された。
これで走って逃げることが出来ると安堵し、背中側に回された縄も早く解こうと気が急きそうになる。だけど布に包まれた状態で猿轡をされているから熱苦しくて堪らない。クラリと目が霞みそうになり、だけど諦めては駄目だと腕に力を入れた。