紅王子と侍女姫  52

 

 

ギルバードはディアナの突然の行動に動揺しながら必死に抱き締める。少しでも手を緩めると、薄暗い船底で何かに足を取られて壁に激突するか、壁に開けた大穴から凍った海に落ちてしまう危険性がある。激しく狼狽するディアナがいくら嫌がろうが、手を離すなど出来ない。 

「お、お放し下さいっ、殿下っ」

「危ないから走り出さないでくれ! 何を言ったかを、尋ねただけだ」 

「も、申し訳御座いませんっ! も・・・二度と言いませんから」 

「どうしてディアナが謝る!? とにかく暴れずに落ち着いてくれ。俺はディアナが何を言ったのか、それを聞きたいだけで、謝って欲しい訳じゃない」 

「これでは・・・・逃げられません。も、もう、お聞きにならないで下さいませ」 

「わかった、俺が悪かった。もう訊かない。・・・ディアナが嫌がっているのに、何度も訊いた俺が悪いのだな。しつこく尋ねて、申し訳ない・・・・」

 

背後から切なげな声で繰り返される謝罪の言葉に、ディアナは一気に蒼褪めた。

背後から抱き締められ、両手が掴まれているから王子の表情を窺うことは出来ないが、謝らせてしまったことに激しい罪悪感が湧く。 

「あ、いえっ! 殿下が謝ることは御座いません! い、言わせて頂きます」

「いや、ディアナが謝ることはない。大丈夫だ、今すぐに思い出すから待っていろ」 

思い出すと言われ、自分の台詞を思い出したディアナは悲鳴を上げて再び逃げ出そうとしたが失敗する。両手の拘束が解けると同時に走り出そうとしたのだが、あっという間もなく、上体が王子の腕に捕まったのだ。強固な腕の中では逃げることも敵わないが、それでも恥ずかしくて王子の腕を必死に押してもがき続ける。 

「も、もう結構ですから、どうか放して下さい、殿下!」

「待てと言った。直ぐだ、直ぐに思い出すから大丈夫だ」

「いえ、あの・・・っ。殿下、手を放し・・・・きゃあっ!」

ディアナが何度解放して欲しいと足掻いても、王子の拘束は解けない。それどころか、下肢まで抱え込まれてしまった。これでは逃げられない。

 

ディアナが再び逃げ出そうとしていると気付き、ギルバードは抱き上げて膝をしっかりと抱え込んだ。

抱き上げて膝を押さえてしまえば安心と、ギルバードはディアナの言葉を思い出すことに専念し始める。一度は耳に入った言葉だ。それも衝撃を受け、呆けてしまうほどの嬉しい言葉だったはず。何でも言ってくれと伝えたのは自分の方だというのに、折角答えてくれたディアナに聞き返すのは失礼だろうと必死に思い出そうと努めた。

頭が飽和状態になるほど嬉しかった言葉。つい先程聞いたばかりのディアナからの言葉。

忘れるなど有り得ない、有ってはならない。

必ず思い出すぞとギルバードはディアナを抱えたまま立ち上がった。肩口に顔を埋めて震えるディアナの背を撫でつつ部屋の中を徘徊し、顔を顰めてうんうんと唸り声を上げる。止めて欲しいと弱々しい懇願が聞こえるが、止める訳にはいかないと天井を見上げた時、突然ポンッと思い出すことが出来た。

 

「そう・・・・、だ。ディアナは俺に二度と会えなくなるのが哀しい、俺の髪に触りたいと言ったよな? それと、魔法を使った時に変化する、俺の紅い瞳が見たいとも言ったか?」 

「・・・っ!」 

ようやく思い出すことが出来た喜びに満ちた声で問い掛けると、腕の中のディアナが一層大きく震えた。 

「間違っていないか?」と問うと大きく頷くから、やはりそうかと安堵する。 

「ディアナ、幾らでも見ていいと言っただろう。遠慮することはないぞ」 

「あ・・・・ありがとう御座います・・・・・」 

ディアナを抱えたまま長箱の上に腰掛けたギルバードは、言ってくれた言葉の内容が嬉しいと破顔して強く強く抱き締める。しかし同時に、何故ディアナが逃げようとしたのかが判らず、首を傾げて彼女の真っ赤な顔を覗き込んだ。

 

「前を見ずに走ると危ないから止めた方がいい。それと俺も同じ気持ちだと伝えよう。いつもディアナの髪に触れたい、ディアナの瞳を見つめたいと思っている。だが、ディアナの気持は嬉しいが、俺が不甲斐無いばかりに危険な目に遭わせてしまい、それでも俺のことを好きでいてくれるかが心配で堪らない。だから、今の気持ちを教えて欲しい。ディアナは俺をまだ・・・・・好きか?」 

飛び上がらんばかりに大きく震えたディアナからの返答を待っていると、彼女の髪が肩から落ちて耳朶が見えた。無意識に伸びた手が真っ赤な耳朶を撫でると、驚いて顔を上げたディアナの大きく見開かれた碧の瞳が真っ直ぐに自分を見上げるからギルバードは思わず抱き締めてしまう。 

「しょ・・・正直に答えていい!」 

またディアナからの許可もないのに抱き締めてしまったと反省しながらも、彼女に回した腕をどうしても離す気にはなれない。ギルバードが上擦った声で叫ぶと、しばらくしてから掠れた声が腕の中から聞こえて来た。

 

「す・・・・好きで・・・・御座います」 

「そうか! そ、それで・・・・・独り占めしたいと、まだ願ってくれるか?」 

「わ・・・・私の気持ちは変わっておりません」 

「俺のディアナが好きだという気持ちも変わっていない! こんな危険な目には二度と会わせないと誓うから俺の側にいて欲しい。もっと好きになってもらいたいし、髪も触って欲しい。紅い瞳だって好きなだけ見せてやる! 俺もディアナの全てに触れたい」 

「全てに触れ・・・っ!? あ・・・・え・・・・」

「あ、いやっ! それはそのっ、触れたいというのは・・・~~~っ!」 

互いに言葉を失い真っ赤な顔で抱き締めあっていると、突然ギルバードを呼ぶ声が部屋に響いた。

驚きに息を飲むディアナの頭を抱えながらギルバードが指輪に返事をすると、呆れたような溜め息が聞こえて来た。

 

「殿下、ディアナ嬢を見つけたのでしたら見つけたと、報告を下さい」 

「ローヴ、悪い。ちょっと・・・・ディアナの気持ちを確認していたところだ」 

王子が蜜に砂糖を溶かしたような笑みを浮かべて自分を見つめてくるから、ディアナは自分が発火するのではないかと思うくらいに熱くなった。頬を押さえようとすると手を掴まれ、熱を持つ頬にキスが落ちる。声も出ないくらいに恥ずかしく、同時に王子の幸せオーラが伝染したのか口元が緩んでしまうのを止められない。

ローヴの声が聞こえて来たのは魔道具である指輪からだろう。会話の内容からローヴは近くにいないようだが、王子が耳や髪にキスを落としながら何度も好きだと囁くから、ディアナは恥ずかしくて赤く染まる顔を上げることが出来ない。 

好きという感情は不思議だ。

相手の一挙一動に注目し、感情が揺れ動くのを止めようがない。

侍女として一生を過ごすことが望みだった自分が、一国の王子に恋をするなど想像もしなかった。

魔法により侍女として過ごすことになったと王子に謝罪され、その王子に好きだと言われるなど、今でも夢のようで信じられない。全てが夢ですと言われたら、やはりそうかと直ぐに納得できる自信がある。 

――― いや、夢の方がいい。

ディアナは王子の膝上にいる自分に愕然とし、惚けている場合ではないと蒼褪める。

背後から回る王子の手がしっかりと身体を固定しているため身動ぎすら許されない状況だが、一国の王子の膝上に座っているなど間違っていると囲いから抜け出そうとした。

 

「で・・・殿下、もう走り出したりしませんので降ろして下さいませ」

「海上は寒いだろう? 俺が開けた穴から冷たい風も入るし、ディアナを抱き上げていると俺もすごく温かい。あ、もしかしてディアナは・・・・い、厭なのだろうか?」

「厭ではありませんっ。でも、あの・・・・お、重いでしょうし」

「いや、ディアナは軽いぞ。前にも言ったが、ずっと抱き上げていても問題ない」

 

王子からの言葉がどんなに嬉しくても、自分は受け取ることが出来ない。

貴族息女としての振る舞いや会話も出来ない田舎娘が側に居るだけで、王子の名誉が貶められてしまう。王子の気持ちが変わるよう、自分では王子のためにならないのだと判ってもらうよう説得出来る言葉を探すつもりで王城に残ったはずだ。

何度もそう自分自身に誓うのに、王子からの真摯な言葉と素朴な態度を前にするといとも簡単に誓いを忘れ、伝えてはいけない言葉が零れてしまう。何故王子の髪に触れたいと、瞳を見たいと口にしたのか。リボンも王子が望むなら差し上げた方がいい。思い出に持ち帰ろうと思っていたが、目にするたびに王子を想い出して胸が苦しくなるに決まってる。

 

「殿下はともかくとして、ディアナ嬢に怪我はないですか? 寒くはないですか」 

「私は大丈夫です、ローヴ様。殿下が側に居て下さいますので寒さは感じません」 

「そうですか。・・・・寒さなど感じないくらい近くにいるのでしょうねぇ」

「膝上でしっかり抱き締めているからな。俺も暖かくて幸せだ」 

王子が目尻を淡く染めて見つめるから、ディアナは羞恥に身悶えそうになる。

自分の気持ちを隠すことなく率直に伝えて来る王子を前に、隠さなければならない気持ちが溢れ零れるのを止めるのが難しく、嬉しいと思う気持ちが辛いと顔を顰める。 

「ローヴ、甲板にいた船員たちは港へ移動し終えたか? これから船を動かすが、暗闇での移動となるから他の漁船にぶつからないよう、万が一に備えて欲しい」 

「湾内の漁船はすべて移動しておきましたので問題御座いません。ただ、殆どの船員を捕えておりますが上手く隠れた者がいるやも知れません。殿下が船を固定するため周囲に魔法をかけたせいか、私の魔法が弾かれ船倉まで届かないようです。早目の移動をお願いします」 

「わかった。直ぐに移動を始めるが、微調整が難しい。補助を頼む」

 

ディアナを抱いたまま王子が立ち上がる。自分の感情を隠すことは難しく、顰めたままの表情で王子を見つめてしまった。どうしたんだと首を傾げられ、何も言えずに首を振った。

すると何を思ったのか、王子は片手でディアナを抱え直すと明るい声で問い掛けてきた。

「もしかして、怖いか? 船を動かすといっても俺がいるから心配はいらないぞ。船を動かす時に魔法を使うから、ディアナが見たがっていた紅い瞳が見られるし、今なら髪も触り放題だ!」 

「あ・・・っ」 

王子に手を取られて髪に押し付けられたディアナは、艶やかな感触に手を震わせた。王子の黒髪が指から柔らかに滑り落ちる感触に目を瞬くと、嬉しそうに目を細める王子が自分を見つめているのがわかり、胸が痛くて泣きそうなくらい幸せだと微笑んだ。 

「いまの殿下の瞳は星が瞬く夜のようです」 

「甲板に出たら魔性の紅に変わるがな」 

「いいえ、殿下の瞳はルビーのように綺麗です。胸に浮かんだ痣を消すときは間近で見ることが・・・・出来て・・・・嬉しかった、です」 

ディアナは自分の言葉にだんだん恥ずかしくなり、ギルバードの髪から手を離す。魔法を解くために変化した紅い瞳を思い出すと同時に、胸に触れた手の熱と落された唇の感触が脳裏に浮かび、妙なところで言葉を切ったことが殊更恥ずかしいとディアナは顔を伏せた。

 

「どうしたディアナ。顔が赤いが、熱でも出たのか?」 

「いえっ! だ、大丈夫で御座います・・・・・」 

「もしかして攫われたことを思い出したか? もう二度とないと誓うから安心して欲しい。このまま抱いて甲板に向かうから、首に手を回してくれると助かる 

「いえっ! あ、歩けますから降ろして下さいませ」

 

王子のために何も出来ないのに、いつまでも面倒を掛けるのは心苦しい。思わず声が大きくなり、黒い瞳が驚いたように自分に向けられるのを見て、ディアナは泣きたくなった。

触れられることが厭な訳じゃない。だけど申し訳ないと苦しくなる。

それを上手く伝えるにはどうしたらいいのだろう。 

好きというだけで王子の側に居られるとは思っていないし、居てはいけないと判っている。それを王子が求めていても、自分などでは―――――

 

「・・・・縛られていた足は痛まないか?」 

「痛みません。あの、殿下は何処も御怪我などされておりませんか」 

「俺は問題ない。痛むようならいつでも言ってくれ」

 

優しい言葉に胸の奥深くが疼くようだ。だけど王子の気持ちを受け入れることなど出来ない。

王子が伝える好きに、魔法をかけてしまった相手に対する罪悪感が全くないとは言えないだろう。同時に魔法とは関係なく好きだという王子の言葉を信じきれない自分が情けなくて嫌になる。

貴族息女ならば王子からの言葉を真っ直ぐに受け取り、嬉しいと頬を紅潮させて差し出された手を掴むだろうが、貴族息女としての勉強を疎かにして親が泣いても侍女仕事ばかりして来た我が儘な自分では、王子の側に居る資格などない。

それなのに少しでも王子の側に居たいと願っている自分はなんて醜いのだろう。これ以上側に居るのは王子のためにならない。自分は一刻も早くアラントル領に戻るべきだと、ディアナは決心した。 

 

 

 

 

→ 次へ

 

← 前へ

 

メニュー