紅王子と侍女姫  53

 

 

部屋を出ると廊下には闇が広がっており、潮の香に混じって饐えた匂いが鼻をつく。

ディアナは足元から這い上がる冷気に腕を擦り、船の周囲が凍っているなど思いもせずに、薔薇が花咲くこの時期でも夜の海は寒いのですね、と白い息を吐いた。 

「最下層から甲板に上がるには、まず階段を見つけなきゃな。商船の構造は基本似ているから探すのは問題ないと思うが、少し歩くことになるぞ」

「最下層ということは、ここは船の底の方なのですか」 

「そうだな。厨房下の貯蔵庫だ」 

「商船の船底がこんなにも寒いとは知りませんでした。勉強になります」 

「あー・・・・んん。ま、そういうこともあるだろう」 

ギルバードは言葉を濁して廊下の壁に下がっていたランタンに火を燈し、ディアナの先を歩き出した。

しばらく進んでから振り向くと、彼女は物珍しそうに周囲を見回している。どうやら足の痛みや周囲への不安はないようだ。

長箱から解放した後、彼女の顔色は赤くなったり蒼くなったりと、驚くほど様変わりした。助けに来たことや使われた魔法に対して申し訳ないとばかりに蒼褪めたかと思えば、手首のリボンに口付けたり、会えて嬉しいと目を潤ませて頬を染めるなど、感情の起伏が普段と違っているように見える。 

彼女の中で、自分は今どういう立場なのだろうか。 

ディアナから零れる言葉や態度から少しは近付けたような気もするが、嬉しくて思わず近付くと途端に悲しげな表情に変わり俯かれてしまう。触れられることが厭なわけではないようだが、どうして悲しげな表情に変わるのかが判らない。女性心理の機微に疎いと自覚しているだけに、どう動けば正解なのか答えを探し当てることが難しい。

 

 

「甲板に通じる、この階段は先に上がってくれ。急勾配だから、俺が後ろから補助する」 

「い、いいえっ。ここは、殿下が先に上がって下さいませ。あの・・・こ、これほどの急な階段ですと、ドレスを捲り上げなければなりませんので、その・・・・」 

王子の親切を無下にするようで申し訳ないが、ディアナは慌てて首を横に振った。

垂直に近い階段を上るにはスカート部分をたっぷりと手繰り寄せなければ足元が覚束無い。そうなると足が露わになってしまう。コルセットの紐を解かせたり、魔法を解くために胸元を見せたことがあるが、やはり恥ずかしいことは避けたいと告げると王子から息を飲む音が聞こえた。 

「っ! わ、わかった!」 

駆け上がるように階上へ向かった王子を待たせる訳にはいかないとディアナはドレスを手繰り寄せる。

ランタンの灯りが上から投じられ、顔を上げると王子が顔を背けて目を瞑っているのが見えた。気を遣わせているとわかり気が急く。

階段を上がると心地よい海風が頬を撫で、雲が風が流されたのだろう月明かりが甲板を照らしていた。初めて目にする甲板の広さに驚きながらも、ディアナは手早くドレスを整える。

そして顔を上げると、太い帆柱の陰から黒い影が足早に近寄って来るのを目にした。その影が何かを持ち上げ、月明かりがその何かが長剣だと知らせるように浮かび上がらせた瞬間、ディアナは身を翻して王子の背に覆い被さった。

 

「殿下っ!」 

「ディ・・・ッ!?」 

肩の下あたりに鋭く重い衝撃が響き、振り向こうとした王子を思い切り突き飛ばす。背後から迫ってきた影は王子に向かってきた。影が誰なのかはわからないが、王子を狙っていたのは間違いない。王子に近付かせては駄目だと、ディアナは両手を広げて男に対峙した。

だが激しい動悸に息が詰まり、上手く上がらない腕に力を入れようとすると全身が震え、膝から崩れ落ちそうになる。 

「女っ、邪魔をするなっ!」 

「だめ・・・・っ」 

剣を振り上げる男を止めたいと手を伸ばすが、鋭い痛みに顔が歪み、思ったように腕が持ち上がらない。

体当たりしようと膝に力を込めた時、背後からの鋭い声がディアナの背を震わせた。 

「ディアナッ、止めろぉ!」 

悲鳴にも似た怒声を耳に、王子は早く逃げて、と伝えようとして目の前に迫った男に焦る。どちらに対応しようか躊躇したディアナのドレスが突然後ろに引っ張られ、男が振り下ろした剣が腕を掠めた。痛みよりも熱いと感じた腕を庇う間もなく床に転がったが、即座に起き上り手を伸ばそうとするディアナの頭上を、突然まばゆい閃光が奔り抜けた。 

「・・・っ!」 

駆け抜ける雷のような閃光に思わず目を閉じたディアナは、船が大きく揺れる激しい衝撃でまたも床に倒れ込み、頭を強かに打ち付けた。同時に周囲に響く破壊音と振動に身を竦ませると、肩から腕に響く鋭い痛みに呻き声が上がる。 

「ディアナ! 何で、・・・ディアナッ!」 

自分を呼ぶ声に目を開けると紅い輝きが見えた。

ルビーのような王子の双眸と目が合い、痛みを忘れて思わず溜め息が零れそうになる。

だが王子の背後に炎が見え、すぐに逃げて欲しいと伝えたくて口を開くが、息が漏れるだけで声が出ない。狼狽するディアナに、またも怒号が落ちた。 

「動くな! なんて無茶を・・・っ!」 

うつ伏せにされると同時に激しい痛みが奔る。何故と考え、男の剣から王子を守ろうとしたからだと思い出す。王子は大丈夫だろうかと振り向こうとして、腰を押さえられた。片側の肩部分が大きく破られ、温かいものが触れるのを感じてディアナは焦り、渇いた咽喉に無理やり唾を飲み込ませ声を張り上げる。

 

「殿下、か、火事です! 逃げて下さいっ」 

「動くなと言った! こんな・・・・こんな傷を負うなど」 

「まだ、男が近くに・・・! それに火が・・・・、殿下っ!」 

「ドレスの裾を破いて包帯代わりにする。急いで血を止めなきゃ駄目だ!」 

ドレスの裾を引き裂く音が聞こえ、身体が起こされ布で強く縛り付けられた。身体中に響く痛みに顔を顰めながら、早く逃げて欲しいと懇願するが聞き入れられず、剣が掠めた腕にも布が強く巻かれる。

這い上がる寒さに肩を竦めると痛みに顔が歪み、それでも逃げなくては駄目だと顔を上げると王子に抱き締められた。頭と腰を包み込むように回される王子の腕が僅かに震えているように感じて、ディアナは何も言えなくなる。心配させてしまったと申し訳なく思い、余計なことをしてしまったのではないかと鼓動が跳ねる。回された腕からジワリと温かさが伝わって来て身を委ねそうになった。

だが、それどころではない、再び襲われるかも知れないと顔を上げた時、燃える帆柱の陰で影が動くのが見えた。衝動的に立ち上がろうとして王子に止められ、頭を胸に押し付けられる。  

「殿下っ! う、後ろに」 

「いいから、ディアナは動くなっ!」  

頭を抱え込まれて怒鳴られ、ディアナは狼狽した。

今の自分は邪魔ではないのか。王子は床に膝をついた状態で剣を抜くことが出来るのか。

自分などは放り出して欲しいとディアナは震えながら訴える。だが王子は自分を抱いたまま立ち上がり、振り向きざまに襲い掛かって来た相手の腹を蹴り上げた。 

 

「ディアナは俺の肩に顔を伏せて、しがみ付いていろ!」 

「は、はいっ!」  

王子の怒鳴り声に、思わず返答してしがみ付く。今、王子の腕の中で放り出して欲しいと懇願するより、大人しく従った方がいいのは本能的に理解した。帆柱から姿を見せたのは先ほどの男とは別人で、あと何人いるか判らない。甲板の端に移動したとしても、いつ自分が枷になるか判らないから、言う通りにしがみ付こうとディアナは腕に力を入れる。あとは王子を信じて、無事であるように祈るしか出来ない。 

 

「お前がこれを・・・・。我が国の商船に火を放ったのか!」 

「先に仕掛けて来たのはそちらだろう!」  

剣戟の劈く音が背後で響き、ディアナは邪魔にならないよう身体を固くする。片手で抱き上げる王子の負担にならないよう今はこうするしかないが、いつ放り出されてもいいように覚悟だけは決めていた。

ただ、対峙する相手が他にもいるのか心配になる。 

 

「なんてことだっ! これでは外海に出ることが出来ないっ!」 

「出す気はないから安心しろ。か弱い女を縛り上げて攫うなど、この外道がっ!」 

「それは我々の品だ、返して貰うぞ!」 

「我々の品だとぉ!? ディアナは俺のだ、ふざけるなぁっ!!」  

険悪な状況下だというのに、聞こえてきた内容に身悶えしそうになった。上気した顔を隠そうと王子の肩に頭を摺り寄せると、なぜかキスが落とされる。驚きに思わず顔を上げると紅く燃え盛るような瞳と目が合い、口角を上げた王子の唇が軽く重なる。  

「ちゃんとしがみ付いていろ。直ぐに終わらせる」  

こんな時だというのに王子は柔らかに笑みを浮かべている。海風に煽られた炎が帆柱を包み込み、呆けている場合じゃないと思いながらも紅く輝く瞳に魅入ってしまう。再び啄ばむようなキスを落とされ、ディアナは返事も出来ずに顔を伏せた。 

 

 

「お、人数が増えやがったな。・・・・ローヴの奴、漏れが多すぎるぞ」 

「おまえっ、女を抱いたままで敵うと思ってるのか!」 

「こっちにはコレがあるんだ! 女をこちらに渡して降伏しろ」 

四人に増えた船員のひとりが、胸元から拳ほどの鈍く輝く灰褐色の球体を突き出した。

それが魔道具だとわかった瞬間、王弟は魔道具まで勝手にエルドイド国外に持ち出そうとしていたのかと胸糞が悪くなった。ギルバードの歪んだ表情を目にした船員は勝ち誇った顔で球体に手を翳すと、耳慣れない言葉を呟き出す。すると輝いた球から光の矢が放たれ、飛び退いた場所に爆音とともに穴が開く。

攻撃が出来る魔道具など一体いつ開発したのだと眉を顰めるギルバードとは対極に、船員たちは魔道具を宙に持ち上げて賞賛の声を上げた。

魔道具の使い方、その破壊力をわかっているということは、そういう意図の魔道具を欲していたということだ。近隣諸国にも少なからず魔法導師はいるが、魔道具の開発製作に関して我が国はほかの追随を許さず、また魔法を糧に使う品だからこそ厳しい規制を設けている。どの国も全ての魔道具は魔法導師の管理下に置かれているはずであり、他国への持ち出しは厳禁だ。

今回のことが発覚したら瑠璃宮の魔法導師たちがどんな処罰を望むか、考えるだけで恐ろしい。 

こんな輩の相手をするより、一刻も早くディアナの治療をしたい。いっそのこと、このまま港まで飛んで戻ってしまおうかと嘆息を零した。

 

「面倒なことばかり・・・・。あー、お前たち。それを直ぐに返してくれ」 

「こんな便利な品を返せだと? 馬鹿を言うな。上手い話があると持ち掛けて来たのはそちら側だろう。取り交わした正式な書類も揃っているし、出航するのに問題は無い」 

「・・・・夜中に出航するなど訊いてないぞ」 

「そ、それはこちらの都合だ! それなのに突然小娘を連れて来たかと思ったら縛り上げろだの、どこかに売り飛ばせだの、海に捨てても構わないだのと予定外のことを・・・・ひぃっ!?」

 

苛立ちを含みながら呟きを落とした男が、勢いよく空中に舞い上がる。甲板に残る船員たちが驚愕しながら後退り、怯えまじりの視線をギルバードに向けた。

ディアナを片手に抱き上げた全身から赤い靄が立ち上り、突き出した手からバチバチと音を立てて雷のような火花が生じているのを目に、船員たちは口を開けたまま動けなくなる。宙に舞い上がった仲間の叫び声も聞こえず、恐々と空を見上げるも夜の闇に溶けてしまったかのように何も捉えることが出来ない。

ギルバードから醸し出されるのは周りの空気を震わせるほどの怒りそのもので、手から放たれる光が彼の表情を浮かび上がらせる。そこにあるのは明確な憤怒だ。

 

「て、手から・・・・何が・・・・っ?」 

「お、お前っ? 仲間を何処に・・・・」 

船員たちは足元から這い上がる恐怖に後退りながら震える声で問うが、ギルバードは黙したまま腕を持ち上げた。

光り輝く手から放射される稲妻が残った帆柱に叩き付けられ、一瞬にして炎に包まれる。悲鳴を上げて逃げようと反転した船員たちの前に閃光が落ちて燃え上がり、気付けば炎の壁に囲まれている。

逃げ場を失った船員たちは突然の事態に怯え、ギルバードから少しでも離れようとするが、激しい怒りの熱に肌を貫かれて身動きが取れない。周囲の海は凍っていて、うまく逃げられたとしても甲板から飛び降りれば間違いなく大怪我をする。怪我ならいいが、もし打ち所が悪ければ・・・・。 

蒼褪めながら再び振り向くと、炎よりも紅い双眸が狂気を孕み自分たちに向けられていた。

 

 

 

 

  

→ 次へ

 

← 前へ

 

メニュー