紅王子と侍女姫  54

 

 

船員たちが話す内容にも驚いたが、ディアナはそれよりも王子から聞こえてきた歯噛みの音に震えそうになる。触れる腕から王子の怒りが伝わり、離れようとすると拘束が増した。王子の視線は男たちだけに向けられ、周囲の火災には少しも関心が向けられていない。

「ディアナを品だと愚弄した上、・・・・海に捨てるだと?」

「そ、それは・・・・そちら側が言ってきたことだ!」

「殿下っ! それはもう終わったことです。それよりも火が・・・・船が燃えて」

「攫ったことでさえ許しがたいのに、俺のディアナを海に捨てるつもりだったと?」

 

王子の怒りに煽られたように炎が大きくなり、舞い上がった火の粉とともに熱風が頬を舐める。

抱えられたディアナの耳に憤激を滲ませる舌打ちが聞こえ、一刻も早く船から脱出して欲しいと訴えるのだが、王子は船員たちを鋭く見据えたまま動こうとしない。いまにも崩れそうな軋みが足元から這い上がり音を立てて甲板に置かれた小舟が燃え始める。炎が巻き付く帆柱から落ちた檣楼が床に落ちて破壊する音を、ディアナはただ王子にしがみ付いて耐え続けた。

周囲が炎に包まれ崩れていく中、頑として場を動こうとしない王子と、動けずにいる船員たち。

ディアナは熱風で息が苦しいと顔を伏せながら、脳裏に浮かんだ考えに首を振る。激しい怒りに飲み込まれた王子が人を殺めてしまう映像が浮かび、しがみ付いているだけでは駄目だと再び大声で訴えた。 

「そんなことはもういいです! 殿下っ、それより早く逃げ」 

「そんなこととは何だっ!! 助けに来るのが遅れていたら、お前は夜の海に投げ出されていたかも知れないんだぞ! ・・・・・到底、許せる訳がないっ!」 

「そ、それでも、お願いで御座いますっ」

「それ以上は喋るなっ、傷に障る!」 

業火の如く紅く輝く双眸が男たちを見据えたまま、低い怒号が空気を震わせる。まるで燃え滾る鋼のようだとディアナは目を瞠った。王子の怒りはわかる。だが王太子が他国の商船に火を放ち、ましてや船員たちに危害を加えるなどあってはならない。

エレノアの愚かな言動が原因とはいえ、王子であるギルバードが個人的な感情で魔法を暴走させるのはいけないことだ。優しい王子は、あとできっと後悔する。エレノアの怒りの原因が自分にあるなら、王子を止めるのも自分だけだろう。だけど怒りに声を荒げる王子の腕の中、どうしたらいいのかディアナにはわからない。 

その時、逃げ場を失った男たちが魔道具の球を突き出し叫んだ。 

「こ・・・、殺されたくなかったら、新しい商船を用意しろ!」 

「連れて行った船員たちを即座に解放し、船と金を用意して貰うぞ!」 

「あ、あと、早く、仲間を上から下ろせっ!」

 

船員たちの声に王子の髪が揺れ、膨れ上がる怒りが空気を震わせ始めたのが伝わって来る。ディアナは駄目だと王子の肩を揺さ振るが効果は無く、叫ぶ船員たちに近付こうするのがわかり、一層蒼褪めた。

甲板には炎が広がり濛々と黒煙が立ち上がる。

それなのに王子は周囲の光景には一切構わずに足を進めて行く。

紅い双眸を細めた顔は怒りに歪み、初めて会った王城の庭園で手を震わせていた少年と重なる。

ディアナは、また自分が王子にこんな表情をさせてしまったのかと胸が苦しくなった。王子の肩を揺すり懇願を繰り返すしか出来ないのかと、肩を掴んだ手が震えてしまう。 

「殿下・・・。いや・・・、いやです、お願い・・・・」 

無言のまま近付こうとする王子に向かい、船員たちが悲鳴を上げて魔道具を使う。

球から放たれた光の矢が二人から僅かに逸れて甲板の床を破壊し大穴を開けるが、それでも王子の足は止まらない。恐怖した船員が、再び攻撃の矢を放つ。 

放たれた光の矢は真っ直ぐに二人に向けられるがギルバードの片手に弾き飛ばされ、マスト近くに下がっていた滑車装置を破壊した。間髪入れず襲い来る光の矢も弾かれ、キャプスタンが粉々に破壊される。同時に錨を繋ぎとめていたケーブルが切れたのだろう、船底から鈍い音が響き大きく船が揺れ、ディナアはギルバードにしがみ付きながら悲鳴を噛み殺す。 

「お前たちの攻撃はそれだけか? ならば、次はこちらの番だな」

「ひぁ・・・、や、やめ・・・」

「人の女を攫い、傷付け、その上海に捨てるとふざけたことを・・・・」

「あ、あ・・・。助け・・・助けてくれぇっ!」

 

船員たちの悲鳴を耳にして、これ以上は駄目だとディアナは震えた。

怯えながらも攻撃の矢を放つが、それらは船を破壊するだけで王子に当たることはない。

目標を定めることが出来ないほど怯える船員からすでに戦意は消失し、しかし退きたくとも背後は炎の壁に囲まれ逃げ場がない。狼狽した船員たちが頼れるのは手にした魔道具だけだ。追詰めるように近付く王子に向け連続した攻撃を放つが、そのすべてが容易に弾かれてしまう。何をしても駄目だと悟った一人が床にしゃがみ込み、ガタガタと震え出す。引き攣った悲鳴を耳に、ディアナは王子を止める術はないかと視線を彷徨わせた。

視界に飛び込んできたのは王子の片手で淡く輝くリボン。

魔法の暴走を制するために巻いたというリボンが光の矢を弾くたびに悲鳴を上げているようで、このままでは駄目だと手を伸ばした。正気に戻って欲しい、このままでは取り返しのつかないことになると分かって貰いたいと手を伸ばす。

だが受けた傷で上手く動かない腕に顔を顰め、それでも必死に伸ばそうとして強く抱き締められた。やっと気づいてくれたかと顔を上げるが、王子は真っ直ぐ前を見据えたままで、無意識に制されたのだと解かる。ディアナは意を決して王子の胸を押し出し、両手を伸ばしてリボンを掴むために身体を反らした。

 

「なっ!?」 

視界を過る淡い金色の波に驚いた次の瞬間、急に手首を掴まれたギルバードは引き摺られるように体勢を崩した。そしてディアナの身体が床に叩き付けられるのを目にして慌てて膝をつく。だが助け起こそうとして身を屈めたギルバードは、勢いよく起き上がったディアナに手首を掴まれたまま引き寄せられ、何と考える暇もなく顔面に衝撃を受けた。

痛みに顔を顰めたギルバードは目を瞬くと同時に衝撃の原因を知る。驚くほど間近くにディアナの顔があり、どうしてこんなにも近くにいるのだと目を瞠り、お互いの唇が重なっていることに愕然とする。

何故? どうして? 何があってこうなったのだ――――。

ギルバードは目の前の現実を把握出来ずに頭の中が真っ白に染まりそうになった。痛みを訴える唇からジワリと広がるのは血の味で、歯が当たって切れたのかと妙なところで冷静さを取り戻し、いや落ち着いている場合じゃないと離れていく唇の行方を目で追う。

瞳を潤ませたディアナの唇に付着しているのは血だ。・・・・どれだけ勢いよくぶつけたのか。

驚きに呆然としたまま、それでも何か言おうと口を開いた時、常とはまるで違う形相のディアナから信じられないほどの大声が飛び出した。 

「殿下っ! いま殿下が為すべきことを思い出して下さい!」 

「ディ・・・」 

「船を壊したり、燃やすことが、それが殿下の為すべきことですか!」

「・・・・・・」 

熱風に煽られたディアナのプラチナブロンドが頬に触れるのを感じて、ギルバードは顔を歪めた。

泣きそうに顰められた碧の瞳に背後の炎が映り、万華鏡のような輝きから目が離せなくなる。その瞳から大粒の涙が浮かびボロボロと零れ落ちた瞬間、自分が何をしていたのかを理解した。きつく閉じられた彼女の唇が酷く震えていて、胸が痛くなる。

彼女の唇に滲む血を拭おうとして動かない自分の手に、手首がディアナに強く掴まれたままだと気付く。自分の手首を掴む彼女の手は酷く震えており、淡い輝きを放つリボンがその震えに揺れている。彼女はこのリボンを自分に見せようとしたのだろう。

 

「・・・・申し訳、ない」

ギルバードは項垂れ、小さく謝罪の言葉を呟く。

滴り落ちるディアナの涙と淡い輝きを放つリボンが、己の為すべきことは何だと問うているように思え、ギルバードは勢いよく顔を上げて周囲を見回した。 

視界に映るのは魔道具の球を突き出したまま固まっている船員と、その背後で炎に動けずに狼狽する仲間の姿。そして船の現状を目にしたギルバードは痛みを訴える唇を強く噛んだ。口中に錆びた鉄の味がじわりと広がるが、痛みは唇より胸の方が強い。いや、ディアナの方が数倍痛いだろう。

リボンを巻いた手首を掴んだまま震え続けるディアナは、じっと自分を見つめたまま動こうとしない。それはいつもの彼女が纏う控えめな態度ではない。

真っ直ぐ見上げてくる視線は力強く、間違いを正そうとする信念が漲っている。痛みや悲しみに打ち拉がれること無く、為すべきことを行えと強く訴える。その瞳を前にギルバードは宰相から聞かされた言葉を思い出す。

王宮庭園でエレノアが放つ言葉に抗い、さらには王子を敬えと王弟息女を叱責した。扇で頬を叩かれても謝罪の言葉を口にすることなく、背を正して向かい合っていたという。

それを聞き、心が震えたのを覚えている。

聞き伝えられたディアナの本質は、その後すぐに見せつけられた。魔法を解くために必要ならと、彼女は潔く釦を外して痣が浮かんだ胸を見せたのだ。

すべきことに対して彼女は真っ直ぐに行動する。必要だと思うから釦を外し、魔法が解けたと自領に帰ろうとした。直ぐに謝罪の言葉を口にする、一歩退いた大人しげな面を持ちながら、時に彼女はギルバードが思っている以上に行動的だ。王宮庭園の垣根を飛び越えて部屋に逃げようとした活発な彼女は今、俺に叱咤の視線を向けている。 

ギルバードは痺れるほどに強く手首を掴んだままのディアナを前にして、彼女にこんな表情をさせている自分を激しく恥じた。触れているディアナの手が冷たく感じ、これ以上この場に居続けては傷が悪化してしまうと、大きく息を吸う。

気持ちの変化が伝わったのか、ディアナは表情を静かに緩めて手から力を抜いてくれた。ギルバードは未だ微かに震える冷たい手を包み込むと、額に押し当てて謝罪する。 

「・・・・本当に、本当に悪いことをした。暴走はしないとリボンに誓ったのに、ディアナに止められるまで自分を見失っていた。もう・・・・、大丈夫だ」

「はい、殿下はもう、大丈夫です」 

 

安堵の息を漏らすディアナの肩をそっと撫でた後、船員たちへ掌を向けて印を唱えた。

直後、目を見開いたまま動けなくなった船員に近付いたギルバードは魔道具を取り戻し、手を持ち上げ指輪にローヴの名を紡ぐ。二人の横の空気が揺れ動くと同時に姿を見せたローヴは、何も言わずに杖を取出し近くのロープへと向けた。ロープが意志を持ったかのように船員たちを捕縛し終えると杖を振り、彼らを宙に浮かせて港方向へと投げ飛ばす。彼らはそのまま声を上げることなく、あっという間に闇中へと消えていった。

振り返ったローヴは眉を顰めて膝をつき、横たわるディアナとギルバードを見つめる。 

「・・・ディアナ嬢は傷を負ったのですか?」

「ああ、背と腕に傷がある。急ぎ侍医に診せたい。もう船に人は残っていないな」

「はい、皆無となりました。それと殿下の手にある魔道具は鉱山掘削用に開発したもので、他国に渡る予定などない品です。流出経路は詳細に調べる必要がありますねぇ」 

「まあ、出所は容易に想像出来るがな。・・・俺は船の消火をするから、ローヴは急ぎディアナの傷を診てくれ。それとカリーナに東宮の侍医を叩き起こすよう伝えて欲しい」 

「御自身でカリーナへ伝えたら如何ですか?」  

ローヴの言葉にギルバードは苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。

横たわるディアナが「ああ、そういえば」と右手を持ち上げ、小指の先に何か呟くのが視界の端に映ったが、まさか、いま一番会いたくない人物を呼び出しているとは思いもしない。

突然のつむじ風に驚いて振り向くと、悲鳴を上げるカリーナがいた。

「ディアナ嬢! どうされたのですか!!」

「げっ! カ、カリーナ、どうして此処にっ!?」

「何があったのですか! 痛みはありますか? これは・・・・ドレス?」 

顔色を蒼褪めたカリーナは直ぐに跪き、ディアナの腕を痛々しそうにそっと持ち上げ、身体に巻かれたドレス生地に目を眇める。振り向きざまにギルバードを睨み付け、カリーナは杖で取り寄せた大判のタオルや水で手早く血の汚れを拭い始めた。

いくつもの光玉を宙に浮かべて他に怪我はないか確認した後、カリーナは怒号のような叱責を落とした。 

「殿下、何があったのです! どうしてディアナ嬢がこのような傷を負ったのですか! ドレスが裂かれているのは殿下がされたのですか? 何故すぐに移動させなかったのですかっ!」 

「そ、それは不測の事態に動きが取れなくて。ディアナを連れて直ぐに港に戻る予定だったが・・・・。ディアナ、痛いよな。・・・・本当に申し訳ない」

 

 

ディアナは王子の謝罪に首を振った。

怪我をしたのは突然帆柱から現れた男に驚き、王子を守ろうと飛び出した自分の身勝手な行動が原因であり、さらに魔道具を持ち出され、それを取り戻そうとした王子が魔法で攻撃を始めたのは、私が攫われた後の処遇を耳にしたからだ。

王子が謝罪をする必要はないし、カリーナに怒鳴られ肩を竦ませる必要もない。

悪いのは全て自分で、王子に迷惑を掛けてしまう前に早く王城から離れるべきだったのに、もう少しだけ側に居たいと願った浅ましい願いが原因だ。エレノアを始めとして多くの王城従事者が、何故田舎領主の娘がいつまでも東宮に居るのだろうと訝しんでいただろう。いつまでも決断を延ばしていた自分の我が儘に王子を巻き込むつもりなどなかったと、どの口が言えるだろうか。王子が謝るべきではない。謝罪すべきは自分の方だ。

突然這い上がる寒気に躯が震え、目を閉じそうになる。 

その前に王子の顔をもう一度見たいと口に出す前に、王子の腕が伸びてきて抱き締められた。抱き締められては顔が見えないと言いたいのに、深い安堵に気力が尽きたのか声が出ない。このまま目を閉じてしまう前に、もう一度だけ見せて欲しいと服を掴むが、大きな温かい手が眠りを誘うように髪を撫でてくる。

 

「カリーナはディアナを連れて東宮に戻り、急ぎ侍医に診せてくれ。俺はローヴと消火作業を終えた後、船を港へ移動させ、宰相らとともに捕縛した奴らの詮議を行う」 

「わかりました。・・・・殿下、傷の理由はそのまま報告させて頂きます」

「あまり騒ぎが大きくならないよう頼む。まあ、騎士団が港に集まっている上に他国の商船が盛大に燃えていれば、大きくするなと言う方が難しいだろうな。ディアナ、もう少しだけ我慢してくれ。・・・・本当に悪かった」 

王子に何度も謝罪され、それは私が言うべき言葉だと伝えたいが口を開くのも首を振るのも辛くなってきた。言葉にして伝えることが出来ない自分が情けないと眉を寄せると、覆うように身体を包む腕に力が入るのが伝わり、瞼を閉じると同時に意識が遠のいていくのを感じた。このまま眠ってしまうと頭の端っこで焦る自分がいるが、もうどうにもならない。 

「・・・・このまま眠っていてくれ。ごめんな」 

これ以上は謝らないで欲しいと思いながら、ディアナは意識を手放した。手放す寸前、柔らかな感触が額に触れたような気がしたが、それも闇に飲まれてわからない。

 

 

 

 

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