ギルバードはそっと伸ばした手で彼女の髪を撫でた。いつもは柔らかな髪が潮風に晒されたためか少し軋んでいるように感じる。それが悲しいと、申し訳ないと繰り返し撫でていると、ディアナが心配げな視線を向けてきた。
「私は大丈夫です、痛みもありません。それより本当に殿下に怪我は御座いませんか」
「・・・っ!」
こんな時にも自分よりも人のことを気遣う優しい彼女に言葉が詰まる。望んでいた碧の瞳は真っ直ぐに自分を見つめているのに、心配げな色合いに気付き胸が痛む。
ギルバードは撫でていたディアナの髪から手を放し、彼女を見つめ返した。
「俺に傷はない。それより今は痛み止めのせいで感じないだけだから絶対に無理はするな。受けた傷は綺麗に消すから安心してくれ。寝ているところ・・・・悪かった。それと、船の上では・・・魔法の暴走を止めてくれて、ありがとう」
ギルバードが船での礼と謝罪のために頭を下げようとすると掛布が捲られ、驚いて顔を上げるとディアナがベッドの上で正座しようとしているところだった。慌てて押し留めようと手を伸ばすが、目の前の彼女は薄地の夜着を着ているのが見える。
怪我の処置をするのに破れたドレスを脱ぎ、休むために夜着に着替えたのだろうが、二人きりの部屋で夜着姿のディアナを前にギルバードは口を開けて固まってしまった。
柔らかなベッドの上に正座したディアナは両手をつき、真っ直ぐにギルバードを見上げる。その体勢は緩やかな夜着から覗く胸元がばっちりとギルバードの視界に映り、見てはならないと急いで両目を瞑り顔を背けた。背けた耳に聞こえて来たのは、彼女の震える声だ。
「まずは殿下に、お、お詫びさせて下さい。わ、私は王太子殿下に対し、大変不遜な態度を取ってしまいました。どのような刑に処されるとも覚悟は出来ております。しかし叶うなら処分は私だけにして頂きたいのです。アラントルの家族には何の咎も」
「ちょ、ちょっと待てっ!?」
聞こえて来た内容にギルバードは大声を上げて彼女の言葉を制した。もしかして俺に謝罪をしているのかと耳を疑い、何故そんな誤解をしているのだと振り向こうとして思い止まる。
―――今の彼女を直視するのは不味い。
前屈みになっているから胸の谷間がばっちり見えてしまっているのを彼女は知らない。
舞踏会で女性が着用するドレスはデコルテが大きく開いているが、今の状況で彼女の胸元が見えているのは心臓に悪い。愛しい女性の稚い姿に手が伸びそうになるのを精神力で必死に留めるしかない。
騎士道精神を口中で幾度か唱えて息を吐き、ディアナへ上擦った声を掛けた。
「ディアナは刑に処されることなど、何もしていないだろう」
「いいえ! 私は殿下を傷付けました。勝手な行動で怪我を負ったのは自分の責任です。それなのに迎えに来て下さった殿下に怪我をさせた上、暴言を吐きました。どのような刑に処されようとも、既に覚悟は出来ております!」
「覚悟は必要ないだろう! ディアナのおかげで魔法の暴走は止まったし、第一怪我とは何だ? もしかして互いの唇がぶつかったことか? キスしたことで処罰を受けるなら、俺は何度この首を斬られなきゃならない? それに暴言など」
ギルバードはそこで言葉を切った。
思い出すのは碧の瞳が真っ直ぐに自分を見上げ、血が滴る唇から放たれた言葉だ。
『殿下、今為すべきことを思い出して下さい!』
ディアナは俺の手首を強く掴みボロボロと涙を零しながら、魔法の暴走で我を忘れていた自分を叱咤してくれた。彼女からの言葉と痛みが無ければ、自分は真っ赤に燃え滾る怒りを叩き付け、他国の商船を跡形もなく粉砕していたかも知れない。幾ら王子である自分にある程度の裁量が任されていたにしろ、他国の船を粉砕してしまうのは遣り過ぎだ。
それなのにディアナは深く項垂れ、処罰は自分だけにしてくれと想定外の言葉を紡ぐ。
「・・・ディアナ」
「御願いで御座います。・・・長い間、私のことで迷惑ばかり掛け続けて来た両親と優しい姉たちに迷惑が掛からぬよう、殿下の寛大な御心に縋りとう御座います」
震える声にギルバードが彼女を見ると、項垂れたディアナの髪が背から胸元へと流れ落ちるところだった。天蓋から差し込む朝日に輝くプラチナブロンドが悲しげに揺れるのを目にしたギルバードは、困惑の表情で彼女の手に触れる。大きく震えるディアナの手を持ち上げると、掠れた声で必要のない懇願が繰り返された。
「どうか、どうか処罰は私だけに・・・・御願いで御座います、殿下」
「俺は・・・・ディアナが目覚めたら、まずは礼を伝えようと思っていた。魔法の暴走を止めてくれて助かったと。そして謝罪したいと、いや、謝罪しなくてはならないと足を運んだ。怪我をさせてしまい申し訳ない。傷は跡形もなく綺麗に治すから安心して欲しい」
「殿下が謝罪など必要御座いませんっ! わ、私の傷など残っても構いません。殿下に御怪我をさせた、せめてもの償いにでもなれば幸いです。これ以上のお気遣いなど」
勢いよくディアナの顔が持ち上がり、驚きの表情を浮かべて首を横に振る。
ギルバードは悲しい言葉が零れる唇に手を宛がい、話を聞いて欲しいと彼女を見つめる。触れた唇からは胸が痛くなるの動揺が伝わり、謝罪など必要ないことを解かって貰いたいと眉を寄せた。
「俺が話し終わるまで、ディアナは黙って聞いていて欲しい。・・・・いいか?」
やがて彼女が戸惑いながらも頷いてくれたのを確認して触れていた手を離すが、視界に入った胸元に今度はギルバードが戸惑ってしまう。慌てて上着を脱ぎ彼女の肩に掛けると、驚いた顔で脱ごうとするから急いで押し留める。
「は、話を聞いて貰う前にっ、俺のためにっ、この上着を羽織っていてくれ!」
「・・・っ!?」
ぐいぐいと前を引き寄せ釦を嵌めながら懇願すると、ディアナは目を瞠ったまま頷いてくれた。これで精神の安定は得られたと、ギルバードは咳払いをして背を正す。
「まずは、頼むから傷跡が残ってもいいなど言うな。その白く柔らかで綺麗な肌に、見知らぬ者共に襲われた傷跡がいつまでも残るなど、俺が我慢出来ない!」
「や、柔らかとか・・・き、れい・・・など」
途端、真っ赤な顔になったディアナが恥ずかしそうに口籠りながら俯くから、ギルバードは自分が何を言ったか思い返して目を丸くした。
「い、いやっ、見てないぞ! ディアナの肌は、傷の血を止めようとした時に少し垣間見た位で・・・でも夜だから見えなかったんだ。ただ魔法を解く時にディアナの胸に浮かんだ痣を見ただろう? あの時に綺麗な肌だなと、触れた感触も思い出し・・・・あ、いやっ! だ、だから綺麗な肌だと知っているだけで!」
「あ、あの時は・・・・夢中で」
とうとう手で顔を覆ったディアナを前に、ギルバードは己の口を手で覆う。
彼女の前だと自分が何を言い出すかわからない。
ディアナに会ってから何度も急に抱き締めたり、不意にキスをしたりしてきた自分だ。そして今度は胸を見たと、触れた感触を思い出したと彼女に告げた。怪我をして弱っている女性の耳に、淫らな台詞を届けるとは騎士道精神は何処に行ったと自分を詰り倒したくなる。
いや、淫らなのか? 綺麗な肌だと、だから傷を残したくないと言っただけだ。
・・・・・いや、駄目だ。胸を見たと言葉にしたことが問題だろう。
「ど、どうも俺はディアナに対して粗暴な言動しか出来ないが、悪気がある訳ではないと解かってくれ。気にしないでくれたら・・・・・助かる・・・のだが」
「あのっ、殿下が御気にされることは御座いません。大丈夫で御座います、殿下の御言葉に悪気などないと承知しておりますから、どうぞ御気楽にお話し下さいませ」
羞恥に染まる顔から手を離したディアナが、慌てたようにギルバードを見上げた。
また気遣わせてしまったと居た堪れなくなったギルバードは掴んでいた手を握り締める。自分の上着を着たディアナを横目で見ながら大きく息を吐いた。彼女はこれから話すことを真剣に聞こうと真っ直ぐに顔を上げて見つめている。
その心に真っ直ぐに届くよう、ギルバードは祈りながら口を開いた。
「国に住まう皆が幸せだと思えるよう、その国を統べる者はどうしたらいいのか判るか?」
静かな空間に透る王子の声に、ディアナは一瞬、何を問われたのか理解出来なかった。目を瞬きながら問われた言葉の意味を考え、急ぎ頭に浮かんだことを口にする。
「それは・・・・真面目に政務に取り組み、国のためにより良い政策を考え」
「俺の考えは違う。皆が幸せになるためには、まずは自分が幸せになればいいんだ。すごく幸せで、幸せを分かち合いたいと思うほど幸せになれば周りもきっと幸せになる。周囲を幸せにするために、国を統べる者が苦しむのはおかしいだろう?」
「はい・・・、そうですね」
「俺はディアナを幸せにしたい。それが俺の一番の幸せだ。ディアナの笑顔を一番近くで見ることが俺の幸せで、だから俺を幸せに出来るのはディアナだけだ」
「そんなっ! 私などではとても」
「否定しないで聞いて欲しい。・・・・そうだな、今までは王太子としての責務を負うのは当たり前だと思い生きて来た。それに不満はないし側に居る者がいろいろ協力してくれた。確かに陰口や不当な政務が回されたりと辛辣な強風に晒されることもあったが、俺は基本頑丈な上、ディアナのリボンが常に側にあったから悲壮な感情に囚われることが無かった」
王子の口調と表情に、ディアナはふと見たことのある光景だと感じた。
シャツドレスの袖を捲った王子の手首には薄汚れたリボンが巻かれたままだと判り鼓動が跳ねる。目を瞬きながら思い出すのは、魔法を解くために瑠璃宮に足を運ぶ途中、ガゼボで王子に謝罪をした時のことだ。
あの時、王子は私の謝罪を否定し、苦笑混じりに御自身の過去を話してくれた。困ったように私の頬を撫でながら柔らかに話し続け、自分の方が悪いと謝罪を繰り返していた。そして何故か急に王子の黒い瞳が大きく見開かれ、気付けば互いの唇が・・・・。
「ディアナ、熱が上がったのだろうか。顔が赤い」
「い、いえっ! 問題御座いません。どうぞ、御話しをお続け下さいませ」
「カリーナに起こすなと言われたのに、結局は起こしてしまい無理を強いているようだ。話はひと眠りしてからとしよう。ゆっくり休んでくれ」
「いえっ! 本当に大丈夫で御座います。このまま御話し下さい!」
余計なことを思い出した自分が、王子の言葉を遮るなどあってはならないとディアナは身を乗り出した。頬が赤いのは熱のためではない。大丈夫だと伝えるが、心配げな表情を浮かべた王子が顔を覗き込み、羞恥に顔を伏せると身体ごと引き寄せられた。
ぽすんっと王子の胸に頬がぶつかり、驚きに固まると包み込むように王子の腕が背に回り、胸から聞こえる鼓動と熱に、ディアナは目を回しそうになる。
「こっ、このままの方がいい。頼む、不埒な視線をディアナに投げ掛けたくはないんだ。こ、このままで話をさせてくれ!」
王子に抱き締めれらたディアナは言っている意味が解らず、このままでと言われても無理だと首を振るが、王子の腕は離れない。
「俺はこの国が好きだ。国をより良くするためなら、どんなに難しい政務も喜んで引き受ける。もちろん俺ひとりで出来る訳がないのは承知だ。王を始めとして宰相や多くの大臣、レオンや騎士団、皆の協力の下で執り行わなければならない。国のために働けるのは嬉しいことだが、俺はもっと嬉しいことを見つけた」
背に回っていた王子の手が持ち上がり、髪を擽るように撫で始める。羞恥に身動ぎも出来ず、されるがままでディアナは王子の話を聞く。
「俺はディアナが側に居てくれるのが嬉しい。目の色を綺麗だと言ってくれたこともすごく嬉しかった。これからもずっと側に居て欲しいと、俺を見ていて欲しいと望んでいる」
「・・・・殿下」
「ディアナが俺を好きだと言ってくれるなら、どうか俺の側にいてくれないか」
髪を撫でていた王子の手が肩に落ち、寄り添っていた胸から顔が離された。顔を上げると夜色の瞳が真摯に見下ろしていて、ディアナの胸は苦しいくらいに痛くなる。
「ずっと俺の横で、俺の瞳を見続けて欲しい。激昂に駆られて自分を見失うことがあれば、また叱って欲しい。ディアナは暴言など吐いてはいない。逆に・・・助かった」
「た、助かった?」
自国の王太子を叱責したのに、助かったと言われるとは思わなかったディアナは目を丸くした。見上げた王子の目も丸く大きく見開き、そこでまた何時の間にか王子を直視していると気付き、急ぎ俯こうとすると顎を持ち上げられる。
「顔を背けることは無い。ディアナにはいつも見つめていて貰いたい」
「で、でも私と殿下では身分が」
気付けば何時の間にか王子の顔を見つめている自分だ。今更だが、田舎領主の娘と一国の王子とでは身分が違いすぎる。しかし王子は身分など気にしないと言い、国王も親しげな態度を取る。困惑するのは自分ばかりで、更に王子は自分を伴侶にしたいとまで申し込んできた。無理だと何度伝えても、王子は真摯に繰り返す。
――― 側に居て欲しいと。瞳を見つめていて欲しいと。
咽喉が急激に渇き、自分の心臓の鼓動が耳奥に響く。目の奥が熱くなり、嬉しいと思う感情を抑え込むのがやっとだ。抑え込み、蓋をしようとすると王子が言葉を続ける。
「身分などで国を動かしているつもりはない。ディアナは俺が王子だから、俺の言う言葉を信じてくれないのか? 好きだと伝えている言葉は届いていないのだろうか」
「いえっ、殿下の御気持はとても嬉しく」
「だが俺がディアナを好きだと伝えると、悲しげな顔になる」
そう言われて、ディアナは自分の眉が下がっていると気付かされる。
視線を揺らしながら首を横に振ろうとしても動けない。王子の言うことは確かに事実だと唇を噛み、申し出を嬉しく思う気持ちと、いつまでも自分が滞在するがゆえに起こった王弟息女エレノアの行動を振り返った。
もしも王子が選んだ女性が他国の王女や王宮舞踏会に普段から出席されるような大貴族の息女なら、エレノア様も黙って退いたかも知れない。私だったから、いきなり現れた田舎領主の娘だったから、あのような行動を取られたのだろうと考えるだけで、申し訳なさなさに息が苦しくなる。
「・・・・殿下の御気持は本当に嬉しいのです。でも、私は長く侍女として過ごし、貴族息女としての勉強を疎かにしてきた我が儘な人間です。そんな人間が側に居るのは、どう考えても殿下のためにならないと思えるのです」
ディアナが苦しげに伝えると、肩を押さえていた手が頬を擽り始めた。
何度こうして触れられただろう。それが心地よいと感じて身を委ね、早く自領に戻るべきだと思いながら料理や菓子を作る楽しさに夢中になっていた。もっと早く、魔法が解けた時点で直ぐにアラントルに戻っていたら良かったのだ。
いろいろなことがあり過ぎて、断ることが出来ずに滞在を続けた自分が一番罪深い。