紅王子と侍女姫  59

 

 

ディアナが想いに耽り顔を顰めていると啄ばむような軽い音が頭から聞こえて来る。

聞き覚えのある音と感触に顔を上げると鼻横に王子の顔が近付き、そのまま唇が押し当てられた。驚きに思わず目を瞠り退くと、同じように驚きの表情を浮かべた王子と目が合い、暫し互いに無言で見つめ合いながら共にじわりと頬を染め上げる。

 

「・・・っ! わ、悪い! ディアナが辛そうで慰めようと思ったら、つい!」 

「い、いえ! 殿下が謝ることはありませんからっ!」 

「え? 謝らなくていいのか? 厭じゃなかったのか?」 

「え? ・・・あ、う・・・・」

 

途端に嬉しそうな笑みを浮かべて顔を覗き込む王子を前に、ディアナは真っ赤な顔で口籠る。もちろん王子が謝る必要などないし、ディアナが厭など感じる訳もない。問い掛けた王子が返答を待っているのがジリジリと伝わって来て、ディアナは正直に答えるしかない。

 

「い・・・いや、ではありまん」 

「良かった! あ、抱き締めるのは駄目か? 厭じゃないか? 紅い瞳は滅多に見せられないが、普段の目や髪はいくらでもディアナの自由にしていいぞ。船で少し触ってくれたが、あれでは足りないだろう? 今、触るか?」 

「あ・・・、いえ・・・今は」

 

羞恥に王子の上着の中で身体を竦ませると、背に鈍い痛みが奔った。

痛みに顔を歪ませると慌てたように王子がディアナを寝かせ、起こして本当に悪かったと、ゆっくり休んで欲しいと言う。ディアナが素直に頷くと、王子は安心したように柔らかな笑みを浮かべた。 

もちろん厭ではないが、王子の行動はいつも突然で驚いてしまう。

自由にしていいと言われた王子の黒髪に触れることも、自分の立場を考えると好きに出来る訳がない。王子を前にすると、抑え隠さなければならないはずの心の裡を吐露してしまう自分がいて、これが好きという感情なのかと戸惑ってしまう。

痛みよりも溢れ出てくる自分の感情に狼狽するディアナの手を王子がそっと掴み、見下ろして来た。その表情を前にして心臓が大きく跳ねる。

 

「何度も言うが俺はディアナが好きだ。俺を幸せに出来るのはディアナだけで、ディアナの微笑みを得られるなら、どんなことでも出来そうな気がする。だけどディアナは侍女として長く過ごして来たから、俺の妃になって欲しいと言われて戸惑うのも無理はないと承知している。・・・悲しげな顔にさせたい訳じゃない。だからディアナがどうしてもアラントルに戻りたいと願うなら、俺はそれを叶えるだろう」

 

幾度も願っていたはずの言葉を耳に、ディアナは胸を突かれたような気持ちになった。 

アラントルに戻り両親に魔法が解けたと伝え、今までの不義理を詫びて貴族息女として自領で過ごそうと考えていたはずだった。王子からの申し出は断るべきだと、未来の王太子妃には国の更なる発展のために身分高い大貴族の息女か、他国の王女が良いと思っていたはず。それを王子が納得されるまで、私では駄目だと御理解されるまで居ようと思っていた。 

それなのに、いざアラントルに帰って良いと言われると突き放された気持ちになる。目が潤みそうで、何度も瞬きをする自分が余りにも情けなく、ディアナは王子に包まれた手が震えていると気付かれないよう力を入れた。

王子に言われた通り、自分は直ぐにアラントルに戻り、これ以上誰の迷惑にもならないよう城から出ずに過ごすのが一番いい。魔法が解けた時そう考えたはずなのに、どうして望みが叶いそうな今、息が詰まりそうだと思うのだろう。

 

「ディアナは直ぐにでもアラントルに戻りたいか?」

「わ、たしは・・・戻り」 

「ディアナがアラントルに戻ったら、俺は直ぐに追い掛けるからな。何度も、何度だってディアナが俺の言葉に頷いてくれるまで通い、繰り返し申し込むつもりだ。ディアナの生涯を俺に委ねて欲しいと。俺の側に居て微笑んでいて欲しいと」 

「―――――――――え? へ?」

 

聞こえた言葉に思わず変な声が出てしまい、口を押えようとして手を持ち上げると怪我に障るから動くなと握り締められる。王子が何を言ったのかを頭の中で繰り返すが、意味が頭の奥まで浸透してこない。いや、理解しては駄目だと震えそうになった。

 

「欲しいと、何かを心から欲しいと願ったのはディアナが初めてだ。王太子として生まれ、国のために従事するのが責務だと育てられ、国の安寧と民の笑顔を守るために努力し続けるのが役目だと教わった。そのために様々なことを山のように学ばされ、子供の頃は時々鬱屈を溜めて癇癪を起こしていた。その頃かな、ディアナに会ったのは」

 

王宮庭園で出会った迷子の少女。真っ直ぐな瞳で見上げられ、小さな手で葉を掴む姿に心奪われた。今までの日常では出会ったことの無い幼子とのひと時に自分のすべき仕事を忘れ、そして暴走した自分だ。その後の十年間は己の感情を常に制御することを心に刻み、王子としての仮面を貼り付けて過ごして来たが、王やレオンの横槍に仮面が何度も外されてきた。今思えば、あれは仮面を外すことで息を吐かせてくれたのだろう。多少、本人らの趣味が重なっているような気もするが、自分らしさを見失わずに成長出来たと感謝の気持ちもある。

 

「ディアナには悪いが、魔法をかけてしまったと悔やむことで俺は成長出来たと思う。そして再び出会い好きになった。ディアナが俺を好きだと言ってくれたことに逆上せて違った意味で暴走しかけたが、これからは大丈夫だ。今度は俺がディアナを追い掛ける」 

「・・・・殿下」 

「だから本当に俺が嫌いなら、はっきり言ってくれて構わない。・・・あ、いや、駄目だ! 時間をくれ! ディアナ好みの男に成長するための時間をくれ」

 

眦を仄かに染めて告げてくる王子の顔を間近に、ディアナはそれは刷り込みなのではないかと思った。十年間もの長き間、リボンに謝罪を繰り返して来た王子の間違った執着。

自分が王子を好きだと思う気持ちと、王子の気持ちは違うのではないかと考える。しかし同時に、胸いっぱいに温かい気持ちが膨れ上がっていくのを自覚した。

 

「恋愛感情など必要ないと思っていた。俺の結婚が国の発展に繋がるなら、正直、相手がどこの誰でも良かった。だけど俺はディアナと出逢い、ディアナに惚れた」 

「で、でも・・・・身分とか、国王様の御意見とか」 

「王は身分など気にしない。それに俺の母親は瑠璃宮の魔法導師だった人物だ。ディアナは侯爵家の息女だから、問題など最初からどこにもない。俺が伴侶に望むのはディアナで、ディアナ以外は欲しいと思わない。だからディアナが何処に行っても追い掛けて、絶対に承諾してもらうつもりだ」

 

柔らかな笑みを向ける王子の言葉に、ディアナの心の何かが氷解したかのように弾けた。

何も望まないと言う王子が、私だけが望みだと繰り返す。

それを拒むのも、応えるのも私の気持ち次第だと懇願するように伝えて来る。

舞踏会で、綺麗なドレスに身を包んだ貴族息女や王女がギルバード王子を熱く見つめるのを目にして胸が痛んだ。胸が痛くなる理由を考えては駄目だと、魔法が解けたのだから早く自領に戻るべきだと自分に言い聞かせながら、王子の誘いが嬉しいと東宮に留まり、ここ数日は訪れを心待ちにして菓子作りをしていた自分だ。

王子に気持ちを告げられてからの自分の行動を振り返ったディアナは、まるで以前姉たちが話してくれた『恋の駆け引き』で男性を翻弄している女性のようだと、目を潤ませながら羞恥に落ち込んでしまう。

握られた手の温かさに顔を上げると、黒曜石の瞳が自分を真っ直ぐに見つめていた。

もう――――自分では分不相応だなど思わない。

王子が望むのは、幸せに出来るのは自分だけと言われることがこんなにも嬉しい。

包み込む温かい大きな手に、真っ直ぐに自分を見つめる黒曜石の瞳に、深く心に届けられる嬉しい言葉の数々に、ディアナは顔を歪ませた。

 

「今・・・・このまま息が止まればいいのにと思います」 

「え? な、何でだ? 止まったら死んじゃうぞ?」 

「幸せすぎて夢のようです。物語の主人公になった気分で、胸が苦しいような頬が熱くて、目が回っているような感じもします。・・・・本当に息が、上手く出来ないような」

「だ、大丈夫か、ディアナ!」

 

慌てた顔が近付き、横になっていた身体が抱き起こされ、間近に迫った王子に胸が一層苦しくなる。

王子は何度も自分に好きだと言ってくれた。

好きだから結婚したいと、一緒に居たいと繰り返し伝えて来た。

それを一方的に無理だと壁を作っていたのは自分だ。その壁を何度も叩き壊して乗り越え、王子は私に何度も手を差し伸べて来た。

心配げな王子の顔に、ディアナは泣きそうな顔を向ける。

胸の痛みがこんなにも嬉しいなど、恋をしなければ知り得なかったことだ。幾ら書物で知識を得ても熱は伝わらず、気持ちが昂揚しても持続することはない。逃げることばかり考えていた自分を捨てる喜びに、ディアナの声が震える。

 

「殿下。願い通り、触れても・・・・良いでしょうか」

「いくらでも、いつでも触れてくれ」

 

こんなにも幸せな気持ちにさせてもらい、私は何を返せるだろう。

王子は私を幸せにしたいと言うが、もう過ぎるほどの幸せに包まれている。心臓の鼓動が指先を震わせ、目が潤んで王子の顔が良く見えない。一生懸命目を瞬くが、感情と共に溢れ出した涙を止めることが出来ない。掴まれた手が柔らかな頬に押し付けられても実感が沸かないと、ディアナは苦笑した。

掴まれたままの手が今度は王子の髪に触れるが、指先の感覚が覚束ないと告げると両手に包まれる。温かい手に包まれ、二人でじっと手を見つめていると、コツリと互いの額が当たった。

ボロボロと零れ落ちる涙が手に滴り、そっと近寄る唇に拭い取られる。

それが嬉しいと瞼を閉じると、「泣くな」と呟かれた。

 

「私も・・・・殿下を幸せにしたいです。私の笑みで幸せになれると言って下さるなら、いつでも笑っていたい。笑って、側にいて・・・・何でもして差し上げたい」 

「ディアナ、それなら俺が望む言葉をくれないか」

 

泣き止むことが出来ないと苦笑するディアナが気持ちを伝えると、王子も泣きそうな顔で見つめて来る。掴まれたままの手を頬に寄せ、ディアナは真っ直ぐに王子を見つめた。

 

「私は・・・・ギルバード殿下を心から愛しています」 

「ディアナ、俺も愛している。その言葉が・・・嬉しいよ」

 

近付いた額を合わせ、互いに笑みを零す。自分でもどうかと思うほど涙が溢れ、何かで拭おうと思うが両手は王子に包まれたままだ。手を放して欲しいと伝えると、王子はギュッと抱き締めてきて、シャツで涙を拭えと言う。今は少しも放したくないと、離れたくないとディアナの顔をシャツに押し付ける。困ったと思いながら顔を上げると、嬉しそうに王子が見下ろしているからディアナも嬉しくなる。

感情を素直に表す王子の顔を何度見つめただろう。容易に目にしては駄目だと慌てて顔を伏せたり、目を閉じたりしたことが何度もあったが、これからは。

 

「・・・・これからは殿下を見つめ続けてもいいのですね」

「ずっと見つめていて欲しい。ずっと、側で」

 

好きな者同士が互いを慈しみ、互いを労り、互いを尊敬しあう。王子にそう思われるべき人間でいたい。そのための努力をしたい。その努力をしていいと言われるのが何よりも嬉しい。

ディアナは素直に王子の胸に凭れ掛かり、シャツに涙を吸わせた。背に回った王子の手から熱が伝わり、素直になって得た幸せを噛み締める。 

が、肩に痛みを感じて背を逸らすと余計に王子の手に力が入る。

 

「あ、あの・・・・申し訳御座いませんが、手を」 

「もう少しだけ、このままでいいか?」

 

きゅっと抱き締められ、痛みが顔を顰めるが、王子は気付かない。

力が入った分、目の前に火花が散るほどの痛みを感じたが、王子の言葉に素直に従い、震えそうな身体から力を抜く。気持ちが通い合ったばかりで、先ほど受けた傷を思い出させるのは王子の笑顔を曇らせることになると、ディアナは痛みで詰まりそうな息を静かに吐き出した。 

 

「王もディアナが俺の嫁になることに異存はないからな。先ほど、多くの大臣がいる前で言ってくれた。あとは俺次第だと後押ししてくれた」 

「国王様が御認めになったのですか」 

「まあ、王が認めなくても俺はディアナ以外目に入らないし、とやかく言う王でもない。しかし認めてくれたのは嬉しいと素直に思う。これで誰憚ることなく、ディアナを紹介出来るのが嬉しい。でも、これからのダンスは俺とだけにしてくれ。もう見るだけは勘弁だ!」 

「はい、そう致します。あ・・・、でも次回のダンスを御約束してしまいました」 

「やっぱり! ・・・・王の誕生舞踏会か。では、王とは一曲だけにしてくれ」

 

頭に落ちるキスの音と拗ねたような口調に口端が持ち上がるが、同時に痛みも這い上がる。痛み止めが切れたのか、忘れていた痛みが徐々にひどくなり息を吐いて逃がし続けるが、その息も切れそうになり強く目を瞑った。

しかし我慢も限界となり、このままでは痛みで呻き声が出そうだと思ったディアナは目を開く。すると何時の間にか部屋には女性の姿があった。大きく目を見開いた女性はトレーを持ち、その上には食事が乗っているのがわかる。

 

「カ、・・・カリーナさん?」 

ディアナが呟くと、包み込んでいた王子の腕が驚くほど震え、そしてゆっくりと離れて行く。錆び付いた蝶番のように王子が後ろを振り向くと同時に、盛大な音と叫び声が部屋中に響いた。 

「カリーナ! 落ち着けっ!」 

「ディアナ嬢を起こすなと、起こさないようにと言いましたのに!」 

トレーから落とされた朝食が床に散乱し、カリーナが手にしたトレーを持ち上げて襲い掛かって来るのがディアナの目に映る。息を飲んだ瞬間、トレーが王子の頭を掠めるように振り下ろされ、カリーナが再びトレーを持ち上げた。慌てて二人を止めようとしたディアナだが、伸ばした腕の痛みに呻き声を上げてしまう。

 

「ディアナ?」 

「ディアナ嬢、痛みが?」 

肩から指先へと走る痛みに身を屈めると、トレーが床に落ちる音が聞こえて来た。顔を上げると二人が眉を寄せて自分を見つめているから、思わず苦笑してしまう。 

「大丈夫です。少し、痛みが奔っただけで休めば、もう」 

「休みましょう。殿下は直ぐに朝食を持って来て下さい。それと薬湯も」 

王子を押し退けたカリーナが、着ていた上着を脱がしディアナを横にさせるとテキパキと指示を出す。顔を顰めた王子だが、振り向いたカリーナの形相に無言で立ち上がり部屋を出て行くのを、ディアナは目を瞠って見送った。

 

 

 

  

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