紅王子と侍女姫  63

 

 

「このまま殿下の御気持ちが変わらず私を御望みでいらしたら、いつか来る未来、私は王太子妃・・・となります。殿下は田舎育ちの上、長く侍女として過ごして来た私でもいいと、身分など関係ないと仰って下さりました。でも普通の貴族らしい生活とは程遠い生活を過ごして来た私では、何ひとつ殿下の役に立つことが出来ないと、自分の気持ちを伝えたことを深く・・・・後悔致しました」 

「ディアナ、俺は本当に身分など気にしていない。前にも伝えたが、母上は瑠璃宮の魔法導師で貴族ですらない。だから気にする必要など全くないんだ」 

「いえ、私が勝手にそう考えていたのです。私などでは殿下の側に立つにはふさわしくないと。もっと見目麗しく、高貴な身分の女性が殿下には御似合いになると・・・・」 

「ディアナ、何度も言っているが」 

「それを想像した時、胸に痛みを感じたのです。では自分は何をすべきなのか、この痛みをどう処理したらいいのか・・・・・考えても答えが見つからず、悩み続けておりました

 

握り締める手を見つめるディアナの瞳が潤み、何度も瞬きを繰り返し涙を散らそうとしているのが見えた。きゅっと結ばれた唇が微かに戦慄き、深く閉じられた睫毛が浮かんだ涙で艶めきを放つ。頭の芯から痛みが生まれ、次に何を言うのだろうかと彼女の唇から視線が離せない。ゆっくりと開かれる唇から息が漏れ、ギルバードは握り合う手に力を入れた。

 

「俺のせいで悩ませてしまった・・・・・のか」

「いえ、私が勝手に悩んでいただけですから。・・・・それをローヴ様が知り、悩んでいいのだと伝えられました。たくさん悩み、学ぶことで、殿下にして差し上げられることを模索することが出来るのだと教えられました」

 

ディアナの柔らかく寄せられる眉の皺に、ギルバードは自分を恥じた。 

男として真っ正直に気持ちを伝えるのが一番だと思っていたが、それが却って彼女を追い詰めていたと知り、浅慮な自分の行動に項垂れそうになる。今、何を口にしたらいいのか頭を真っ白にしていると、握り締めていた手が握り返された。

 

「今はまだ、殿下のために何をすべきか、本当に私が殿下の側に居ていいのか、何を学び、どう役立てていけばいいのか解らないことばかりです」 

「・・・ディアナ」 

「・・・殿下と手を握り合っていることさえ、まだ夢の中の出来事のような気がしてなりません。殿下への気持ちと自分が過ごして来た生活習慣の違いに戸惑い、やはり自分では無理だという気持ちが大きいのが正直なところです」

 

持ち上げられた手が項垂れたディアナの額に触れ、髪から花が零れ落ちる。音もなく床に落ちた花は空気に溶けるように消え、仄かに甘い香りを漂わせた。 

大きく息を吸うディアナを見つめながら、ギルバードはアラントルでの彼女を思い出す。 

侍女として十年間過ごして来た彼女は、王太子の訪城に戸惑い、貴族息女として会うのは厭だと親に頼んでいた。出来るだけ見えない場所で仕事を行い、視線を合さないように低頭し、息女だとばれた時は親を庇っていた。魔法を解くためなら何でもすると言い、当時を思い出して自分が悪いと嘆き悲しんでいた。 

まだ魔法が解けてから間が無いというのに、舞踏会への出席を無理強いし、好きだと告げたのは自分だ。思いもよらぬ波に翻弄され、頼る者もいない王城で戸惑っている彼女が受けたのは誘拐と剣による傷。それも王族の揉め事に巻き込まれた状態で、それでも彼女は文句を言わずに過ごしている。

 

思い返すと多大な迷惑ばかりを掛け続けている自分が、好きだから結婚したいと希っても、それは欲しいものを強請る子供のようだと恥ずかしくなる。

自分はディアナだけを見つめていたが、彼女は魔法を解くためだと無理やり知らぬ場所、望まぬ場所に連れ来られ、やっと魔法が解けたのに束縛され続けている状態だ。周りを見る機会も、知る機会も与えられずに過ごし、王子である自分に翻弄されている。

押し付けているつもりはなかったが、確かに王子に好きだと告白されても困惑するのは当たり前だろう。 

そこまで考えると、握り合った手の感覚が乏しくなる。背に冷たい汗が流れ、床上で消えた花を追い駆けるように視線を様寄せたギルバードの耳に、ディアナの声が届けられた。

 

「自分では無理だと思う気持ちを拭うことは難しいことですが、殿下をお慕いする気持ちも、殿下の御側に居たい気持ちも本心です。ですから、時間を頂きたいのです」 

「え・・・・時間?」 

「はい。殿下のために、自分のために、努力する時間を頂きたいのです。殿下が良いと仰って下さるなら、今の自分に足りない様々なことを勉強させて下さい」

 

強く握られた手に、伝えられた言葉が意味を為す。

目の前には自分を真っ直ぐに見つめてくるディアナがいて、ギルバードは惚けてしまった。東宮図書室の大きな窓から差し込む陽の光に輝く白く柔らかな金色に目を細め、ギルバードは握られた温かい手を包み込んだ。

 

「俺の・・・俺のために努力してくれるというのか。ディアナに足りぬところなど何もない。ディアナに比べると、俺の方こそ足りないことだらけだ」 

「殿下は日々自国のために御政務に誠意御精力なさっておいでではないですか。私は貴族息女としても未熟ですし、一般的な貴族の常識しか知りません。ですから時間を、いろいろなことを学ぶ時間を頂きたいのです。どうか私に、努力する時間を頂けませんか?」 

「・・・・もう、駄目かと思った」

 

跪いていた王子が大きく息を吐き、足を崩して床に腰を落とした。眉尻を下げて笑みを浮かべたその顔に、ディアナは胸が大きく跳ね上がる。久し振りに見た王子の笑みから目を離せずにいると手を引かれ、何と思う間もなく王子の腕の中に囚われていた。

 

「で、殿下! 床上です、御衣裳が汚れます!」 

「もう駄目かと思った! 俺に翻弄されっぱなしのディアナから、やっぱり家に戻りたいと言われるのかと・・・・。ディアナ、すっごい嬉しいぞ!」

 

強く抱き締めながら頭にキスを落とす王子に、ディアナは真っ赤に頬を染めながら素直に身を委ねた。軽い音を立ててキスされる恥ずかしさもあるが、王子の喜びが直に伝わって来て嬉しくなる。包まれた腕の中からどうにか顔を出し、ディアナは問い掛けた。

 

「その前にローズオイルの蒸留手伝いをさせて頂きたいのです。それと勉強のためにこちらの図書室への出入りと本の閲覧も許可頂きたいのですが、宜しいでしょうか?」 

「もちろん、全ていいに決まっている! ああディアナ、本当に嬉しいよ。嬉しくて愛おしくて、全てが輝いて見える! ・・・・って、時間ってどのくらいだ?」

 

自分のために努力したいと言ってくれたディアナの意志を尊重したいが、数年かかると言われたら、それはそれで困るとギルバードは腕の中のディアナを見下ろす。その前にディアナを正式な婚約者として公表してもいいかを問おうとすると、彼女が図書室の書架を見回し口中でブツブツと呟き出すのが聞こえた。

 

「時間は学ぶ内容にもよると思いますが・・・・。まずはエルドイド国の歴史から始めて歴代王の功績、交流のある近隣国、王宮大臣の名前や役職と各領地の特産物と、王宮行事も覚えたいです。それと貴族息女として様々な講習も受け直す必要があるでしょうし、それから図書室に置かれている主な書物には目を通した方がいいと思いますし、それと・・・」 

書架を見つめたまま呟く内容に、ギルバードは一気に蒼褪めた。 

「ディアナ? そ、そこまで時間を掛けて学ぶ必要はないぞ?」 

「いいえ、元より学ぶことは好きですから楽しみでもあります。今まで疎かにしていた貴族息女の講習も一から学び直すことで、自分に足りないことは何かを知ることも出来ますし、延いては自分のためになりますし、今まで両親の思いを無下にしてきた詫びにもなるかと思っております」 

「お、俺はそのままのディアナが好きなんだ」 

「そう言って頂けるのは嬉しいのですが、殿下に甘えてばかりではいられません」 

「いや、むしろもっと甘えて欲しいくらいだ。俺はディアナの笑顔に充分癒されているし、その笑顔のためなら政務を頑張ろうと思える。あと、時々菓子を作ってくれたら嬉しい。それだけでも俺は充分嬉しいから無理はしなくても」 

「殿下が御喜びになられるのでしたら、心を込めて菓子作りをさせて頂きます。でも御忙しい殿下に甘えてばかりでは成長しないと思います。今自分がすべきは一生懸命に学ぶことですから」

 

膝の上で花のような笑みを浮かべるディアナに、ギルバードは顔を顰めて笑みを返すしか出来ない。

こんなにもやる気に満ちた彼女を見るのは初めてで、どうやっても止める手立てが頭に思い浮かばない。自分の側に立つ気持ちになってくれたのは嬉しいが、すごくすごく嬉しいが、彼女の勉強が終わるのは何時になるのだろうか。 

 

「多くを学び、多くの人との出会いを経るべきだと・・・・。殿下の妃になるかどうかは、それから考えても遅くないとローヴ様は仰って下さいました。ローヴ様のお言葉を胸に出来るだけ多くのことを学びながら、一生懸命考えてみます」 

「・・・・・え?」

 

膝上から降りたディアナが床上に座り、広がったドレスの裾を持ち上げ頭を下げる。艶やかなプラチナブロンドに飾られた花が揺れるのが見えるが、ギルバードの視界には映ってはいない。 ディアナから言われた言葉が頭の中で乱れ飛び、今まで高揚感に満ちていた手が冷たい床に着く。呆けたまま目を瞬いたギルバードは、ゆっくりと息を吐いた。

 

「ディ・・・アナ。何を、考える、って・・・・言うんだ?」 

「殿下の・・・・・」

 

途切れた言葉を捕まえようと顔を上げると、上気した頬を両手で押さえる壮絶に可愛らしいディアナが長い睫毛を瞬かせているのが見えた。咽喉が大きく上下し、今にも彼女に手が伸びそうになるのをどうにか抑え、ギルバードはじっと続きの言葉を待つ。

ディアナは染まった頬を押さえていた手をそっと外し、艶やかな唇を開いた。

 

「で、殿下の・・・・妃に・・・・なることを・・・考えようと」 

「今から考えるのか!? 俺の妃になるから国事に関しての勉強をするのではないのか?」

 

自分でも思ったより大きな声が出たようで、ディアナが大きく目を見開き、扉の向こうから警護兵の声が聞こえて来た。慌てて警護兵に下がるよう伝え、ディアナの手を引きソファに座らせるが、ギルバードは落ち着いて座ることが出来ない。 

所在無くソファの前を歩き、書架に手を置き零れそうになる溜め息を噛み殺す。ディアナの気持ちは嬉しい。妃になる前に自国のことを学ぼうとする姿勢は惚れ直してしまうほどだ。だが、学んでから妃になることを考えるというのは違うと手にした書物にギリギリと爪を立てた。もうすっかりその気になってくれたのかと思っていた自分も恥ずかしく、余りの羞恥に書架を揺らしそうになる。

 

「あ・・・っ、申し訳御座いません!」 

身悶えしていると背後からディアナの悲鳴にも似た叫びが聞こえ、振り向くと図書室から出て行こうとする背が見えた。目を瞠って追い掛け、扉前で彼女を捕らえることが出来たが、強く抗われてギルバードは言葉を失ってしまう。 

「ディアナッ! どこへ行く!」

「も、申し訳御座いません! か、考えが足りず・・・・やはり私は、わたし・・・」 

蒼褪めた彼女は必死に扉に手を伸ばそうとしており、その手はギルバードが驚くほど震えていた。彼女の呟きを耳に、自分が何を言ったか振り返ったギルバードは慌てて抱き締める。

 

「待て、ディアナ! ち、違うんだ」

「殿下をお好きな気持ちに変わりはないのです! ですが私自身、殿下の妃になるというには心構えも教養も足りなく、ですから何か少しでも・・・っ」 

「ディアナ、悪かった! 悪かった・・・・ごめん、ディアナ」 

 

ギルバード自身はもうすっかり結婚秒読みの気分になっていたが、彼女にとっては違うと今更ながらに気付き、ただ謝罪の言葉を繰り返すしか出来ない。自分の気持ちを押し付けては駄目だと舞踏会の夜に知ったはずなのに、同じことを繰り返している愚かな自分の言動に胸が苦しくなる。

激しく首を振るディアナが自分の胸を押し出し逃げようとするから、この手を離したら擦れ違ったままになってしまうとギルバードは必死に言葉を探す。

 

「ディアナの気持ちは解かった! 俺のために頑張ろうと考えていること、すごくすごっく嬉しい。ただ俺が・・・俺が性急すぎたんだ。だから妃のことは時間を掛けて考えてくれて構わない。ここに、王宮に居てくれるなら、俺の側に居てくれるなら今はそれでいいから」 

「わ、我が儘を申すつもりなどなかったのです。ですが・・・今のままでは悩むばかりで。私の考えが足りずに殿下を怒らせるつもりなど、わたし」 

「違うから! 大丈夫だから! ディアナが学ぶことに異論はないから」 

「おやおや。殿下に苛められておいでですか、ディアナ嬢」

 

突然の声にギルバードは声無き悲鳴を上げた。 

振り向くと杖を携えたローヴが扉前に立っており、腕の中ではディアナも驚きに身体を強張らせているのが伝わって来る。しかしローヴののんびりした声色と突然の登場に、場の緊迫感が薄れたとギルバードは秘かに息を吐く。

 

「苛めてなどいない。・・・・が、ディアナを困惑させたのは俺が原因か」 

「い、いえ! 殿下を困らせているのは私の方で御座います」 

「まずは落ち着きましょうか、お二人とも」 

その言葉に大きく息を吸い込んでいると腕の中からディアナが消え、振り向くと何時の間にかソファに腰掛け目を丸くしていた。その横に悠然と腰掛けるローヴがテーブルにハンカチを広げ、持ち上げると紅茶道具一式が出現する。人には魔法の発動を制限するよう説く癖にと睨みたくなるが、紅茶ひとつでディアナが落ち着くなら目を瞑ろうとギルバードは溜めていた息を吐いた。

 

「では殿下、御説明を」 

ローヴがディアナの背を撫でながら有無を言わせぬ口調で問い掛けて来る。

慌てたように口を開こうとするディアナを制し、ギルバードは頭を掻いた。

 

「ディアナは俺の妃になるために、いろいろなことを学ぼうとしていると聞かされた。そのために時間が欲しいと言い、俺は了承した。・・・でもディアナに、学んだその後で妃になるかどうかを考えると言われ、思わず大きな声を出してしまったんだ」 

「ほぉ。大きな声、ですか」

 

ローヴからのワザとらしい声色に舌打ちしたくなるが、ぐっと堪える。 

確かにディアナは自分の側に居たいと、俺のことが好きだと言ってくれたが、長く侍女として過ごして来た彼女に直ぐに妃になれというのは酷だと気付いた自分だ。前向きに勉強を始めようとする彼女に、早く妃となる自覚を持って欲しいと重圧を掛けようとした自分を振り返り、ローヴから視線を外す。

 

「わ、たしが・・・・私の言葉が足りなかったのです」 

掠れた声が聞こえ顔を上げると、蒼褪めた顔色のディアナが眉を寄せていた。膝上で握られた手が震えているのが目に映り、ギルバードは急ぎ近寄り手を握り締める。

 

「ディアナは悪くないと言った。俺の考えが性急すぎただけだ。ディアナはゆっくり学んでくれて構わない。その後で俺の妃になる気になってくれたら嬉しい」 

「殿下・・・・」 

「ディアナが心から俺の妃になりたいと思ってくれるのを待つ。同時になって貰えるよう、俺も今以上に努力する。だから・・・・もう逃げないで欲しい」

 

潤んだ瞳を何度も瞬くディアナが、不安げな表情で俺を見つめて来る。 

彼女が努力する時間、俺自身も成長すればいいのだ。十年間彼女を苦しめ続けたのに、これ以上彼女を困らせてどうする。今まで避けていた貴族息女としての生活を前向きに考え始めた彼女に、側に居て様々なことを学ぼうとする彼女に、俺が精神的重圧を与えようとするなど言語道断だ。

 

「ただ、時々でいいから俺のために、俺との時間を作って欲しい。俺にディアナという安寧を与えて欲しい。俺の側に居ると、俺を好きだと、その可愛らしい唇から繰り返し囁いて欲しい」 

「あ・・・、あの・・・・・」 

「時々はキスもしたい。ディアナに髪を撫でて貰いたいし、ディアナを抱き締めたい。不埒な真似は極力しないと誓うから、ディアナに触れる許可が欲しい」 

「え・・・、あの・・・・」

「王の誕生舞踏会では俺とだけ踊って欲しい。俺が贈るドレスに身を包み、俺のために着飾ったディアナと踊りたい。いや、これからの舞踏会ではずっと独り占めしたい」 

「ごほんっ」

 

握り締めた手の向こうから咳払いが聞こえ、ギルバードは眉を顰めた。ローヴが楽しげに微笑みを浮かべ、ギルバードからディアナへと視線を移す。倣って視線を移すと俯いたディアナの肩が震えているのが見え、ギルバードは慌てた。

 

「ディアナ、どうした!? どうして震えている?」 

「殿下。好きだと伝えたり、殿下の髪を撫でるというのは、ディアナ嬢には難しいのではないでしょうかねぇ。彼女の性格を鑑みて発言されては如何でしょう」 

「む、・・・・そうか。では俺が言えばいいのか」

 

一際大きく震えたディアナの肩を掴み顔を覗き込むと、真っ赤に染まる顔が見えて驚いた。好きだと言わせようとした自分が悪かったのかと納得し、ギルバードは熱を持ったような頬を撫でながら口を開く。

 

「俺はディアナが好きだ。ディアナだけを愛してる。俺の目にはディアナしか映らない。だからディアナ以外と添い遂げるなど考えも出来ない。いくらでも待つから納得出来るまで学んでいい。ディアナに触れたくなったら許可を貰いに行くから、その時は頷いて欲しい」 

「・・・っ!」

 

何故かディアナは顔を手で覆い、背後のローヴ側に身を翻す。口を大きく開いたローヴが奇妙な音を出しながら痙攣し始めるから、ギルバードは眉間に皺を寄せた。

 

 

 

 

 

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