紅王子と侍女姫  82

 

 

ディアナは不自然に見えないよう、しゃがみながら首のチェーンを引き千切り、水晶を手に隠して抱き着くようにオウエンの背に腕を回す。背後に回した手で縄を持ち上げ、水晶で切れないかと傷を付ける。しかし縄は固く、水晶は滑り、縄に傷すら付けられない。

もっとよく切れたら・・・。そう思った瞬間、水晶は音もなく割れた。

手の内でそれを知ったディアナはオウエンの手に、割れて半分になった水晶の欠片を握らせる。

手に残った半分で縄に切れ目を入れながら話し掛けた。

 

「御礼が遅くなりましたが、馬場ではオウエン様の馬に乗せて頂き、ありがとう御座います」

「ぐぅ・・・ふっ、ぐ・・・っ」

 

皮の猿轡からオウエンのくぐもった声が聞こえ、顔を見ないように立ち上がる。次にエディを抱き締めて背後の縄を持ち上げ、半分に割れた水晶で切れ目を入れた。強く握り過ぎたためか手の平に鋭い痛みを感じたが、ディアナは必死に動かし続ける。

どうにか猿轡から脱したエディが顔を横に振りながら、潜めた声で囁いた。

 

「ディアナ嬢、・・・一緒に城に戻ろう?」

「・・・後で、お好きなだけアラントルのワインをお持ち帰り下さいね、エディ様」

 

ある程度縄に切れ目が入ったと判ったところで、エディの手に水晶を渡して立ち上がる。王女が差し示すグラスに視線を向けると、オウエンも猿轡を外せたのだろう、双子騎士が大声を上げた。

 

「ディアナ嬢! 俺たちは護衛として来ている。このまま殿下の許に戻るなんて出来ない!」

「第一、あんなものを飲んだら、どうなるか解らないだろう! 飲んじゃ駄目だ!」

「大丈夫です、オウエン様とエディ様が先ほどおっしゃって下さいましたでしょう? 殿下が来るまでの我慢だと。ですから私も、私なりに出来ることを頑張ります」

 

振り向いたディアナは二人にだけ聞こえるよう力強く呟きを落とし、そして王女に向き直った。

 

「ビクトリア王女様。王太子殿下付き護衛騎士様方は、無事に御戻し下さいませ」

「お前に言われずとも、無事に戻して差し上げます。私の、大事なギルバード殿下を護衛して下さる騎士ですもの。さあ、気が済みましたら、一気にお飲みなさい」

 

背後から二人のくぐもった呻き声が聞こえて来る。魔法導師が杖を持ち上げるのが見えたから、また猿轡で口を覆われたのだろう。二人の苦しげな声を振り払うようにグラスを持つが、手が滑り落としそうになる。見ると手の平が血で濡れていて、水晶で切ったと気付くと急に痛くなってきた。

今の自分が出来るのは、せいぜい時間稼ぎくらい。

ギルバード殿下が必ず来てくれると信じ、双子騎士に負担が掛からぬように出来ることをすると決めた。飲めと言われて素直に飲むつもりはない。手にしたグラスからは耐えがたい悪臭が漂って来るが、痛みに集中して少しだけ口に入れ、苦しげに顔を顰めて吐きだそうと考える。

王女の前で飲み物を吐き出すなど、本来ならしてはならない下品な行為だが、他に考えが浮かばない。

幾度か繰り返している内に、用意した液体も無くなるだろう。

王女はきっと怒るだろうが、それは甘んじて受けるつもりだ。

しかし不気味に泡立つ強烈な色と臭いの液体を前にして、果たして口に含むことが出来るのだろうかと躊躇してしまう。

 

「ぐっ、ぐふぅううっ!」

 

その時、呻き声と共に床に叩き付けられる靴音が聞こえ、ディアナはグラスに口付けた。 

しかしグラスを煽った瞬間、想像を絶する味と感触に全ての動きが止まる。

舌上に死んだ爬虫類の腸を連想させる感触が広がり、ディアナは演技を忘れ盛大に吐き出してしまった。咥内に毒虫を入れられたような苦味が充満し、抑え切れない嘔気が込み上げる。手から離れたグラスが床上で割れ、その上で激しく噎せ込みながら込み上げる唾液を垂れ流す。生理的に流れる涙と鼻水を拭うことさえ出来ず、纏わり付くような悪臭に背を丸めて嘔吐き続けた。

涙目で顔を上げると激昂した王女の顔が見え、思い描いていた粗相を遙かに上回る失態に、ディアナは蒼褪める。急ぎ謝罪しようとするが、咥内に残る不快な感触と悪臭に上手く口が動かない。

これは、極僅かな量を口に入れるだけでも絶対に無理だと床上の惨状を見下ろす。

背後から双子の呻き声が聞こえ、同じことが果たしてもう一度出来るだろうかと眉を顰めた時、王女のカン高い叫び声がディアナの背を震わせた。

 

「なぁ、な、なんて汚らしいっ!」

「も゛、申し訳御座いませ・・・。あまりにも、・・・噎せ込みざるを得ないというか・・・・。でも、今度は必ず飲みますから、あのっ、もう、ないのでしょうか?」

 

口いっぱいの苦さと不味さと不快感に、飲み込めない唾液が溢れ続ける。咥内に溜まる唾液がさらに嘔気を呼び、急ぎハンカチを取り出し吐き出した。もう一度同じことを繰り返すのは難しいだろうと思いながら、それでも双子騎士の縄を解きたいディアナは王女の前に両膝を着く。

 

「こ、今度こそ、飲み干しますから!」

怒りに震える王女の顔が赤らみ、その背後で魔法導師がざわめきながら眉を寄せる。

 

「先ほどと同じものは難しく、少し内容が変わってしまいますが宜しいでしょうか?」

「一度、城の研究所に戻れば同じものを、同じ量だけ御用意出来ますが」

「しかし飲み易さまでは考えていなかったので、改良が必要かと存じます」

「ええいっ! 量が減ろうが、味が何だろうが、何でもいいから作りなさい! 殿下のことを忘れずとも良い! 飲んで昏倒したら、そのまま山奥に放置すればいいのよっ! 獣が徘徊する山奥に!」

「しかし、王女様・・・・」

「何でもいいから、早くなさいっ!」

 

王女のヒステリックな叫びに、慌てふためく魔法導師が新たなグラスに様々な何かを注ぐと、途端に先ほどよりひどい異臭が小屋中に広がり、ディアナは胃を下から押し上げながら揺さ振られるような気持ち悪さに座り込みそうになった。

飲んでも死なないと言っていたが、殿下を忘れる作用があったのかと目を瞠る。

飲んだら昏倒するような物を作るほど田舎領主の娘が邪魔だと思い、その分殿下を深く想っておられる。王女の気持ちは痛いほどわかるが、それを納得して素直に飲むことは出来ない。

いや、口に含むだけでも難しいだろう。出来上がったとグラスを差し出されても、グラスから漂う異様な臭気に胸が痞え、すぐには手が伸びない。時間稼ぎしようと思っている訳ではなく、本当に足も手も動かない。それでも受け取るくらいはしなきゃいけないと、嘔気に苦しみながらジリジリと足を進ませた。

王女が苛立ちテーブルに扇を叩き付ける音が聞こえ、無理やり足を進めて受け取るが、血で濡れた手からグラスが落ちてしまう。高さがあった分、茶褐色の液体が床上にぶち撒かれ、王女が癇癪を起した。

 

「な、な、何なのよーっ! お前は私との約束を反故にし、ギルバード殿下の大切な護衛騎士が傷付けばいいと、そんな残酷非情で惨いことを考えているの!?」

「いえっ、決してそのようなつもりでは!」

「一国の王女の前で何度も粗相を繰り返すなど、一から教育をやり直したら? 私のドレスが汚れたら、どうなさるの? 折角、ギルバード殿下に御見せするために仕立てたばかりのドレスですのに!」

「ほ、ほんとうに申し訳御座いません!」

「田舎領主などでは弁償など出来ないほど、高価なドレスですのよ!」

 

頭を下げて何度も謝罪するが、王女の激昂は増すばかりで留まることを知らない。少しでも時間を稼ぎたいと思っていたが二度もグラスを落とすつもりは無かったし、双子騎士に矛先が向かうのは困る。

王女の怒声に魔法導師達も狼狽しながらポケットを探り、いろいろな大きさ形の瓶をテーブル上に並べ始めた。それを新たに用意したグラスに無造作に入れ、呪文を唱えながら混ぜ始める。

王女の罵声を浴びながら床上を掃除していると、双子が呻き声を上げながら身を捩っているのが視界の端に見えた。胸元の縄がずいぶん緩まっているようで、ディアナは小さく息を吐く。

ぽんっと軽快な音に顔を上げると、魔法導師が手にしたグラスから白い煙が立ち上り、今度は淡いオレンジ色の液体が入ったグラスが差し出された。立ち上がりながらハンカチで手の血を拭い、今度こそは落とさないようにと慎重に受け取る。

新たなグラスからは甘酸っぱくも、さわやかな匂いがして、今度こそは口に含むことが出来そうだと安堵した。口に含んだら直ぐに小屋内の水場で吐き出そうと考えていると、何故か急に咽喉が渇くのを感じて首を傾げる。手にしたグラスを見つめていると、飲みたい欲求が強くなるのが不思議だ。

 

「ぐぎぃーっ! んぐう~~~」

双子の声が遠く聞こえ、ディアナは惚けたようにグラスをぼんやりと見つめる。

さわやかな甘い香りに咽喉の渇きが一層増すようで、何故飲んじゃいけないと思っていたのか解らなくなる。淡いオレンジ色の飲み物は、私に飲めと差し出されたもの。どうして吐き出そうと考えたのか、どうしても思い出せない。吐き出すなんて勿体ない。・・・・こんなにも美味しそうな香りがするのに。

 

「早く飲み干しなさい!」

「・・・・はい」

 

グラスに唇を近付けると足元から振動が伝わって来る。緩慢な動作で振り向くと、双子が足を振り上げて床を叩いている姿が見えた。見えただけで、音は遠く朧気に聞こえてくる。それがどうしてか考える気にもならない。ただ、それでは足を痛めるだろうと思った。

痛めては上手く逃げられないだろうから、無理はしないで欲しいと。

ゆっくりと王女に向き直ったディアナが惚けたままグラスを傾けると、甘酸っぱい香りが咥内いっぱいに広がった。舌上で甘く小さく弾ける感触に頬が緩む。そのままグラスを持ち上げ、咽喉を鳴らしながら嚥下したディアナは、液体が咽喉から胸へと落ちて行くのを感じながら濡れた唇を舐め上げる。

次第にじわりと身体が熱くなり、襟を緩めながら息を吐く。

 

「あまい・・・。のど、が、あつくて・・・? あつい・・・」

 

ぐらりと揺れる視界と上気する頬。熱が出たように不安定となる足元。

何より胸周りが熱くて苦しくて、直ぐにでもドレスを脱いでコルセットを外したいと手を動かす。

魔法導師たちがディアナの様子に困惑した顔でグラスを受け取り、頭を寄せて成分を調べ始めた。しかし綺麗に飲み干してしまい何も残っていない。では何を混ぜたのかとテーブルに転がる様々な瓶を調べている間に、立っていられなくなったディアナは床に座り込んだ。

そこへオウエンとエディが緩んだ縄と格闘しながら転がるように近付いて来る。

 

「あら、まあ、オウエンさま、たいへん。おてつだい、しますね」

「ぐっ、も・・・ちょっとで解ける・・・っ」

 

縄を解く手伝いをしようと手を伸ばすが力が入らない。それどころが遠近感も平衡感覚も定まらず、まるで強い酒に酔ったようだと思った。どちらがオウエンかエディか解らなくなり、それが堪らなく可笑しいと笑ってしまう。

 

「まあ、エディさまが、さんにんもいらっしゃる。・・・ふっ、ふ、ふふふ」

「いや、エディが三人も居たら煩いから。って、ディアナ嬢、大丈夫?」

 

ディアナは床に両手を着き、ぐらぐら揺れる視界の何もかもが可笑しいと笑い続けた。

笑い過ぎたためか身体中が熱く、胸元のボタンを外そうとして止められる。猿轡を外したオウエンに呆れた声で問われるが、大丈夫と答えることが出来ない。顔を上げると、足の縄を外しながら怪訝な顔で見つめて来る双子の表情があまりにも可笑しくて、手から力が抜けると床に転がってしまった。

縄から脱したエディがディアナを座らせて背を支えながら、頭を掻き毟る。

 

「ああ、もうっ! 無理に動かなくていいよ。何を飲まされたのか判らないけど、熱いなら冷やすから、ドレスを脱ごうとするのは止めて! オウエン、水と濡らしたタオルを持って来て」

「あああっ! これは絶対にマズイって!」

「いいえ? いまのは、とってもおいしかったです」

「最高に最悪。・・・マズイよ、絶対に」

 

テーブル上の瓶を調べながら喧々囂々と話し合う魔法導師。

縄から脱してディアナを介抱する双子の護衛騎士たち。

二つの輪から外れた場所でワナワナと震える王女が、腕を振り上げ扇でテーブルを叩こうとした瞬間。

 

―――――――天井から雷が落ちて来た。

 

「ディアナーッ!」

 

突然、屋根の一部を破壊しながら落ちて来たのはエルドイド国王太子殿下ギルバード、その人で、帯刀した剣を構えながら周囲を見回し、ディアナに気付くと両手を伸ばして掻き抱く。強く抱き締めた後、肩を掴んで顔を覗き込み、怪我はないか確認しようとして眉を顰めた。

 

「ディアナ、熱が出たのか? 具合が悪いのか? だ、大丈夫か?」

「・・・まあ、でんかが、いらっしゃる。めが、あかくて・・・きれい」

 

何故か頬を上気させたディアナが嬉しそうに笑みを浮かべている。何があったと顔を覗き込むと、彼女は楽しそうに手を伸ばし、ギルバードの頬を撫でてくるから戸惑い固まってしまう。とろりと惚けた瞳と濡れた唇に思わず手が伸びそうになり、慌てて握り拳を作り背後の双子に視線を向けると、困った顔で肩を竦められた。

 

「えっと、一応ディアナ嬢に怪我はありません。ですが後ろの魔法導師らが飲ませた何かで、今は・・・体調というか何というか、・・・笑い過ぎて、身体が熱いみたい?」

「そうそう、殿下の後ろにはバールベイジ国のビクトリア王女がおられますよぉ」

「何っ!? ではディアナを攫ったのは、やはり王女か!」

 

振り返るとピンクの布に包まれた肉の塊・・・のような王女が椅子から立ち上がるのが見えた。

王女の真っ赤な顔は茹でた蛸を連想させ、身をくねらせながらドレスの裾を掴み御辞儀してくる姿に苛立ちが増して、手にした剣を突き刺したくなる。

 

ビクトリア・ビルド・バールベイジ王女! これは一体どういうことか、御説明頂けますか!」

「ギルバード殿下! こ、この間はゆっくりお話する時間もありませんで、とても残念です。次回はじっくりと、じ、時間を作りまして・・・・。ああっ、ギルバード殿下から、そのように熱い視線で見つめられると、ビクトリア照れてしまいますぅ!」

「・・・・・はぁ?」

「こんなにも早く、再び御目見え出来るなど想定外で、このような狭い場所での逢瀬となり申し訳御座いません。それと、殿下の口から私の名前が紡がれるのは嬉しいのですが、出来れば・・・次は二人きりの時に・・・・。いやぁん、これ以上口にするのは恥ずかしいですぅ!」

 

現状を把握していない肉の塊・・・いや、ビクトリア王女が、ギルバードの問いに顔を赤らめ、見当違いのことを捲し立てながら太く逞しい腕を持ち上げ、揺れる頬肉を押さえる。

一瞬、王女が何を言っているのか理解出来ず、呆けている内にテーブル周りの騎士らしき者たちが杖を取出し構えるのが見えた。騎士ではなく魔法導師だったかと杖を見ながら納得する。その間も王女は理解し難い動きを繰り返し、テーブルの上に虫でもいるのか、身を捩りながら太い指を捏ね繰り回していた。


「殿下・・・。あの王女様、現状を全く理解してないよぉ。・・・怖っ!」 

「魔法導師引き連れて、ディアナ嬢を攫って、それなのに屋根を壊して飛び込んできた殿下に・・・照れちゃうだの、恥ずかしいだのって。・・・何を考えているのか、考えると鳥肌が」 

「それ以上は言うなっ! ・・・考えたくもない!」

 

嬉しそうに身を捩る王女と、その王女を驚愕の表情で見つめる双子騎士と、蒼褪めた顔を背ける王子を前に、ディアナは身体の裡から湧き上がる熱に困惑し始めた。

少し前までは、ただ熱くて、ただ可笑しいだけだった。

ぐらぐら揺れる視界に映る双子が三つ子になり、四つ子になり、そして紅い瞳のギルバード王子の姿が夢のように現れる。笑い過ぎて熱いのだろうと何度も息を吐いて落ち着こうとするのだが、躰の裡に熾った熱は一向に冷めることがない。そして次第に、熱が妙な感覚を訴え始めた。 

耳に届く王子の声に、何故か動悸が激しくなる。知らず膝が擦り寄り、激しい困惑に泣きそうだと唇を噛む。胸から腹に落ちた熱が下肢の間でじわりと疼きのような熱へと変わり、いくら膝を摺り寄せても熱は冷めない。揺れる視界に映る王子の背に手が伸びそうで、ディアナは急ぎ胸に引き寄せて握り締めた。

これ以上ないくらいに膨らんだ、初めての感覚。

少しでも触れられたら弾け飛んでしまいそうで、訳のわからない恐怖に身を竦めるしかない。

 

「ディアナ? どうした・・・、震えている」 

「っ! ・・・やっ!」

 

見て判るほど震えるディアナに気付き、肩に触れようとした瞬間、叫び声に拒絶される。

真っ赤な顔を背けられ、近寄るなとばかりに距離を取られ、ギルバードは驚嘆に言葉を失った。少し前まで酒に酔ったように惚けていたのに、今は何かに怯えているように見える。

 

「・・・おい、ディアナは何を飲まされた?」 

「わかんないよ。もう色からして飲み物とは思えない代物で、匂いは臭い!としか言えない」 

「余りの不味さに吐いたり落としたりしたけど、少し前に飲んだのは綺麗な色をしていた。だけど飲んだ後から急に笑い出して、熱いって言い出して・・・、そしたら殿下が落ちて来た」 

「あぁ? ・・・てめぇら。ディアナに、いったい何を飲ませたっ!」 

 

ディアナに拒絶された恨みを織り交ぜ、ギルバードは魔法導師に鋭い視線と共に振り向き、怒気を孕んだ声で脅す。一人の導師が短い悲鳴を上げながら杖を持ち上げた瞬間、オウエンが投げた薪が見事命中して崩れ落ちた。

 

「あ、あなたたちっ、ギルバード殿下に杖を使うのはお止めなさい! ああ殿下、御心配なさらなくても結構ですわ。この者たちは私の忠実な配下。もちろん殿下の配下でもありますから」

 

どこから出したのか、テーブルに化粧道具を広げていた王女が、塗り終えたばかりの真っ赤な口端を持ち上げて笑みを浮かべる。湯気が立ちそうなほど汗ばんだ顔に紅い唇が醜悪としか見えず、さらにピンクのドレスの裾を揺らしながら近付いて来る姿に、ギルバードは蒼褪めた。

今すぐディアナを抱えて逃げ出したいと脳裏に浮かぶが、何を飲んだか判らないままでは対応に困る。どうにか足を踏ん張り、王女を睨みながら問い掛けた。

 

「王女。ディアナに何を飲ませたのか、御教え願えますか?」

 

途端に眉を寄せる王女が、蹲るディアナに侮蔑の視線を向ける。手にした扇を広げてディアナを視界から遠ざけながら、ギルバードに真っ赤な唇を突き出した。

 

「そんなことより、この娘はギルバード殿下の何なのですか? 先の舞踏会では国王様とこの娘が踊ったなど、信じられないような噂が我が国まで流れて来ております。聞けば田舎領主の娘で、では何故王城にいつまでもいるのか、それは殿下の妃候補ではないかと、馬鹿げた流言まで耳に届く始末!」 

「彼女は私と王の大事な賓客だ。その彼女と彼女を護衛する者を攫い、幾日も閉じ込め、訳のわからないものを飲ませるなど、どんな理由があろうと赦すことは出来ない!」 

「まあ・・・ギルバード殿下、どうなされたのですか? もしや、その娘に誑かされているのではないですか? もしそうでも御安心を。私の献身的な愛で、殿下を真の道へとお導きさせて頂きますわ!」

「いや・・・結構だ」

 

胸だか腹だか解からないものをブルブルと揺らし、赤ら顔の王女は見当違いも甚だしい台詞を連ねながら近付こうとする。噴き出した溶岩流のような熱波が放たれるのを感じながら、ギルバードは這い上がる悪寒に身を震わせて、王女から顔を背けた。

不毛な言い合いをしても埒が明かない。それよりもディアナの容態が心配だ。

 

「オウエン、水をくれ。いや、その水甕ごと持って来い」 

「さっきまで熱いって言っていたけど、今はガタガタ震えてるね」 

「とにかく水を大量に飲ませて吐かせる。汚れたドレスもどうにかしなきゃならないな。着替えは馬車の中か? ああ、エディはローヴたちを小屋前で待て。もう、この小屋近くまで来ているはずだ」 

「了解。ああっ、やっと外に出れるよぉ!」

 

オウエンが水甕を引き摺りながら近くまで持って来るが、ディアナは身を丸くしたまま顔を上げようとしない。無理やり顎を持ち上げて水を飲むよう柄杓を近付けるが、強く目を瞑ったまま震え続けている。真っ赤な顔は熱でもあるのかと心配になるほどで、その上に視線を合わせてくれない彼女の姿を前にしてギルバードの胸が痛くなった。

 

「おい! ディアナに何を飲ませた!」

 

怒気を孕んだ声に一人の魔法導師が震える声を上げる。最後に作ったのは当初の思惑から大きく外れ、王女のために持って来た品を使ってしまったのだと。それは何だと問うと、一斉に困った顔で王女を窺い、そして膝を着いて低頭した。

 

「ビクトリア王女様、申し訳御座いません! ・・・・例の品を全て使ってしまいました!」 

「何ですって! 殿下のためにと用意させた、例のアレを使ってしまったの?」 

「そ、そうです。記憶錯乱の薬を二度も吐かれ落とされ慌ててしまい、気付けば先ほど渡したグラスに、用意した例のモノを全てを使用しておりましたぁ。ま、誠にっ、申し訳御座いませんっ」 

「あれは・・・あれはギルバード殿下のためにと作らせたのに! お前たち、なんてことを!」 

 

記憶錯乱の薬と聞き、ギルバードは柄杓の水を口に含むと、急ぎディアナに口移しで飲ませた。抗おうとする顎を強く抑えて口を抉じ開け、何度も無理やり水を飲ませる。

背後から首を絞められたガチョウの悲鳴が聞こえるが、無視して水を飲ませ続けた。 

大量に水を飲ませた後は激しく抵抗する手をオウエンが押さえ、抉じ開けた口に指を突っ込み、強制的に吐かせる。薄いオレンジ色の水が吐き出され、これがそうかとオウエンに尋ねると眉を寄せて頷かれた。

もっと吐かせようと再び水を飲ませた時、ギルバードの腕を退くように縄が巻き付いてくる。何だと眉を寄せて振り向くと、王女が髪を掻き毟り真っ赤な唇をハクハクと戦慄かせているのが見えた。

 

「で、で、殿下は御乱心されているわ! 唇が穢れてしまう前に、その女から早く遠ざけてぇ!」 

「・・・こ、の・・・っ」 

「殿下っ、相手は一応王女ですからね。お忘れなく」

 

オウエンが身体に巻き付く縄を引き剥がしながら宥めるように肩を叩くから、ギルバードは苛立ちを必死に抑え込んだ。しかし縄で拘束しようと動いたのは相手が先。多少の抵抗や報復はあって然るべきだろうと立ち上がる。

魔法導師が怯えながら王女の前に進み出て杖を持ち上げると、さらに幾本もの縄が鎌首を持ち上げる蛇の如く現れた。しかし、ギルバードが手で払うと縄は急に方向を変えて魔法導師に襲い掛かり、手を握り引き寄せると彼らが持っていた杖が宙を飛んで足元に落ちる。オウエンが急ぎ杖を拾い集め、もう使わせないぞと抱え込んだ時、入り口からパラパラと明らかに活気のない拍手が聞こえて来た。

 


 

 

 


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