紅王子と侍女姫  84

 

 

薬湯を飲ませ終えたと指輪で伝えると、歪んだ壁からローヴとカリーナが姿を現す。

深い眠りに就くディアナの脈を取り、カリーナが安堵の息を吐いた。ローヴは飾り立てられた二人掛けの椅子にのんびりと腰掛け、ギルバードを見上げる。

 

「王女が御連れになった魔法導師は全員、王弟を幽閉している邸に連れ行きました。ザシャが引き続き、元々どの国に属していたのか、王女と知り合った経緯、何を今まで研究していたかを調べ、ディアナ嬢に飲ませた媚薬成分の詳細も訪ねております」

「先ほど飲ませた解毒薬だけでは無理なのか?」

「それで充分だと思いますが、念のためです。あの猪突猛進な王女が、愛しい殿下に飲ませようと作らせた特製の媚薬。どのような効果が現れるのか、主に何を用いたのか、興味が尽きませんからねぇ」

「・・・媚薬を無理やり飲ませようなど、一国の王女が考えることが恐ろしい」

「無理を押してでも殿下を求めた証拠。男冥利に尽きるではありま・・・ぶはっ!」

 

噎せ込むように笑い始めたローヴを睨む気力も削がれる。頬の赤みを残したままのディアナは静かな寝息を繰り返し、一時間ほどで目が覚めるだろうとカリーナが言う。

その間に手の傷の処置をしますと袖から道具を出し、大仰な嘆息を吐いた。

 

「今度は手に怪我を負われて・・・・。くれぐれも、と殿下にお願い致しましたのに」

「あっ、そ・・・それは」

「ええ、双子騎士の縄を解こうとディアナ嬢が自ら傷を負ったとは存じております。しかし元々の原因は殿下がディアナ嬢の立場を早く明確になさらずにいるからではないのですか?」

「うっ、そ・・・それは」

 

確かにそれも原因の一部だろう。だからこそ、ディアナの両親に結婚の承諾を得ようとアラントルに来たのだ。やはり一緒に来るべきだったのかと項垂れると、カリーナが咳払いを落とした。

 

「目が覚めましたら、こちらの薬湯を直ぐに飲ませて下さい。精神を落ち着かせるハーブを処方しております。それとディアナ嬢の荷物を持って来ました。下着姿のままでは城に戻れませんでしょう」

「馬車は双子にリグニス城へと運ばせます。カイトたち魔法導師は殿下が壊された小屋の修繕を済ませましたら王城に戻ります。ビクトリア王女は魔法導師と共に邸に御連れしましたが、まだ硬直させたままです。バールベイジが今回のことに係わっているか、調べを済ませ、王に相談する予定です。・・・殿下、ディアナ嬢が攫われた件は、念のため王女のことを伏せた状態でアラントル領主に御説明下さいね」

 

ギルバードが頷くと、カリーナは心配そうにディアナの髪を撫でてからローヴと共に壁から姿を消した。寝台に腰掛けたギルバードは、テーブルに置かれた薬杯を見つめ、深く息を吐く。

きっと目覚めたら、ディアナは自分の痴態を思い出して嘆き悲しむことだろう。記憶を消すことは出来るだろうが、ローヴからそれは禁忌だと教えられている。人の感情、生命、記憶に手を出すことは決してしてはならないと。だが、ディアナが羞恥に嘆き悲しむ姿を見るのは辛い。

 

「・・・一時だけでも」

自分が過去にかけた魔法で彼女は自分の身分を忘れた。侍女だと思い込み、ドレスを厭い、働くことを喜びと考えた。あの時は何も考えずに放った魔法だが、同じような作用を齎すことは出来るだろう。もちろん勝手な行動は後々大きな歪みとなることを学んだギルバードだ。すぐにローヴへ相談する。短期間の記憶を、一時的に別の場所へと移動させることは出来るかと。

 

「記憶を消すつもりはないが、これ以上ディアナが悩むことになるのは辛い。・・・媚薬で自分がどんな状態だったかを思い出したら、絶対に姿を消そうとするだろう。だから数か月でもいい。彼女の心が落ち着くまででいいから、飲んだ後の記憶を移動させることは出来ないだろうか」

『そうですねぇ。まずは、殿下が勢いと思い込みで勝手な行動を取らず、私に相談しようとされたことは称賛に値します。そしてディアナ嬢への熱い想いを酌み、今回はその案に賛同致しましょう』

 

答えると同時に壁から姿を見せたローヴは、ギルバードに近付くと柔らかな笑みを見せた。心強いと見返すギルバードの額に杖を宛がい、この小屋に来てからのディアナの様子を垣間見て眉を顰める。

 

「これは・・・目が覚めて全てを思い出した途端、ディアナ嬢は間違いなく顔色を変えて逃げ出すでしょうねぇ。彼女の心情を鑑みると、確かに記憶を移動させると言う殿下の案は至極妥当と思われます。それにしても記憶を『消す』のではなく、『移動させよう』とはよく思い付きましたねぇ」

「ローヴが感情や記憶への魔法関与は禁ずると言っていたのを思い出しただけだ。だが、目覚めた彼女が俺の前から姿を消そうとするのは想像に易い。気にすることは無いと伝えても、ディアナはきっと自己嫌悪に陥るだろう。で、『移動』は可能なのか?」

 

ふむと顎を擦るローヴが、ギルバードを真っ直ぐ見つめる。沈黙が続く中、ディアナが眉を寄せて身じろいだ。まだ熱が籠っているのか、上気させた顔に汗が浮かび、すり寄る足の動きが艶めかしい。

その首に、露わになった肩に口付けた自分を思い出し、よくぞそこで止めたと自分を褒めたくなる。

『婚姻が済むまでは自重すると約束するから』

約束した自分の言葉通りに自重自戒出来たと満足していると、顔を覗き込んだローヴが目を細めて笑い出すから、笑いごとじゃないと睨み付けた。顎を擦りながら笑っていたローヴは「では」と指示を出す。

 

呼吸を整えたギルバードは視界を紅く染め、起こさないようディアナの前髪を払って額に口付けた。この小屋に来てから気を失うまでの時間を、彼女の額から吸い込み静かに離れる。

やがてディアナの眉間から皺が消え呼吸が穏やかになり、身体から力が抜けていくのがわかった。彼女の足元の掛布を捲り左足首を持ち上げ、ギルバードはその甲に口付ける。吸い込んだものを注ぐように息を吹き掛けると火傷のような赤味が一瞬広がり、それは浸透するように静かに消えていく。

これで媚薬に踊らされていた間の記憶は足の甲へと移った。魔法が解けるのは次にギルバードが口付けた瞬間となる。足の甲に口付ける機会など滅多にないだろう。きっとそれは情を交わす時になる。

それはいつになるのだろうかと眉を寄せながら、そっと掛布を被せて足を隠した。

 

「まあ、十年も魔法をかけ続けたことに比べたら、記憶を一時的に移動するのなど些細なこと。それに今のディアナ嬢の精神を守るために必要だと私も納得します。しかし殿下、それを必ず解く時が来ます。その時はディアナ嬢が逃げ出すことのないよう、しっかりがっちり、彼女の御心と身体を繋ぎ止めて下さいね。あとで周章狼狽するのは御自身ですよ。それは御困りになるでしょう?」

「おま・・・っ、心はいいが、身体って・・・露骨な」

 

幼少時より側に居るのが当たり前のローヴから露骨な台詞を吐かれてギルバードが思わずたじろぐと、魔法導師長は驚いたように目を大きく見開き、肩を震わせ始めた。そして苦しげに息を詰まらせ、身悶えながら盛大に笑いを零しつつ壁へ移動して姿を消す。

ギルバードは熱を持つ頬を擦り、ディアナを見下ろした。穏やかな呼吸を繰り返す彼女は、どんな夢を見ているのだろう。皆に祝福されて幸せの涙を零すディアナを抱き締め、愛しいと柔らかな肌にいくつもの口付けを降らす。そして恭しく彼女の足に口付け、全てを思い出して羞恥に逃げだそうとする身体を抱き締める。そんな未来が早く来るようにと願いながら、ギルバードは寝台に腰掛けた。

 

 

やがて目を覚ましたディアナに、有無を言わせず用意された薬湯を飲ませる。呆然としたまま薬湯を飲み干したディアナは、小屋の様子に驚き、そして下着姿の自分に驚き、身体に腕を巻き付けた。 

「ええっ!? ど、どうし・・・?」

「ああ、ドレスが入ったトランクはここにある。着替えの間、俺は外にいるから」 

媚薬の効果はすっかり消えただろうかと問いたいが、今は下着姿の彼女から急ぎ離れた。

どうか媚薬で乱れたことを覚えていないように願いながら、ディアナからのキスは二度目だなと口元が緩みそうになる。だが思い返すとグラフィス国商船の上では、激情で我を忘れて魔法を使う自分を諌めるためで、今回は媚薬によるものだ。どちらもディアナ自身が望んでしてくれた訳じゃない。

 

「お、お待たせ致しました。殿下・・・あの、エディ様とオウエン様はどちらに? それと、あの・・・ビクトリア王女様は・・・どうなさっておられますか?」

扉が叩かれ、着替え終えて顔を出したディアナは自分以外の者を心配する。優しい彼女の気持ちに心に打たれながら、何故そこに王女の名前まで連ねるのかと眉が寄ってしまう。

 

「まず手の傷だが、深いものではないとカリーナが言っていた。だが二日間は濡らさないように気を付けてくれ。エディ、オウエンは全くの無傷だから心配はいらない。その前に咽喉は乾かないか? 安心して飲めるのは水くらいだが、薬湯を飲んだ後だから口直しが欲しいよな」

「あの・・・こちらの小屋は、どこの?」

 

王女のことは聞いても答えてくれない雰囲気を感じ、ディアナは次に気になったことを尋ねた。

豪奢な天蓋付の寝台に、レース地のクッションが置かれた椅子、テーブル上には菓子やワインが置かれ、窓や床には小屋にはそぐわないピンクの布地やジュータンが見える。水場や壁はさっきまでいた小屋に似ているが、場所を移動したのだろうかと問い掛けた。

 

「あ? ああ、ここは・・・、ディアナが休めるように、な」 

濁す口調に、それ以上は聞くなと暗に言われた気がしてディアナは口を閉ざして頷いた。それに安堵する王子を見上げると、突然妙に恥ずかしくなる。助けに来てくれたことに嬉しい気持ちが溢れる一方、何故か顔を見るのが恥ずかしいとも思ってしまう。顔を見ることが出来ない羞恥から逃れるため、ディアナは小屋を見回しながら一気にしゃべり始めた。

 

「で、殿下。助けに来て下さり、ありがとう御座います。お伝えする御礼が遅くなり申し訳ありません。あの殿下に怪我などはありませんか? エディ様オウエン様は無事と聞きましたが、王城に戻られたのですか? 先ほどカリーナさんのお名前が出ましたが、ローヴ様もいらしていいるのですか?」

「助けに来るのは当然だ、ディアナは俺の大事な未来の妻だからな。双子は馬車をアラントルの城に移動させている。ローヴとカリーナは怪我の治療を終えて王城に戻った。俺に怪我はない。・・・さあ、他に問題が無いなら、領主の許に行こう。そして直ぐに結婚を申し込むぞ!」

 

トランクを持った王子に手を掴まれ小屋から出ると、そこには鬱蒼とした闇が広がっていた。王女が小屋に現れた時はまだ明るかったはず。いつの間にこんなにも時間が経過したのだろうと目を瞠っていると、王子に抱き上げられた。慌てて首に手を回してしがみ付くが、小屋の周りには馬一頭いない。

 

「で、殿下? この闇の中、どうやってリグニスの城に向かうのですか?」

「そうか。・・・下手に飛ぶと危険があるな。ローヴを呼ぶから、少し待て」 

「飛ぶ」の言葉に、山中で王子に抱き上げられて緑の蔦から逃げるために宙を飛んだことを思い出す。思わず身震いすると、背を支えていた手が心配するなと撫でるように動いた。その瞬間、ぞくりと奔る感覚に身体がざわめき顔が熱くなる。どうしてなのかしらと首を傾げると小屋から魔法導師が現れた。見たことがある顔にディアナは目を瞬き、そして歓喜の声を上げる。

 

「その節は、まことに御無礼致しました。ディアナ様!」

「まあ! 怪我は、痛みはないのですか? 無理はしていませんか? ・・・お顔を見ることが出来て、本当に・・・良かった、です。ほんとうに・・・・」

小屋から現れたのはエレノアに唆されてディアナを山に連れ出した魔法導師。グラフィス国から来た彼はエレノアに刺され生死を彷徨う深い傷を負った。しかし目の前に立つ彼はとても元気そうで、ディアナに笑みを見せている。

「はい。瑠璃宮を始めとして、多くの皆様方に看て頂き、既に完治しております。ディアナ様も御健勝の御様子、そして今回、微弱ながらお助け出来る手伝いが出来たこと心より嬉しく思います」

「お元気そうで・・・・ほんとう、に・・・」

 

ギルバードの腕の中で、ディアナは感極まって涙を零す。全身を震わせて他の男の無事を喜ぶディアナの笑みなど見たくはないが、ここは広い慈悲をもって口を閉ざした。しかしどうしたって面白くないと顔は強張ってしまう。すると魔法導師の背後で揺れるものが見えた。目を眇めると、やはりそれはローヴで、口を押えて笑いを耐えている姿が確認出来る。

 

「ローヴ! 【道】を使い、リグニス城に戻ることは可能か?」

「ええ、可能です。先ほどはそれを伝えることを失念しておりました。ですから、殿下がディアナ嬢を抱いたまま夜の闇を飛翔しようとなさる前にお呼び頂いて感謝しております」 

うぐりと口を噤み、ギルバードは小屋の中へと戻る。

魔法導師の名前はハインリヒと聞いたディアナは、嬉しそうに互いの無事を喜び、可愛らしい笑みを零し続けた。他の男に笑みなど見せるなと口から零れそうになり、狭量なところは少しでも見せたくないと唇を固く結ぶ。それが可笑しいとローヴが身体を震わせるから、余計に面白くない。

王女が散らかした小屋をハインリヒが元通りにするため、そこで別行動となったことだけが救いだ。 

【道】を使いリグニス城の応接室に到着すると、まずは薄笑いのレオンが仰々しく出迎えた。

 

「おかえりなさいませ、ディアナ嬢。御無事で何よりで御座います。ただ今、リグニス領主様を呼んで参りますので、こちらのソファで休まれて下さい。ああ、双子は先に休ませておりますので御安心を」

「レ、レオン。その、悪かった。突然、手の痛みと吐き気がして、ディアナに何かあったのだと焦って、飛び出してしまって・・・・わ、忘れた訳ではないのだが、結果そういうことになって」

「ああ、ローヴ様もお疲れでしょう。お茶の用意が出来ておりますので、お寛ぎ下さい」

 

では、と応接室を出て行くレオンはギルバードを無視して扉を閉めた。大人げない対応を取るなと文句を言いたいが、今は領主に説明する内容を考える方が先だ。 

やがて慌ただしい足音と共に領主と執事のラウルが現れ、ディアナを見るとぐしゃりと顔を歪ませる。

愛しい娘が攫われ、そして王子と共に帰って来た。

その安堵が領主の声を奪い、ただ震える手でディアナの手を握り締める。 

「お、お父様・・・御心配お掛け致しました」 

「・・・うん、・・・・ん」 

握り締める手に領主の涙が零れ落ちる。ディアナの言葉に幾度も幾度も頷く領主の横で、ラウルがそっと涙を拭った。静かに扉を閉めたレオンがその様子に笑みを浮かべ、ローヴがゆったりとソファに背を凭れながら、王子をちらりと見やる。ギルバードは、まずは領主が安心出来る説明をしようと思っていたが、娘が無事に戻って来た喜びに声を詰まらせ涙する父親を目にして、まずは謝罪だと思い直した。

 

「ジョージ・リグニス。今回の件は、王太子妃の座を狙う他国の者の仕業と判明した。ディアナ嬢を巻き込む形となり、本当に申し訳なく思う。心から謝罪させてもらう」 

「い、いえ。・・・・殿下におかれましては、無事に娘ディアナを救出頂き、心より感謝申し上げます。そして侍従長であるレオン様にも魔法導師様にも、心より感謝致します。ありがとう御座いました」 

「いや・・・。ディアナ嬢が長く王宮に滞在することとなり、そのために目を付けられたのだとしたら、やはり私のせいだ。元々の原因を作ったのは私なのだから」

 

十年前の魔法が原因だと低頭する王子の姿に、領主は悲鳴を上げそうになった。慌てて駆け寄るが、顔を上げた王子はその場で跪いてしまう。ディアナが無事に戻ったのだから問題ないと繰り返しても、王子は真摯な表情で首を横に振った。

 

「心から詫びさせて欲しい。ジョージ・リグニス、誠に申し訳ない。心より謝罪する」 

「いいえっ! ほ、本当に、もう、ディアナが無事でしたから」 

「それともうひとつ。ディアナ嬢の父である貴方に話しがある。・・・ディアナ、ここへ」 

 

ゆっくりと立ち上がる王子に呼ばれ、目を忙しげに瞬きながらディアナが足を運ぶ。同じように目を瞬く領主の前で、再び跪く王子がディアナの手を取り、その甲に口付けた。

 

「リグニス侯爵が三女、ディアナ・リグニス。私、ギルバード・グレイ・エルドイドは貴女に結婚を申し込む。どうか、この申し出を受け入れて欲しい。そしてジョージ・リグニス、貴方の娘との婚姻を快く了承して欲しい」 

「・・・へ?」 

 

思わず領主の口から疑問が零れる。

突然の申し出に驚きもせず王子を正面から見つめるディアナと、その娘を恭しく見上げる王子の姿に、領主はぽかんと口を開けた。どうして我が国の王子がディアナに求婚しているのか、全く理解出来ない。真っ先に思い浮かんだのは、王子がかけたという魔法により長く侍女をさせたことを悔やみ、その侘びで婚姻を申し込んだのか、だった。

だが過去の侘びで未来の王太子妃を選ぶなど、流石にないだろうと眉を寄せる。

次に思い浮かんだのは互いに相手を愛しく想い合い婚姻の約束をした、だ。

だが、一国の王子が田舎貴族の娘を王太子妃に選ぶなど有り得ない。第一、国王を始めとした王族や、王宮に従事する廷臣が反対するに決まっている。次期領主である娘夫婦と妻がいない今、目の前の事態に父として、一領主として言葉を発しなければならない。本来なら王子に婚姻を望まれるのは大変喜ばしいことだが、しかし素直に喜べないと領主は視線を落とした。

 

「で、殿下。・・・娘は、その、ディアナは貴族息女としては大変未熟で御座います。長く城内だけで過ごしておりました娘が、王城で・・・それも殿下の妃になるなど無謀としか思えません。娘の幸せを願う親としては、殿下からの申し出を受ける訳には参りません。どうか、・・・どうか御了承下さいませ」

 

目の前で蒼褪め項垂れる領主の姿に、ギルバードの鼓動が跳ねた。城内の礼拝堂で聞かされた領主の言葉が思い出される。確かに今までの穏やかな生活とは真逆となることは間違いないだろう。王宮での日々に安寧を望むのは難しい。だが、それでも自分が望むのは―――――。

 

「リグニス領主、貴方の親として娘を思う気持ちは重々理解出来る。しかし私はディアナを愛しく思い、彼女と共に過ごす未来を望む。それを親である貴方に了承して貰いたい」 

「・・・・殿下に意見申し上げるのは不遜と存じますが、ディアナは田舎育ちの娘です。さらに十年もの長き間を侍女として過ごし貴族息女としての教養も最低限しか身に着けておりません。そして、このアラントルには穏やかな自然しかない。・・・歴代の王妃は大きな財力、権力を持ち嫁ぎ、更なる国の繁栄に助力されておられます。それを民は喜び、安堵するのです。ディアナでは・・・無理です」

「今の国王も、俺もそんな考えは持っていない! 愛しい妃と民のために、今以上に尽力するつもりだ。財力も権力も必要ない。だからディアナには心置きなく嫁いで貰いたい」

「しかし城に引き籠っていたも同然のディアナに王宮での生活は・・・」

 

―――苦労するのは目に見えている。そう続くだろう言葉は、領主の戸惑う視線から伝わって来る。

婚姻の申し込みに、ディアナの両親は驚きこそすれ断ることなどしないだろうと、視察出立前に自分はそう思っていた。しかしディアナの親は眉を潜めて首を振る。王宮に出入りする貴族令嬢の殆どが望む王太子妃の立場を、目の前の領主は望まない。それはディアナ本人の幸せを願っているからだ。 

ギルバードは立ち上がり、領主の手を握り締めた。

 

「親として、ディアナの未来を憂惧するのはわかる。実際、攫われた事実を目にして、それは至極尤もなことだ。だが私は心からディアナを幸せにしたいと望み、だからこそ婚姻を申し込んだ。彼女なしに自分の人生は過去も未来もない。私はディアナと共に歩み続けたい。だから」

「殿下の御気持ちは心より嬉しく思います。ですがディアナの父親として、アラントル領の領主として、リグニス侯爵家当主として・・・・この話をお受けする訳にはいきません。殿下の未来を慮っての言葉として、どうか御理解下さいませ」

「何故だ? ・・・確かにディアナも最初は頑なだった。身分や育った環境を持ち出し、俺の気持ちを無下にした。だが政務や統治に身分や育った環境など関係ない。現王も俺もそういう王宮作りをしている。リグニス領主は滅多に王宮に顔を出さないようだが、ぜひ王宮に足を運んでくれ。城下の漁業組合や商工会、酪農協会の者たちが忌憚無き意見を交わす議会や、各領主が陳情苦情を持ち込む謁見。そこに身分はなく、あるのは国の未来を良くしようとする体勢だけだ! それに既に王は認めている。ディアナが俺の妃になることを」  

「ええっ!? あ・・・、ディ、ディアナは? ディアナ、は・・・どう思っているんだ?」

 

王子の言葉に驚嘆の面持ちでディアナに振り返った領主は、その表情を目にして理解した。 

娘は王子と共に歩む道を望んでいると。そっとドレスの裾を摘まむ娘が、静かに腰を折る。優雅な所作は貴族息女そのもので、柔らかな笑みを浮かべながら親である領主に口を開く。

 

「わた、しは・・・ギルバード殿下からの申し出に、お父様と同じ意見を伝え、私では殿下の未来に影を差すだけだと、役に立てないと何度も申し上げました。でも殿下は卑屈な私の心ごと、温かく広い御心で包み込まれ、その温かさに私は・・・共に歩く決心を・・・持つことが出来ました」 

 

僅かに震える唇から紡がれる娘の言葉に、領主は瞑目した。王城で過ごした数か月間に何があったのか、王子を前にしても恐れ戦くことなく微笑む姿に、驚きと微かな悲しみを感じる。十年もの長き間、自城で侍女として働き続けた娘には魔法がかけられていた。それを解くために王城に向かった娘から、魔法が解けた報告と共に、王宮主催の舞踏会に招待され国王と踊ったと手紙が届く。東宮に滞在していることにも驚かされ、それでもやがて自領に戻って来るだろうと信じていた。アラントルに戻ったら、今まで苦労した分も心安らかに過ごしてもらおうと願っていた。 

しかし、いま目の前の娘はエルドイド国王太子殿下からの求婚を受け入れ、柔らかに微笑んでいる。

まさかディアナが・・・。

そう思いながら、見つめ合う二人の表情を目にして、そうかと納得する気持ちが生まれた。

 

「そう、か。ディアナは殿下と歩む、・・・これからを望むのか」 

「ジョージ・リグニス侯爵。リグニス家執事ラウルと侍従長レオン、魔法導師長ローヴの前で宣誓する。ギルバード・グレイ・エルドイドはディアナ・リグニスを生涯の伴侶とし、王太子妃とすると」

 

息を吸い込み黙り込んだ領主は、ゆっくりとディアナに振り返り、彼女の細い肩を撫で擦った。

そして、瞳を潤ませる娘に静かに腕を回して抱き締め、領主は細く長い息を吐いた。

 

「こうして・・・お前を抱き締めるのは十年ぶりだ」 

「・・・お、とうさま」 

 

愛おしそうにディアナの髪を撫でる領主の言葉に、ギルバードは唇を噛んだ。 

六歳から侍女として働き続けたディアナは、家族を雇い主と捉え、甘えることも共に過ごすこともしなかったと聞く。最低限の教育を受けた後は、日々早朝から夜遅くまで働き続けていた。それを喜びとし、王子が訪城した時は親である領主に頼み込んだ。娘はいないと言ってくれと。 

魔法が解けたと言っても、彼女の本質は変わらない。 

それは両親や姉たち、そして城に従事する者たちが包み込むように彼女の行動を容認していたからだろう。王城に行った後から大きく変化したディアナに戸惑いながら、それでも見守り続けた家族の温かい気持ちと環境が今の彼女を容造っている。

 

「領主、改めて挨拶に訪れたいと思う。その時は奥方や、ロンたちに逢えることを楽しみにしている。ディアナ、一週間したら迎えに来る」 

「一週間、ですか?」

 

その言葉に領主が僅かに眉を寄せて振り返る。ディアナは涙を拭っているのか、顔を伏せたままだ。

魔法を解くためとはいえ強引にアラントルから連れ出し、数か月間王城に閉じ込め、やっと自領に戻って一週間は短過ぎるかとギルバードが焦ると、レオンが小さく咳払いをする。

 

「半月後には国王生誕を祝う舞踏会が開かれます。そこでディアナ嬢を、王太子妃にする旨の正式発表を予定しております。ですから長く見ても御実家に滞在するのは一週間くらいとなりましょう」 

「正式・・・国王様の生誕祝いの舞踏会で、ですか?」 

「はい。主だった領主や貴族が参列致しますので、皆に公布するにはふさわしい場と存じます。もちろんアラントル領主にも招待状は既に届いていると思いますが」

 

領主が蒼褪めた顔を、背後に控えたラウルに向ける。執事も顔色を変え、領主を見つめ返す。

しんっと静まり返った応接室に、再び乾いた咳払いが響いた。

 

 

 

 

 

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