紅王子と侍女姫  87

 

 

「お、お母様。御久し振りです。あの・・・長く御心配をお掛けして」

「ディアナ!? まあまあまあっ!」 

ディアナがデイドレスの裾を摘みながら腰を折ると、久し振りに会う母親は途端に目を潤ませて上から下まで娘を見回し、手を伸ばして抱き締めた。

旅行から戻ると城にいないはずの娘が帰って来ていて、それもドレスを来て「お母様」と口にしてくれたのだ。感激の余り嗚咽が零れ涙が止まらない。埃臭くもない、侍女服でもない、侍女帽に髪を押し込んでもいない娘の姿に感激し、そして夢ではないかと頬をつねる。痛みが余計に瞳を潤ませ、母親はやっと現実だと認識した。

母親の後ろに立つ、以前から城に従事している侍女もディアナのドレス姿に驚き、ぽかんと口を開けている。彼女は母親の旅行に付き添っていたのだろう、大きなトランクを持ったままだ。

 

「ディアナ、魔法が解けて治ったのね! 良かったわ、ああ、良かった!」

「おいおい、そんなにきつく抱き締めたらディアナが苦しいだろう。それより、予定より早い帰りだな。オーラント国から出る船がアラントルに寄るのは、五日後のはずじゃなかったのか?」

 

まるで締め上げるようにディアナを抱き締めていた母親は、夫の声に「あら、まあ」と急いで腕から力を抜いた。侍女は声を上げて笑い、奥様のトランクを部屋へ置いて来ますと食堂から出て行った。真っ赤な顔のディアナが噎せ込みながら母親の手を握ると、目を大きく見開き一気に喋り出す。

 

「ディアナの魔法が解けて、すっかり治って、無事に家に戻って来てくれて、そのうえ王国でも祝い事があるのですから、今年は何て良い年なのかしら!」

「おいおい、少し興奮しすぎだよ」 

父親の苦笑を余所に、母親はディアナのドレス姿を飽きることなく眺めながら嬉しそうに微笑む。母親が話す祝い事は国王陛下生誕祝いの舞踏会のことだろうと、相槌を打つようにディアナは頷いた。

しかし、母親から楽しげに続けられた話は――――。

 

「お若いとはいえ王太子殿下の御結婚が決まり、国王陛下もさぞ御喜びでしょうねぇ」 

「え?」

 

母親が歌うように呟く言葉に、お茶を淹れようとしていたディアナは茶葉をテーブルに撒き散らしそうになった。父親も耳にした言葉に驚き、思わず椅子から立ち上がる。

 

「き、き、決まっただって? わ、私はまだ正式に返事をしていないぞ!?」

「何の返事? 決まったのはギルバード王太子殿下の御結婚よ。オーラント国の第一王女様と御結婚が決まったそうで、エルドイドに向かう船が臨時に出航したの。だから私は早く帰って来れたの。そうしたらディアナが戻っているじゃない! こんなにもすてきな祝い事が重なるなんて、とっても幸せだわ」

「オーラント国の王女と殿下の結婚が決まったって何?」

「何だよ、それ! どういうこと?」

 

明るく高らかに喋る母親の声に、ちょうど城周囲の哨戒を終えて食堂に顔を出した双子が怪訝な表情を見せる。背後からの声に悲鳴を上げて驚いた母親が見覚えのある二人の顔に慌てて立ち上がり、どうして王宮の騎士が城にいるのかと領主を揺さぶって問い詰めた。

黙ったままのディアナに駆け寄ると、双子は忙しげに「違うから、きっと!」と繰り返す。 

「ディアナ嬢、何かの間違いだよ! 俺・・・俺、王城に行って話を聞いて来る!」

「いや、一緒に王城に行こう! 婚姻を申し込んだ国が勝手に言っているだけだよ」

「そうそう、エレノア様みたいに勝手に言っているだけで、殿下の気持ちは既に決まっているんだから! ディアナ嬢、確かめに・・・・一緒に王城に戻ろう?」

 

領主が意味が解らないと狼狽する妻に王太子付き護衛騎士である双子がリグニス城にいる理由をおおまかに伝えると、「まさか!」と悲鳴をあげ、そして腰が抜けたように椅子に座り込んだ。

双子騎士が詳しい話が聞きたいと母親に尋ねると、蒼褪めながら話し始めた。

 

オーラント国より臨時出航した客船上では、王女の婚姻が決まって喜ばしいと盛大なお祭り騒ぎが続いていたと話す。以前より何度も申し込んでいた婚姻に対し、突然エルドイド国より正式に返事が来たらしいと乗船客が話していたそうで、突然の返答に驚きながらも国を挙げて盛大に祝い、王女は王城から港まで華々しいパレードを行って乗船したのだと母親は語った。

その様子は旅行に同行した侍女も見ていると告げ、双子騎士の強張った表情に戸惑い続ける。

「エルドイド国より・・・正式な返事が来たと?」

オウエンが眉間に皺を寄せて領主の妻に振り返ると、怯えたように何度も頷いた。 

「そ、そうです。オーラント国の第一王女がギルバード殿下の妃に正式決定したと。それはそれはもう、王城から港まで大勢の人が集まって王女を送り出しておりました。エルドイドで開かれる舞踏会で婚約発表すると聞きました。その舞踏会に参加する王女を御運びするため、エルドイドに向かう客船が臨時出航することになり、それで私はアラントルに戻るのを早めたのです・・・が、あの」

「では――――殿下は何故あんなことを?」

 

領主が呆然とした面持ちで困惑している妻からディアナへと視線を移す。ディアナは黙ったまま茶器を虚ろに見つめていたが、やがて何かを諦めるように瞼を閉じた。ディアナの結ばれた唇が僅かに震えているようで、エディは必死に声を張り上げる。 

「そんなの何かの間違いだよ! ディアナ嬢、急いで支度して!」

「俺、馬車を用意する! エディ、すぐに俺らの荷物を・・・ああっ、もう荷物なんかいいよ! それよりも早く王城に戻って、殿下かレオンに聞いて、真相を確かめるべきだ」

「そうだな。ディアナ嬢、早く!」 

慌ただしく動き出した双子騎士に目を瞠った領主夫妻とは対照的に、瞳を閉じたディアナはピクリとも動かなかった。オウエンが飛び出すように外に駆け出し、エディがディアナの腕を掴む。

「ディアナ嬢。行こうよ、ね?」

「・・・・・」

 

エディに腕を揺すられ、ディアナは静かに瞼を開き、小さく息を吐いた。エディの心配げな声に返事出来ずにいたのは、母親が楽しげに語る話が現実味を帯びていたからだ。

名ばかり貴族の田舎領主の娘が、それも侍女として働き続けた娘が王太子殿下の妃になる話しより、そちらの方が正解だと感じる自分がいて、それが王子の真摯な気持ちを裏切るようで心苦しくなったから。

何度も好きだと、妃になって欲しいと伝えてくれた王子の気持ちを信じたい一方、ではオーラント国に正式な返答は誰がしたのかと胸が苦しくなる。

他国の王女が妃となり、大国エルドイドの王妃となる。

ふと、領主である父親が言っていた言葉がディアナの脳裏を過ぎる。

『歴代の王妃は大きな財力、権力を持ち嫁ぎ、更なる国の繁栄に助力されておられます。それを民は喜び安堵するのです。ディアナでは無理です。殿下の未来を慮っての言葉として、どうか御理解下さい』

それが普通で当たり前だと、確かに以前の自分も考えていた。

少し前まで、自分も王子が好きだと言うのは過去に魔法をかけてしまった償いで思わず零れた言葉だと、そう自分に言い聞かせていた。だから何度言われても頑なに断っていた。それなのに熱く繰り返される訴えに心動かされ、そして頑なな殻を自ら破り、素直になって頷いたのだ。

王子から何度も囁かれた言葉の数々を信じたい。王女へ正式な返事をしたというのは、何かの間違いだと思いたい。父の前で誓ってくれた言葉は嘘じゃないと言って貰いたい。その言葉が欲しいと、双子と共に直ぐにでも駆け出した気持ちが胸いっぱいに広がる。

だけど・・・・私がそう願うこと。自分が双子騎士と共に慌てて王城に戻ること。

それは王子を信じていないことにならないだろうか。

そして何より・・・・王子の横に立つオーラント国の王女を目にするのが怖い。

優雅に王宮庭園を歩かれる二人の姿を目にした時、自分はどんな行動に出るだろう。

きっと踵を返して逃げるように走り出すに決まっている。そう思うことさえ王子を裏切っているようで、自分が酷く汚らしい存在に思えてくる。

 

「エディ様。私は・・・母が戻って来ましたので、もう暫くはアラントルにいたいと思います」

「でも、ディアナ嬢っ」

「それに・・・オーラント国の王女様が王城にいらっしゃる時に私が戻れば、忙しい殿下の御負担になるかも知れません。ですから私はこのままアラントルに居たいと思います」 

眉を寄せるエディに微笑んで説明するが、ちゃんと笑みを浮かべていられたか解からない。領主と双子騎士の言葉にひどく困惑した表情で立ち竦んでいる母親を目にして、却って落ち着きを取り戻す。

 

「どうぞエディ様、オウエン様に荷物はゆっくり御用意下さいと伝えて下さい。今夜はお母様が旅行から無事に戻られた御祝いに御馳走を作りますので、楽しみにして下さいね」

「ディアナ嬢・・・」

「お母様。料理長がいない間だけは厨房に立つことを御許し下さい。手紙でご報告させて頂きましたが、魔法はしっかり解けています。でも、私の性格はあまり変わっていないようです」

「え? あ、・・・ええ、いいのよ。ディアナが好きでしているなら・・・」

「ありがとう御座います。では着替えて来ます」 

口からは流暢に言葉が零れるのに、手足は木偶のように感覚が無い。視界は薄い膜を張ったようにぼやけて見える。耳鳴りがして周りの音が聞こえず、まっすぐ立っていられないと壁に手をつき、ディアナは自室へと向かった。


 

「エディ。ディアナ嬢のお母さんの言っていることがただの噂なのか、それとも本当なのか、俺は王城に戻って確かめたい。・・・折角実家に帰って来たのに、あんな顔のままで過ごさせるのは可哀想だ」

「うん、それは俺も同じ気持ちだよ。途中で馬を変えて、出来るだけ早く王城に向かって欲しい。本当のことが判り次第、ローヴ様に魔道具の鳥伝を頼んで、速攻教えてくれよ」

「・・・殿下はオーラント国が来ることを知っているのかな」

「毎年、生誕祝いの舞踏会に招待されているのは国内の貴族だけのはずだけど、今年は盛大にやることになったから、もしかして・・・。俺たちには招待客のことまで知らされてないからな・・・」

とにかく王城に戻らなきゃ詳細が判らないと、オウエンはリグニス城を出立した。

 

 

双子が話し合っている間、領主である父親はディアナの部屋を訪れた。

厨房に立つため汚れてはいけないと侍女服に着替える娘の部屋の前で、領主は逡巡する。王子は真摯な態度でディアナを妻にしたいと言っていた。妃にしたいと、愛しく思うが故に共に歩みたいと。それを国王陛下も認めていると言っていた。

だが―――それは違っていたのだろうか。

王子たちが王城に戻った後、ディアナにかけられていた魔法について詳しい話を聞いた。

幼い娘が王子が気にしていた容姿を口にしたがために激昂に触れ、魔法をかけられたのだと知る。しかし王子に長く魔法をかけるつもりなどなく、当時は衝撃で倒してしまっただけだと思っていた。自分が思わず発した言葉で十年も侍女をしていた事実を王子は何度も謝罪し、そして王子自身も長い間魔法をかけたことを悔やみ苦しんでいたとディアナは寂しそうな顔で話していた。

無事に魔法が解けると、王子から離れたくない、側に居て欲しい、妃になって貰いたいと幾度も熱く訴えられ、やがてディアナ自身も王子の側に居たいと思うようになったと話す。今は自国の歴史や王宮行事などを魔法導師長より学び、時に王子や護衛騎士のために菓子を作って過ごしていると言う。

娘が話す過分とも思える高待遇に、どうしても本当だろうかと訝しんでしまう。

魔法を解くためだけに王城に連れて行った一領主の娘を、どうして数か月で妃にしたいと望むのか不思議でならない。それも大国であるエルドイドの王太子殿下がだ。他国や大貴族から数多の婚姻申し込みが来ているだろうに、何故ディアナを選ぶのか解せない。

だが真摯に訴えていた王子の表情を思い出し、本当にディアナを愛しく思っているのは伝わって来た。

では何故、今になって娘にあんな顔をさせるのか。もしかして王子の言う妃とは、側室のことなのだろうか。他国の王女を正妃に据え、ディアナを愛人のように東宮に住まわせるつもりなのか。いいや、王子はディアナを王太子妃にすると言っていた。だが、しかし・・・・。

グルグル回り続ける答えのない考えに領主が頭を押さえて呻いていると、ディアナの部屋の扉が開いた。

 

「お父様・・・、何か?」

「ああ、いや。・・・お前が大丈夫かと、心配になって」 

父親の言葉に一瞬目を瞠ったディアナが、薄く笑みを浮かべる。見慣れた侍女服に白い前掛けをして、髪を一纏めに括っているディアナは僅かに視線を下げて口を開いた。 

「私は・・・殿下の御心に添うだけです。・・・殿下はたくさんの言葉と行動で、私の頑なな心を解き、温かく包んで下さいました。いまの私に出来ることは、殿下を信じることだけですから」

「そうか。そう・・・だな。私も、まさかお前が殿下からの求婚を受けるとは驚いた。娘はいないと言ってくれと、いっそ死んだことにして欲しいと口にしたお前が、嬉しそうに微笑んで殿下の横に立っていたなど今でも夢のようだ。私も・・・・殿下を信じよう」 

父親の言葉に口端を持ち上げて頷く娘を見て、領主はようやく深く安堵することが出来たと笑みを浮かべる。しかし背を向けた父親の後ろを歩くディアナの顔色は白く、足取りは重くふら付いていた。

 

父親が自分を気遣っているのは、痛いほど伝わって来た。

オウエンは真相を訊いて来ると王城に向かってしまい、エディは困ったように自分を見つめる。数日前に王子が訪ねて来た経緯を聞いた母親がオロオロと狼狽して父親に縋るような視線を送っている。侍女は事情が分からないながらに場の雰囲気を感じ取り、そっと自室に籠もっているようだ。

ディアナはラウルが用意した食材を前に段取りを考えながら、王城にいる王子を想って目を閉じる。

王子からの言葉を信じている。船上で自分を傷付けた相手に怒り魔法を放っていたことも、好きだと熱く語ってくれたことも、眠りに逃げた自分の夢にまで来てくれたことも、抱き締める腕の強さも温かさも、全て真実だと信じられる。

それなのに・・・信じているはずなのに、どうしても心が軋むように痛みを発する。

―――やはり王妃は王女や大貴族の令嬢が為るべきなのだと、もう一人の自分が冷静に言う。

オーラント国は叔母が住む国で、肥沃な大地が広がる自然豊かな国だ。良質な鉱山と金山があり、他国との貿易でも突出していると習った。美味しい郷土料理と温泉で観光地としても有名な国である。その国の王女が婚姻発表のためにエルドイド国に足を運んだ。

チキンをソースに絡めながら、ディアナは自分の手を眺めた。久し振りの畑仕事や掃除、洗濯や料理で手は荒れ、腕や腰には筋肉痛が出ていた。何故か笑いが零れそうになり、小さく肩を竦める。

 

「ディアナ嬢、この水は鍋に入れる?」

「ありがとう御座います、エディ様。お願いします」

「芋は洗って皮剥きだね。もしかしてパンケーキ用?」

「はい。皆様に好評だったので母にも作って差し上げたく」 

ふと、ジャガイモのパンケーキを一番多く食べたのは王子だったと思い出し、ディアナの手が止まった。直ぐに息を吐いて鍋を動かし始めたが、エディが何か言いたげに見つめているのが判る。気を遣わせているのが申し訳ないと、ディアナは鍋を火から降ろした。

 

「オーラント国の第一王女様は、以前より殿下に婚姻を申し込まれていたそうですね。他の国からも同じような話はたくさんあったので御座いましょう? 先の舞踏会で視察にいらしていた王女様もそうだと、レオン様が仰っておりましたが」

「う、うん。・・・まあ、殿下と一緒に二年間全領地の視察に回っていたから詳しい話は知らないけど、レオンの許には手紙や鳥伝が来ていたな。そのたびに殿下は、またか! そんなのはまだ早いって怒っていたけど、あれってそういう話だったんだろうね」

「御視察の時から・・・」 

富国強国であるエルドイド国の王位継承権第一位である王太子殿下の許に、縁を結びたいと早くから婚姻申し込みがあるのは当たり前だろう。何を今さらながらに驚いているのか、侍女として過ごすことだけで精一杯だった自分の関心の薄さに呆れて笑いそうになる。

 

「でも国王陛下も殿下も、婚姻で国を発展させようなんて考えない人たちだから。その必要もないくらい大国だしね。ほら、殿下の御母さんは瑠璃宮の魔法導師だった人でしょ? 国王陛下が猛烈に求愛していたのは王宮ではめちゃくちゃ有名な話しなんだよ! 国王陛下も結婚は好きな人とするのが一番いいって殿下に進言していたって。レオンがそう言っていた。だからね、だからディアナ嬢は本当に気にすることなんて何にも無いんだからね!」

「はい、エディ様」

 

早口で一気に話すエディの話しを笑顔で聞きながら、国王の最初の王妃はエルドイドに次ぐ大国の第一王女だったと思い出す。ローヴとの学びの時間で過去の王妃の出身国と、その後の国同士の繋がりを勉強した。妃の出身国が国に齎すものは時に大きく強固だ。第一王妃の出身国と軍事協定が結ばれ、強国と名を馳せるようになったと習った。

思わず自分の手を見ると動悸が激しくなり、足元から震えが這い上がる。

どうして震えるのだろう。それは自分自身が王子に捧げるものが何一つないと知っているからだ。それでもいいと言ってくれた王子の言葉が嬉しいと思いながら、心の奥ではもう一人の自分が、それでは駄目だと冷静に言う。今はいいかも知れないが、後々王城に従事する多くの人に謗られることになるだろうと。

何故、こんな娘を王妃に据えたのだと。

更なる国の発展に、益となるものを持たぬ娘では駄目だと。

目の前が暗くなる。

――――本来あるべき王子の未来を曲げたのは過去の私だと、だから修正すべきだと叱咤する自分がいる。それでも・・・私を欲しいと言ってくれた王子の心に添いたい、側に居たい。

それを何より願っているのは自分だ。・・・・願ってしまったのは罪なのだろうか。

 

「・・・エディ様、ワインを選んで貰っていいですか? 場所は執事さんに聞いて下さい」

「うん! 美味しいのを選んで来るよ」 

エディが嬉々としてラウルを探しに厨房から出て行った。

エディが姿を消したのを見届けたディアナは厨房勝手口から外へ向かい、畑で取った野菜を洗う水場の蛇口を捻って水を出す。山奥から引かれた水は季節を問わず冷たく、その水でディアナは顔を洗った。何度洗っても洗い足りないようで、幾度も水を掬い顔に叩き付ける。

胸に巣食う重苦しい感情も流したいと、手先が冷たくなっても繰り返し、いつまでも洗い続けた。

 


 

 ***

 

 

 

途中の宿場町で馬を乗り換えながら、オウエンがようやく王都に入った時、王都大港にはオーラント国からの客船が到着した。

突然の停泊許可に驚いた港管理局は急ぎ王城に早馬を出し、王女が乗っていると報告を受け、宰相が出向くことになった。オーラント国の王女が突然来訪する予定など無かったはずだと首を捻りながら、それでも宰相は恭しく王女を出迎える。 

「オーラント国第一王女様、ようこそエルドイド国へ。・・・ところで王女様。我が国の港へ突然来られましたのは、何か御用事があってのことでしょうか。水か食料の補給ですか? それとも急病人が?」

「まあ、楽しい冗談で和ませて頂かなくても結構ですわ。それよりも、ギルバード殿下は王城にて私を御待ちですの? すぐに御尊顔を拝見出来ると思っていましたのに残念ですわ」

「・・・殿下に謁見の申し込みを?」 

そんな話は耳にしていないと思いながら宰相が訪ねると、王女は首を傾げて花が咲いたようにコロコロと楽しげに笑う。王女がタラップから降りると、続いて幾人もの侍女、侍従が大荷物を持ち降りて来て、馬車はどこかと辺りを窺っている。

一体何事かと宰相が同行した侍従に問うも、侍従も「わかりません」と首を捻るだけ。そして最後に降りて来たオーラント国の外相大臣が、戸惑う宰相に満面の笑みを浮かべながら手を差し伸べた。 

「これはこれは! エルドイド国の宰相殿に出迎えられ、大変恐縮で御座います。今回、貴国よりの御返答に、我が国の国王陛下は大変お喜び申しておりました。舞踏会で正式な婚姻発表をするまでの一週間、どうぞ王女をよろしくお願い致します」

「・・・は?」

言われた内容を把握出来ずに宰相がポカンと口を開くと、体格の良い大臣は額の汗を拭いながら周囲を眺め、「さて、迎えの馬車はどちらですか?」と尋ねてきた。

 

 

 

突然王城に戻って来たオウエンが「まず、み、水をぉ・・・」と呻くように訴える。

一体、アラントルで何があったんだと問いたいが、寝ずに馬を駆らせ続けて来たと言う青色吐息のオウエンに、まずは水と濡れたタオルを渡してソファに座らせた。ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返しながら水を飲み干すと、今度は腹が減って目が回ると訴える。

ギルバードが歯軋りをして睨み付けると、オウエンは片手を挙げて口を開いた。 

「ああ、ディアナ嬢に何があった訳じゃないけど、ディアナ嬢に関して問題発生!」

「何だ、それは」

「って言うか、殿下ぁ。オーランド国の第一王女と婚姻を結んだなんて、嘘だよね! 国王陛下の生誕祝いの舞踏会で王女との婚姻発表なんて、しないよね! しないって言ってよぉ・・・」

「だから何のことだ!?」

 

オウエンが濡れたタオルを胸に突っ込みながら眉を寄せて掠れた声を張り上げる。何のことだか解からないとレオンに振り向くと、レオンも首を傾げて目を細めた。

二杯目の水を飲み干したオウエンが、ディアナの母親が予定より早く旅行から戻って来たと話す。それはオーラント国から臨時出航した客船に乗ったためで、客船が臨時出航した理由はエルドイド国王太子と王女の婚姻が決まり、エルドイド国の舞踏会で婚姻発表するからだと、そう話していたと項垂れた。

 

「何だ、それは! 俺の妃はディアナだと言っているだろうが!」

「オーラント国は何故そんなことを? もしかして、第一港に予定にない大型客船が来たと宰相が急遽向かったそうですが、それがオーラント国の客船・・・?」

「ディアナ嬢がぁ、・・・そんなの可哀想っすよぉ」

オウエンの悲痛な声にギルバードは目を丸くした。

「どういうことだ? ディアナが・・・それを信じているとでも?」

「・・・殿下。ディアナ嬢の御気持ちは殿下にしっかり向けられているとしても、突然出て来た婚姻話の相手が一国の王女と知れば、心穏やかに笑っていられる訳が無いでしょう。ですからオウエンがこうして急ぎ王城に戻って来たのですよ。女心に疎い殿下ですが、もう少し女性心理を学ぶべきです」

 

レオンから呆れたように肩を叩かれ、ギルバードの眉間に皺が出来た。

何度も自分では立場や身分が違うと言っていたディアナの言葉が甦り、まさか身を退くなど考えてはいないだろうなと焦りが生じる。どうしてオーラント国の王女が突然来訪したのかより、ディアナがその噂を鵜呑みにしないかの方が気になる。

ギルバードは立ち上がり、王の許へ行って来ると告げて部屋を出た。

 

何があったのか賑やかな様相を見せる王宮に足を踏み入れると、ギルバードの姿に気付いた宰相が飛んで来て腕を掴む。近くの部屋に押し込まれ、訝しみながらも王に謁見を申し込むと、今は無理だと首を横に振った。ではこの騒ぎは何だと訊くと宰相は頭を抱え込んだ。

「我が国から正式な返答が来たと、オーラント国の大臣と王女が突然現れたのです」

「何の返答だ?」

「殿下へ何度も申し込んでいた婚姻を、我が国が・・・承諾すると言う返答が来たと」

「なぁ!? 何だ、それは! 待て! ・・・港に来た大型客船というのは、オーラント国のものか? その客船に王女が乗っていたというのか? 本当に・・・?」

「ええ、その通りです。オーラントの大臣が持っていた書簡を見ると、確かに我が国のものと思われる蝋印が押されており、・・・舞踏会で王女との婚姻を発表すると書かれておりました」

 

ギルバードが唖然として宰相を見ると、眉を顰めて見つめ返された。

どういうことだと問う前に、宰相はどういうことだか全く判りませんと首を振る。とにかく来てしまった一国の王女を泊めるために王宮では準備を始めたと告げられる。舞踏会で婚姻発表が済むまでは泊まり込むつもりの王女は多くの荷物を持ち込み、その対応で忙しいと続く。

「・・・王はどこに?」

「陛下は今はオーラント国の大臣に会うため、謁見の間におられると思いますが、・・・殿下はそちらに向かわず東宮にて待機していて下さい。王女に見つかると大変ですから」

「ディアナが・・・このことを知っている。先ほどオウエンがアラントルから来て、母親から事情を聞いたそうだ。だから――――俺は一刻も早く誤解を解くために、アラントルに向かいたい! 出来れば直ぐに立ちたい。その旨を王に報告して欲しい」

 

驚いた顔で宰相が息を飲む。何故こんなことが起きたのか理由が知りたいが、その前にディアナの心情を思うと、直ぐにでも会って誤解を解きたいと強く訴えた。宰相が応接室のソファや壁に視線を彷徨わせた後、眉を寄せて首を横に振る。

「いまは無理です。申し訳御座いませんが、国王陛下より何か指示があるまでは東宮にてお待ち下さい。殿下の御気持ちは後ほど陛下に伝えておきますが、王女が来ている以上、殿下が王城にいないと事態が悪化する可能性もあります。ですから・・・今は堪えて下さい。では、くれぐれも姿を見られぬよう、気を付けてお戻り下さい」

 

厄介なことになったと大きく息を吐き、宰相が部屋から出て行く。

残ったギルバードは、いったい誰が書簡を偽造したのかと、握り締めた拳を壁に叩き付けた。

 


 

 

 

 

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