紅王子と侍女姫  90

 

眠っている間に移動したのか、大きな揺れに身体が傾き、強かに頭を打ち付けて目が覚めた。

ぼうっとした視界に映るのは狭い荷物入れのような場所。周りには麻袋が多く積まれ、それに凭れ掛かって眠っていたとわかる。立ち上がろうとして不安定な揺れに膝をつく。近くの壁に縋りながら立ち上がり、頭の高さにある小窓を覗くと水が打ち当たるのが見えた。

やはり船の中にいると判り、ディアナは愕然としてしまう。上下に揺れる感覚はグラフィス国の商船で感じたものと似ている。あの時よりも大きく感じるのは船の大きさが違うせいだろうか。チリッとした鈍い痛みに手を見ると擦れた痕があり、そういえば手足を縛られていたはずだと思い出す。視線を移すと小窓からは波と空が交互に見える。

船底なのかしらと首を傾げていると、背後の扉が開く音がして振り返った。

扉から現れたのは黒い頭巾を目深に被った男で、ディアナが目覚めたのを知ると軽く咳払いをして座るよう指示を出す。ディアナが腰を落とすと、パンと煮込んだチキンが乗った皿を突き出して来た。

黙ったまま見上げると、ポケットから水筒を取出し、掠れた声と共に一緒に突き出してくる。

「・・・目覚めたか。これを食べろ」

「あの・・・、わたしを・・・どこに御連れしようと?」

「エルドイド国外だ。今はそれしか伝えられない」

「それは困ります・・・と申しても、お止め頂けないので御座いましょうね」

「悪いが、それは無理だ」 

攫われるのは何度目になるのか。ここで暴れ泣き喚いても、埒が明かないだろう。

手足の拘束が無いとはいえ、隙を見て逃げることも、海の上では敵わない。ディアナは小さく嘆息を零して、差し出された皿を素直に受け取った。もし食べ物に何か入っていたとしても、空腹のままでは動けない。それは小屋に閉じ込められた時に双子騎士が言っていた言葉だ。

頭の隅に海から落とされることも考えたが、それなら食事など与えないだろうと考え直す。もし相手に自分を殺すつもりがあるなら、既に海に放り投げられていたはずだ。とにかく今はしっかり食べておこうとフォークを握った。

 

 

**

 

 

ギルバード達は城を離れ、町の食堂で食事をしながら話し合うことにした。

まずカイトが使い魔が戻るまでアラントルから離れられないと言うので、食事を終えた後、ギルバードとカイトは馬を預けた宿で待つことにする。その間にレオンとエディは港周辺で聞き込みをすることになった。領主にも相手方にも知られないよう、密やかに行動するしかない。何よりも優先すべきはディアナの無事だ。四人は顔を突き合わせるように小声で話を進める。

「では使い魔が戻るまで、他にも出来る試しを行なってくれ。どんなことでも協力する。それと知り得たことを王に報告しなくてはならないのだが、連絡方法はあるか?」 

「ギル様の御声を鳥伝にて伝えましょう。試しは宿に戻って行います」

「レオンと俺は真っ直ぐ港?」 

「ええ。見慣れぬ人物は常に警戒しているそうですので、何か情報を得られるかも知れません」 

「ああ、ディアナの父親がそう言っていたな。アラントルでは自警団が何よりも強いと。相手が魔法導師とはいえ、何か見聞きしているかも知れない。・・・今はどんな小さな手掛かりも見逃せない」 

食事を終えて港へ向かう者と、宿に向かう者に分かれる。 

 

宿の馬屋ではギルバードとレオンの馬が一心不乱に飼葉を食んでいた。幾度か馬の身体を撫で、未だ鼻息荒い馬に詫びを伝える。視察や遠征で長距離を走ることはままあるが、今回は急を要したため、かなり無理をさせてしまった。宿の馬丁に身体を拭って貰ったのか藁が付いていて、ギルバードが払っていると、カイトが疲労回復に効く薬草を飼葉に混ぜる。 

「・・・ディアナが戻ったら共に駆ける約束をしている。その時は一緒に乗るもいいな」 

「カリーナから聞いております。ディアナ嬢は乗馬がとてもお上手だと」 

「そういえば瑠璃宮の導師たちは・・・特にカリーナは、ずいぶんディアナに心酔しているな。俺が妃にすると決める前からだ。何か理由はあるのか? 彼女が届ける菓子や花に絆されただけでもあるまい」 

前から思っていた疑問をカイトに問うと、小さく苦笑を漏らされた。  

「何というか・・・ディアナ嬢の心は幼子のように綺麗なのです。彼女の心には羨む、妬む、嫉むなどの邪心が感じられません。我らはそのような存在をとても好みます。心酔しているという殿下の言葉は、まさにその通りだと思います」

「ディアナの心が綺麗なのは俺も知っている。それだけか?」

 

少しの猜疑心を混ぜながらギルバードが振り返ると、カイトは目を見開き、そして肩を揺らしながら頷いた。その様子がローヴに似ていて、思わず眉が寄ってしまう。

「殿下、私どもに妬心を懐く必要は御座いませんよ。ディアナ嬢の心は丸く、譬えるなら幼子の如き無垢さです。・・・エルドイド国の魔法導師は己の探求心を満たすため、瑠璃宮にて様々な研究を行っております。国王の庇護のもと、国王の命に従うという交換条件で瑠璃宮に滞在しております。国のため、王のために忌まわしき陰謀、地位や身分を望む嫉み妬みなどの闇や陰を幾度も目にし、阻止してきました。王城に出入りする者の殆どが卑しく浅ましい望みを持ち、他者を蹴落とそうと画策する」

「導師が行う仕事に関しては・・・何というか、そうだな。全ての人間が、とは言いたくないが」

「ええ、全てではありません。国のために正しい挟持を貫く者もおります。己の仕事に真摯に取り組み、国を良くしようと王に忠誠を誓う真面目な者も確かに居ります。しかし雑多な人間が集まる王宮に於いて最も多いのは、欲を垂れ流しながら権力を持つ者に媚び諂い、仮面の下で他者を蹴落とす算段を画策する者です。それらを観察するのは実に楽しい。一番楽しいのはその者達に使われるだろう、薬を開発することですがね」

 

カイトは薄らと笑みを浮かべ、薬草を食む馬を見つめた。

「王宮の汚れた闇を探り、時に消す仕事に加担する我らにとって、ディアナ嬢は稀有な存在なのですよ」 

確かに王城に出入りする多くの者は欲を持っている。

いや、生まれ落ちた時から誰もが皆、欲するのが当然だ。幸せになりたいと望むものだ。

病に苦しむ者は健康な体を、腹が減れば食事を、眠くなったら寝床を、寒くなれば温かさを望む。そんな小さな幸せに満足する者もいるだろうが、多くの者は現状に満足せず、大きな屋敷や高い給金、高価な宝飾、美しい連れ添い、若い愛人、賢い跡継ぎ、そして人が羨むような地位や身分を欲し始める。地位が高くなるにつれて権力を欲し、己だけが幸せになればいいと強欲な望みを持つ者が多い。 

確かに、それらの欲をディアナはあまり持っていないような気がする。

侍女として働くことが幸せだと、朝から晩まで黙々と自分の城で働き続けていた。彼女の欲は侍女として働くことだけで、魔法が解けてからも大きく変わった様子は無い。

いや、少しは変わったか。俺の目を見るようになったし、俺の前では笑みを浮かべるようになった。

何よりも一緒に未来を歩むと言ってくれた。それを欲というなら、俺が変えて与えたようなものだ。

 

「それにディアナ嬢は未来の王妃となられるのでしょう? 殿下は導師アネットの子であり、未来の王となられる御方。瑠璃宮に住まう魔法導師は皆、未来の王と王妃に心より仕えることを誓いましょう」 

「王妃にも? 魔法導師が従うのは国の王にだけだろう?」 

ギルバードが首を傾げて視線を向けると、カイトは肩を揺らして笑い始めた。 

「我ら魔法導師は人と同じ生を放棄し、世の中の全てを知り尽くしたいと日々己の欲を満たそうと探究し続けております。良く言えば熱心で真面目、悪く言えば融通の利かない頑固者。普段は瑠璃宮に籠もっておりますが、王より依頼があれば貴族に扮して舞踏会などの催し物に潜り・・・、参加することもある。浅ましき愚かな欲を抱え込んだ貴族が薄ら寒い笑みを浮かべた舞踏会において、我らの姿は令嬢や奥方の目に、それはそれは禁欲的で魅力的に見えたことでしょう」 

「・・・・は? いやいや、俺の質問は」 

「広間を優雅に歩く端正な面立ち、女性から向けられる視線に媚びない態度、上流階級の貴族と笑みを交わしながら会話する見慣れぬ紳士。他の貴族にはない雰囲気を纏い、その場に居るだけで自然に注目を集めながら静かに仕事を行なう。しかし、それは王のために、です。ですのに・・・数代前の王は愛しい王妃の気持ちが魔法導師に移らないかと、必要のない懸念を抱きました」 

「・・・・」 

カイトから告げられる言葉にギルバードはぽかんと口を開けた。まさかと思った。

しかしカイトは鷹揚に頷き、言葉を続ける。 

「殿下の想像通り、その数代前の王は瑠璃宮の魔法導師たちへ命じました。王妃の前には出来るだけ姿を見せるなと。必要ない時は瑠璃宮より出るなと。結果、瑠璃宮に足を踏み入れることが出来るのは王だけとなりました」 

目を細めるカイトに、ギルバードはポカンと口を開けたまま、僅かに頷く。 

「元より瑠璃宮の魔法導師は歴の王だけでなく王妃にも仕えていたのです。ですからギルバード殿下が妃にと望むディアナ嬢を慕い、仕えようとするのは当然のこと。そして澄んだ湧水のように綺麗な心を持つ彼女に、我らは心酔するのです」

 

どうにか口を閉じることに成功したギルバードは、貴族に化けて舞踏会に姿を見せるローヴを思い出し、目の前のカイトを見た。ローヴに次ぐ力を持つ彼は、二十代後半で齢を留めているという。甘いマスクの彼が貴族衣装を纏っているのを想像すると、確かに女性が注目するだろうなと納得した。焦がれるような視線を送る女性から欲しい情報のみを得た後は、顔も名前も彼女たちの記憶から消えている。

しかし記憶が鮮明に残る王から執拗に求婚を迫られた母アネットは苦労したことだろう。

普通の人生を送ることを捨て、自分の探究心を満たすために魔法導師の道を選び、忠誠心で国と王に仕えようと瑠璃宮に住まうことを選んだのに、まさか国王から求婚されるとは。 

ギルバードの考えていることが判ったのか、カイトが苦笑を零した。 

「王から求婚された魔法導師など、エルドイドの歴史上初めてで御座いましょう。アルフォンス王の執拗ともいえる求愛に、アネットだけでなく、瑠璃宮全体が巻き込まれましたよ」 

王の求愛が執拗と言われ、ギルバードは過去の己のディアナへの態度を振り返り、蒼褪めそうになった。瑠璃宮を巻き込むつもりはないのだが、ディアナを王城に連れて来てから度々魔法導師の世話になっているのは事実。おまけに好きな女に怪我をさせ、心にも傷を負わせた。

そしてまた、自分が原因で怪我を負わす可能性が生じている。 

「そうそう。先日、ローヴが馬車に使った目晦ましは、王から逃げるために日々研究を続けたアネットの成果の一端です」

「・・・・」

「カリーナがディアナ嬢を愛おしく思い、気遣うのは仕方ありません。殿下はカリーナに睨まれぬよう、急いでディアナ嬢を救出すべきですね。万が一、ディアナ嬢が傷を負っていたら・・・お分かりですね」

「・・・・」

もう言葉もないと、ギルバードは宿に逃げ込むように走った。

  

 

宿の部屋で、これまでの経緯を簡潔にまとめて鳥伝に吹き込む。使い魔が戻り次第、出来うる限りの策を練り、ディアナを追うために移動する予定だと告げて王宮の王の許へと放つ。ローヴには指輪で同様の内容を伝えた。

「ローヴ、ディアナを攫った奴らはアラントルから離れた可能性が大きい。バールベイジにいるかも知れない。そちらで何か判り次第、連絡して欲しい」

『バールベイジ国内に魔法導師の姿は一切見当たりません。この国の魔法導師は王女配下の者だけのようですね。魔法導師達の家屋敷を見回り、戻った痕跡が無いかを調べましたが、それも皆無です。一度瑠璃宮に戻るつもりでしたが、もう少し様子を見るために残りましょうか』

「頼む。俺たちも移動した先で何か判ったらすぐに連絡を入れる」

ローヴとの会話を終えると当時に、カイトの使い魔が戻って来た。

急ぎテーブルに地図を広げると、使い魔は長い嘴である場所を突く。それはアラントル領から二つ隣りの王都寄りにある領地だ。その港を突いた後、使い魔の姿は消えた。カイトが窓から外を眺めると他の使い魔も次々に戻り、しかし煙のように姿を消してしまう。

「どうやら判ったことは、この領地の港に立ち寄ったらしいということですね」

「それだけでも助かる。・・・たぶん、もうここにはいないだろうが、それでも」

「ここへ移動し、情報を集めた方がいいでしょう」

 

地図を見つめるカイトから静かに視線を外した。ディアナが攫われてから既にもう二日も経過している。 

ふいにディアナの父である領主の言葉が思い出され、ギルバードの胸を突き回す。 

『これからは好きな料理や掃除をしながら穏やかな生活を過ごすのもいいと思っております。貴族らしい生活はディアナにとって窮屈に感じましょう』 

だがディアナは俺に嫁いでくれると言った。

これから続く長い未来への道程を共に歩んでくれると、俺の側で過ごしたいと、俺の目を見つめながら柔らかな唇から紡いでくれた。深く悩み苦しみながら、それでも言葉にして俺にくれたのだ。

だからこそ自分が助けに行きたい。

これからは片時も離さずに守り抜くと誓おう・・・・と、何度誓ったことだろう。

彼女の前に平伏し、誠心誠意誓ったところで、過去が帳消しになる訳もない。しかし誓わずにはいられない。こうなったら一刻も早く婚姻を済ませ、ディアナを妃殿下にしてしまえばいいのだろうか。国内外に妃はもう決まったと、妃を害する者は厳しい沙汰が待っていると脅せば守ることが出来るのか。いったいどうすればディアナを守り切ることが出来るのか。

もう何度も攫われ、怪我を負わせ心に傷をつけてしまった。どうしてこうなる? 俺が悪いのか? 

違う、俺は自分の嫁をディアナにすると決めただけだ。横槍を入れて掻き回す奴らこそが悪いだろう!

ギルバードが眉間の皺を深めていると、カイトが上着の袖を引っ張った。

 

「殿下、地図を御覧下さい。この領地の港はアラントルより王都に近く、多くの漁船や客船、商船が行き交うポイントでもあります。街道も広く宿坊も多い。ここに三人組が立ち寄ったとしても、あまり目立つとは思えません」

「それでは早速その港に向かい、そこで情報収集しよう。その場から魔法の痕跡を追える可能性もある。直ぐに移動したいが、レオンとエディに連絡は取れるか?」 

問いに頷いたカイトが袖から雀ほどの大きさの鳥を出し、息を吹き掛け窓から放つ。ギルバードは焦れる気持ちを抑えながらベッドに腰掛け、懐から巾着を取り出した。中にはディアナのリボンが入っている。じっと見つめる内、淡く輝いてくれないかと祈るように額へ押し当てた。 

「殿下、大丈夫です。ディアナ嬢はきっと殿下の腕にお戻りになりましょう」 

「ああ。・・・必ず、戻ってもらう!」  

目を閉じたまま、ギルバードは強くリボンを握った。

 

小一時間ほどで、鳥を肩に乗せたレオンとエディが港から戻って来る。

やはり港近辺で怪しい人物や船を見た者はなく、聞き込みは徒労に終わったとレオンとエディは肩を竦めた。しかしカイトの使い魔により怪しい場所が特定出来たと話すと、レオンとエディは表情を変える。直ぐに出立することになり厩舎に向かった。カイトは小さな猫に変化し、エディの荷物に潜り込んだ。 

「途中、馬用に休憩を取が、出来るだけ急ぎたい。食料を買い込んだら発つぞ」 

「では私は水を用意して参ります。殿下とエディは買い物へ向かって下さい」 

「わかった。・・・レオン、頼む」 

一瞬大きく目を見開き、レオンは薄く笑みを浮かべる。 

「いいですね! 殿下から頼むと懇願されるのは、何と心地好いのでしょうか。これで前回、私を置き去りにディアナ嬢救出に向かわれたことは帳消しと致しましょう」 

ギルバードが舌打ちを零すと、レオンは目を細めて嬉しそうに手綱を引き馬の向きを変えた。

 

 

アラントル領から二つ隣りの領地の港を目指し、一行は海沿いの街道を長く走ることになる。

レオンが「海風で髪がべたべたです」と文句を言い、エディが休憩時に川で洗うしかないねと告げると、大仰な嘆息が返って来た。どうせ港を目指すのだから一度くらい洗っても無駄だろうと言うと、レオンはがっかりと肩を落とす。身嗜みを整えるのは当たり前だと、だから王子はモテないのだとまで零した。

「そういえば殿下、髪が伸びましたね。ディアナ嬢が王城に来られてから散髪する暇もありませんでしたが、このまま少し伸ばしませんか? そしてディアナ嬢のリボンで括るというのはどうでしょう」 

「・・・馬鹿か、お前は」 

レオンに呆れた顔を見せた後、しかしディアナに髪を梳いて貰い、リボンを結わえてもらうのもいいなと想像してしまう。並走するレオンとエディが顔を覗き込みながら笑みを浮かべるから、ギルバードは弛んだ口を固く締め、速度を増した。

 

早駆けしたお陰で翌日の昼前には到着し、一仕事終えて網の手入れをしている漁師の許へ急ぐ。

問うと一昨日、藁を摘んだ荷車ごと移動したいと船の貸し出しを求めて来た三人組が確かにいたと漁師が話してくれた。その三人組に荷馬車ごと乗るような船を借りたいと言われ、そんな大きな船を貸す訳にいかないと断ると、大金が入った袋を出し、それでは一艘丸ごと売って欲しいと言われたそうで、最初は困ると漁師たちは断ったが、急ぎ海を渡らなければならないと必死の形相で訴え続けるから、最後は勢いに負けて船を売ったのだと教えてくれた。 

「どこに向かうかなど、訊いてはいないか」 

その場にいた漁師たちが互いに顔を見合わせ、「余りにも男たちが慌てていたので、聞きそびれた」と肩を竦める。追尾もここまでかと顔を顰めたギルバードに、「あの」と背後から声を掛ける者が現れた。

魚介の仕入れに来たという男は近くの街道で食堂を営んでいて、その男の店で数日前、見慣れぬ三人組が海流について話し合っていたのを耳にしたと言う。この時期は季節風により海流が変わる。最短で向かうには大きな船が必要だと話していたのを耳にして、陸路では間に合わない品を運ぶのかと思ったと教えてくれた。 

「この港から最短で向かうとすれば、バールベイジ国の隣にある、カリュス国でしょう。色白美人が多いことでも有名な国で、万年雪の連山が素晴らしい景観を誇る国です」 

「・・・いらぬ情報をアリガトウ」 

いえいえと手を振るレオンを胡乱に眺めながら、急ぎ地図を広げた。攫われてから既に日数が経過している。カリュス国から移動している可能性もある。しかし今は一歩一歩、進んで行くしかない。

エディが小さくてもいいから船を一艘借りたいと申し出ると、漁師は首を横に振る。これ以上船が減ると仕事にならないと。 

「どうしても船が必要なんだ。その船で追いたい者たちがいる。その者たちは我が国の民を攫っている可能性があり、お・・・私はそいつらを急ぎ捕まえたい。船は必ず返すと誓う。貸して頂けないだろうか」 

ギルバードが漁師たちに膝を着き、右手を胸に宛がう。その横でレオンとエディが深く腰を折り、目を丸くする漁師たちに仰々しいほど恭しく頭を垂れた。 

「この御方はエルドイド国王太子殿下、ギルバード・グレイ・エルドイド様で御座います。そして、ここより出航した船には、攫われ行方知れずとなった国王陛下と王太子殿下の賓客が乗っている可能性が高いのです。それも可憐で美しい、か弱き御令嬢で御座います」 

「な、なんですって! お、王太子殿下・・・っ?」 

「国王様と殿下の大切な客人が攫われて船に乗せられたってぇ?」 

「た、確かに殿下だ。去年、視察に来られた時、俺は目にしたぞ」 

一気に狼狽する漁師にギルバードは重ねて訴える。 

「頼む。船を貸しては貰えないだろうか! 直ぐに彼女を助けに向かいたい!」 

レオンは口上を述べ終えるとエディと共に跪き、漁師たちに深く頭を下げた。まさかの事態と光景に、漁師たちは慌てて地面に伏せながら叫ぶ。どうぞ何艘でも使って下さい、必ず令嬢を御救い下さいと。

その声にギルバードは顔を上げ、「もちろん、必ずだ!」と声を張った。

 

 

***

 

 

 

「おい、娘。水だ」 

「・・・・」 

ディアナは揺り動かされたと同時に肩と腕に走る鈍い痛みに顔を顰めた。

いつの間に寝ていたのか、船を降りたのか。痛みを覚えた肩を擦ろうとして再び拘束されていることに気付いた。口元に触れるコップの感触に顔を上げて目を瞠る。見上げるほど高い天井と会衆席が見え、船に乗ったのは思い違いかと思ったが、よく見ると寂れた感じはなく、違う教会に移動したのかと驚く。

窓から差し込む陽の光が夕刻のようで、濃い琥珀色のカーテンが埃を輝かせている。 

ディアナが呆けていると唇にカップを押し付けられ、驚いて男に視線を向けた。無意識に匂いを嗅ぐと、その仕種に男は自嘲した笑いを零す。「ただの水だ」と。 

「あの、・・・私を攫ったのは、どなた様からの御依頼・・・なのでしょうか」 

「お前を攫った理由か? これは依頼というか、仕事というか・・・」 

口籠りながら男がカップを傾ける。咽喉が渇いていたため一気に飲み干すと、床上から会衆席に移動させられた。船中では自由だった腕に痛みが奔る。解いてくれないかと尋ねるが、首を横に振られてしまう。他にも人がいたはずだと思い出し、男の背後を窺うが人影はなかった。

「私を・・・・どうされるおつもりでしょうか」 

「命まで取ろうとは考えていない」 

「ここはエルドイド国内でしょうか」 

「いや、違う。・・・いやに落ち着いているな。怖くはないのか?」 

ディアナは目の前の男性を見上げ、眉を寄せた。

怖い・・・とは思うが、食事や水を与えてくれている。命まで取ろうとしないと聞けば、僅かながらも安堵は出来た。自国を離れたことに不安は感じるが、巻き込まれて誰かが怪我をすることがないと知れば、安堵は深まる。きっと王子は心配されているだろう。警護に就いていたエディにも悪いことをしてしまった。自分が転げたカボチャを拾いに行かなければ、こんなことにはならなかっただろう。また攫われてしまった私に、王子は飽きれているかも知れない。それでも助けに来てくれると信じられる。

ただ、問題は相手側だ。今回も王子の妃問題に絡んでいるのか。 

「私を攫ったのは・・・殿下にお勧めしたい令嬢か王女様がいらっしゃるからですか?」 

「そうだ。悪いが、お前の存在を良しとしない御方がいる。殿下の前から消えて欲しい」 

「それは嫌ですっ。殿下から離れたくありません」 

はっきりと口に出した後、ディアナはじわじわと顔を赤く染めた。

自分で言った言葉を思い返し、恥ずかしさに口から心臓が飛び出しそうだと目を潤ませる。でも顔を俯けることはしたくないと、男の顔をしっかり見上げた。

ディアナの態度を目に、少し驚いたように身を引いた男は、困ったように項を擦る。 

「・・・お前がいくら嫌だ、離れたくないと言っても、こちら側にも退く訳にいかない理由がある。どうしてもギルバード殿下には、我らが主と婚姻を結んで頂きたいのだ」 

「貴方様にも先様にも理由や事情が御有りでしょうが、け、結婚は・・・す、好きな相手とするものだと殿下は仰っておりました。第一、私を攫ってまで殿下に婚姻を強いるのは間違っています。そんなこと、神様が御許しになりません!」 

顔だけでなく背まで熱くなるが、俯くことはしたくないと手を握り締める。

真っ直ぐ見据えるディアナの視線に、男が僅かに狼狽えた。

 

王子に婚姻を申し込む国や貴族は多いと聞く。舞踏会でも多くの貴族息女が王子の近くに足を運び、懇意になろうと努めていた。エレノアは王子が連れて来た私が邪魔だと他国に売ろうとし、阻止されて山中に連れ出した。バールベイジ国の王女は王城から出される書簡や手紙を調べ、私の存在を知り王子から遠ざけようとした。 

そこまで考えてディアナは気付く。

自分を攫ったのは、自分の存在を知っている者だけだ。王城にいる一貴族の娘の存在を知り、そして自分と王子との関係を快く思っていない人。脳裏に浮かんだのは一人の女性の姿だった。 

「・・・もしかして、ビクトリア王女様の配下の御方ですか? 魔法導師でいらっしゃる?」 

目を丸くする男の顔に、そうかと納得する。だから自分を攫ったのかと理解出来た。

 

「王女様が・・・魔法導師の御方に、このようなことをさせるなど・・・!」 

思わず大きな声が零れ、その声に男が驚くほど震えるのが視界の端に映った。

数か月前までは魔法の存在さえ信じていなかったディアナだが、王城に来てからは何度も魔法導師に助けられ、さらに王子の魔法も目にしている。瑠璃宮の魔法導師はみんな親切で明るい。そして魔法導師としての矜持を持ち、殿下を前にしても物怖じされない。殿下御自身が上下関係をあまり気にされない方だということもあるが、瑠璃宮の魔法導師は己の矜持に反することはしないだろう。そして魔法導師を従事させている国王も、その挟持を曲げるような御指示は下さない御方だ。

 

「王女様にとって私はとても邪魔な存在なのでしょう。でも、人を攫うような真似を魔法導師にさせるなど駄目です。それに心通わぬ婚姻などしても、本当に王女様が幸せになれるとは思えません」

互いの気持ちが通じ合えないまま結婚をして、嬉しいと思えるのか。それで心から満足出来るのか。

国同士の繋がりを得るため、国力を増すため、政略的な意義を持って本人の同意無しに婚姻することがあるのはディアナも知っている。本人同士が惚れ合っての婚姻など、貴族間でも珍しいことだ。

だけど誰かを質にして、一国の王子に婚姻を押し付けるのは間違っている。それは王女にとって良くないことで、何より自分が嫌だとディアナは唇を震わせた。

王子と歩む未来を夢見ることに、未だ全身を委ねて幸せに浸れない自分がいる。王子の言葉を疑うつもりはないが、どうしても『本当に私でいいのだろうか』と疑念が生じてしまう。その疑念が生じるたび、王子のお顔を見て安心したい自分がいて、自分でいいと言ってもらうために努力しようと発奮することが出来る。王子から伸ばされた手を掴んだのは自分自身の意思だ。その繋いだ手を引き裂かれるのは想像するだけでも辛い。

 

「どうか王女様にお伝え下さい。清廉潔白なギルバード殿下は、御自身以外が傷付くことを何よりも厭います。今からでも遅くありませんから、まずは話し合うことは出来ませんでしょうかと」 

「それを伝えようにも・・・アラントル領地での作戦が失敗した後、王女と連絡が取れない状態だ。他の魔法導師もどうしているのか判らない。お前は何か知っているのか?」 

「いえ、私は何も・・・」 

逆に男に問われ、ディアナは眉を寄せた。

小屋から助け出されて自城に戻った後、久し振りに会う父親と抱き合い、その父の前で王子から改めて求婚され、そして婚約者公布後の流れを知り驚き、それだけでいっぱいいっぱいになったのだ。小屋で何があったかの詳細は知らないままで、何故か記憶が抜け落ちている部分もあり、王女や魔法導師の姿が無いことに違和感さえ覚えなかった。

連絡が取れないというなら、王女たちはエルドイド国王宮の何処かに連れて行かれたのだろうか。だけど相手は一国の王女と、王女配下の魔法導師。酷いことはされていないはず。

まさか王女が硬直されたまま幽閉されているなど知らないディアナは、言葉を続けた。 

「王女様方と連絡が取れないのでしたら、エルドイド国にお尋ねされてはいかがでしょうか。そのために私が役に立つというなら、喜んでお手伝いさせて頂きます」 

「・・・今更、このような事態となってから」 

「いいえ、遅くはありません。どうか私を信じて下さい。殿下は御優しい御方です」 

「・・・話し合いをして、その結果ギルバード殿下の気持ちが王女へ移ることになっても、それでも構わないと、お前は言うのか?」

 

問われた言葉に目を見開いたディアナは、静かに顔を伏せた。

確かに王子はとても優しい御方だ。男の言う通り、田舎貴族の娘を攫うほど王子に恋焦がれている王女を哀れと思い、その気持ちを酌まれる可能性もない訳ではない。エルドイド国がさらに発展するためにも、国同士の繋がりが必要だと周囲から王女との婚姻を勧められるかも知れない。自分と結婚したいと言ってくれたが、まだそれは決定された未来でないのも承知だ。

だけど、とディアナは首を振る。

自分を何度も助けに来てくれた王子の紅い瞳と抱き締める腕の強さと熱を思い出すと、胸の奥がじわりと温かくなり、目が潤むほどに面映ゆくなった。これが相手を想うということか。今もきっと自分を探してくれていると確信出来る。王子の気持ちは変わらない、それは自分も同じだ。 

「ギルバード殿下の御気持ちは何事にも左右されません。ましてや私ごときが攫われたとしても、それで国のために婚姻を結ぼうとするなど、決してありません」 

背を正して男を見上げると、片手で顔を隠した男が呻き声を漏らす。 

「殿下は必ずここに、私の許に来て下さいます。ですから、どうかこれからの策を殿下とお話し下さい。決して貴方方の悪いようには」 

「無理だっ! 無理なんだ! ・・・逆らえない、それは・・・無理だ」 

男が顔から手を離し、袖から杖を取り出す。

そして苦痛が混じった声を教会内に響かせながら、杖を持った手を高く持ち上げた。そしてディアナに向かい、その手を振り下ろす。歪んだ顔を向け、戦慄く唇から悲痛な声を上げて。 

「王女の、願いを叶えねば!」

 

  

 

 

 

 

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