紅王子と侍女姫  92

 

 

カイトが放った式神は、内に畳まれた髪の持ち主を探して宙を駆けるように飛ぶ。一刻も早くディアナを助け出したいと願うギルバードたちは、しかし、その後何度も歯痒い思いをすることとなる。

カリュス国の港町からほど近い教会で放った式神がまず最初に向かった先は、霊峰とも謳われる壮麗な群山の麓だった。周囲に魔法導師の気配はなく、こんな山中にディアナ一人が置き去りにされているのかと必死に探すも、見つけたのは土中に埋められていた彼女の髪の毛だけ。

カイトが再び式神を放つも、同じことが繰り返される。二か所目で最初に見つけたのと同じように埋められた髪を見つけた時、これは相手が仕掛けた罠で、ただの時間稼ぎだと理解するが、他に手立てはなく探し続けるしかなかった。

 

「次の場所には、何か痕跡が残っているといいのですが・・・」

「そろそろ食料も調達しておかないと。それにしても山から谷、海岸、そしてまた山! 観光ならいいけど、楽しむ余裕もないし。まあ一番大変なのは馬だよねぇ、丸二日走り通しだもんなぁ。よしよし」

「船と馬の借り賃はバールベイジに請求します。もちろん我らの精神的肉体的疲労分もしっかりと上乗せさせて貰いましょう。もう舞踏会参加は無理ですから、ディアナ嬢のためにと舞踏会用に仕立てたドレス分も合わせて請求します!」

王女配下の魔法導師に翻弄され、ディアナの行方を追い続けて既に三日経過している。

レオンとエディは笑みを浮かべて話し続けているが、ここ数日の疲労が嵩んでいるのか憔悴した顔を見せていた。殆ど休みなく馬を駆らせ、野宿を続けながらの移動だ。領地視察や騎士団遠征で慣れているとはいえ、徒労ばかりが続き、肉体より精神的疲労の方が大きい。

 

「殿下、これでは埒が明きません! ――――考えを変えてみましょう」

六か所目の罠を確認し終え、それぞれが騎馬しようとしていた時、顰めた表情で新たな式神を作っていたカイトが手を止め、我慢も限界とばかりに声を荒げた。

その声に皆が手を止めてカイトに注目すると、式神を放り出して袖から杖を取り出す。

「相手がどれだけの罠を仕掛けているのか判りませんが、それをひとつひとつ探し回るのは、もうウンザリです。・・・もしや以前海上で感じた魔法発動は、これらの罠を仕掛けるためか? だとしたら何と馬鹿げたことを言いたくなる。ビクトリア王女との契約がどんなものであれ、魔法導師としての矜持は捨て去ったというのか。まったく、愚かとしか言いようがない!」

普段の温厚な彼は何処に行ったと驚くほど苛立ちも顕わなカイトは、杖を高く持ち上げると宙に何かを描き始めた。終わると杖をギルバードの足元の地面に叩き付け、呪文を詠唱し始める。手綱から手を離すように言われ、ギルバードは戸惑いながら大人しくカイトの言う通りにした。

「こうなったら強制的に殿下とディアナ嬢を繋いでみます。・・・繋いだ先に相手が待ち構えている可能性もあり、ディアナ嬢がどんな場所にいるかも判りません。しかし、相手の思うように動かされていると考えるだけで虫唾が走る! エルドイド国内でないのが多少不安ですが、どうにかなりましょう。殿下、ディアナ嬢の御姿を出来るだけ詳細に想い出して下さい、直ぐに!」

「お、おうっ」

 

カイトの苛立った声色に何故と尋ねることなく、ギルバードは瞼を閉じ、ディアナを脳裏に浮かばせた。

瞑った瞼の裏に現れたのは、彼女の夢の中で見た光景。一面の緑の野原と淡い色合いの小さな花々。

そして幾度も手で梳いた艶やかなプラチナブロンド。その髪がふわりと揺れて、彼女が振り向く。

すると新緑のように美しい碧の瞳と真珠色の白い肌が見えた。互いの視線が合うと仄かに染まる柔らかな頬。長年の習慣で自然と俯いてしまうが、ディアナは目を瞬き恥じらいながらも顔を上げてくれる。

そして嬉しそうに微笑み、桜色した唇から俺の名前を紡いでくれるだろう。

『ギルバード殿下。お菓子を作りましたので、召し上がって頂けますか』

いそいそと嬉しそうに紅茶を淹れてくれるディアナに―――――会いたい。

柔らかな桜色の唇に触れ、艶やかな髪を撫で、はにかんだ笑みを浮かべるディアナに触れたい。

その笑みも、零した涙も、向けられる気持ちも・・・ディアナの全てを手に入れたと思った。

互いの気持ちは通じ合い、これからは共に手を取り歩んでいこうと誓い合い確かめ合った。

それなのに、どうして何度も横槍が入るのか。もう二度と傷つけたくない、泣かせたくない、離したくないと願うほどに邪魔される。幾度ディアナにに誠心誠意守ると誓っても、ギルバードの手の届かない所でディアナは攫われ、そのたびに泣かせてしまっている。

エルドイドの魔法導師が元より国王と王妃に仕えていたというなら、次代の王妃であるディアナの側には片時も離れることなく、護衛兼任の魔法導師を配しよう。二度と彼女が攫われないよう、傷付かないように王城王都全体の警備を見直すことも忘れない。いつでも無事がわかるように指輪も嵌めさせよう。だけど少しでも窮屈と思われないよう、王城のどこでも自由に歩けるようにする。

いつも、いつまでもディアナが俺の側で微笑んでいられるように。

だけど――――今はどんな表情でいる? 俺に係わったばかりに、面倒に巻き込まれたと呆れているだろうか。どこか傷付けられてはいないだろうか。痛みに泣いてはいないだろうか。またもこんな目に遭い、俺との婚姻など厭だと、やはり領主の娘として過ごしたいと望んだりしていないだろうか。

いや、ディアナは天地がひっくり返っても俺を嫌うことなど無いと言ってくれた。

そうそう大丈夫、大丈夫、きっと大丈夫だ。

だけど女性の気持ちは山の天気のように変わりやすいとレオンが言っていたと思い出す。ディアナに限ってと思いたいが、いつも周りを気遣ってばかりの彼女の本音は解り難い。いやいやいや、夢の中で全て吐露してくれたじゃないか。本当に俺が好きだと、泣きながら笑みを零してくれた。これからは二人で仲睦まじく過ごすというのに、俺はなんてくだらないことを想像しているんだ。

・・・・・だが、ディアナが攫われるのは何度目だ? さらに今回は他国に連れ去られ、美しい髪まで切られている。いい加減愛想が尽きたと思っていないなど、誰が断言出来る? 

 

「殿下! ある程度は御任せ致しますが、自重という言葉を忘れませんように」

「は? それはどういう―――――」

「何か対処出来ない事態が起こりましたら、速やかにローヴに連絡をして下さい! いいですか? 面倒事が大きくなる前にですよっ! ではすぐに、強く、ディアナ嬢を想って下さい!」

頭の中でディアナに胡乱な視線で見つめられ項垂れそうになっていたギルバードは、カイトの怒鳴り声に目を開ける。開けた途端、カイトが手にしていた杖が頭の近くスレスレに勢いよく通過するのを目にして慌てて首を竦めて目を瞑った。

 

 

眩暈か地震が起きたように足元が大きく揺らいで身体が傾き、ギルバードは慌てて目を開ける。

驚くことに、そこは先ほどまでいた山裾ではなく僅かな光しか挿し込まない鬱蒼とした森の中で、周りに視線を巡らせると森の奥に開けた畑が見えた。畑の向こうには数件の家が立ち並んでいるのも見える。

ディアナを想えと言われ杖を振るうのを見たから、カイトが魔法を駆使して自分だけを移動させたと解かるが、ここが何処なのか判らない。

「・・・この近くに、ディアナがいるというのか?」

ディアナがいるということは、傍に王女配下の魔法導師がいる可能性が高いということだ。ディアナを放置しているならいいが、それはないだろう。あの王女と自分をくっつけるためにディアナを攫い、彼女の美しい髪を無残に切った奴らが、ただ放置して移動する訳がない。

「では何処にいる?」

ギルバードは呟きを落として周囲に目を向ける。

息を詰めながら周囲を窺うが森の中に動きはなく、夕刻間近の涼しげな風が一陣頬を撫でるだけだ。手にしたリボンと髪が淡く輝いているのを確認し、静かに森を抜け出たギルバードは、人影がない家に近付くことにした。風に揺れる枯れ色が広がる畑を目にして、刈取り時期はとっくに過ぎているが人手が足りないのだろうかと首を傾げる。

そして見えてきた家に眉が寄った。屋根の一部が無残にも壊れ、窓ガラスは割れているのが見える。車輪が外れたままの荷車と脱ぎ捨てたままの片方の靴。割れた窓から中を覗くが、やはり人影はない。鍵のかかっていない扉から中に入るが、誰かが住んでいる様子は無いようで、それでも足音に気を付けながら奥の部屋へと移動する。

嵐にでも見舞われたか、それとも山賊に襲撃されたのか。

しかし、そうとしか思えない建物の外見とは裏腹に、中は思ったよりも綺麗だった。家財道具は殆どないが、泥のついた足跡も壊れた家具もない。ただ家人がいないだけの朽ちた家という感じがする。

もしかすると、この集落の何処かにディアナを攫った輩が潜んでいるかも知れない。そう思うだけで緊張が奔り、激しい怒りに視界が紅く染まりそうになる。冷静になろうと深呼吸をした時、部屋の床に一枚の紙が落ちているのが見えた。手に取ると、その紙には領地名と領主の名前が書かれており、全ての住人に対して急ぎ立ち退くよう書かれているのが読める。日付は春先で、だから刈取りもせずに放置されたままなのかと納得出来た。読み進めると、この領地一体をビクトリア王女配下の薬草園にする予定だと書かれており、最後にバールベイジ国王の印璽が押されていた。

ここはカリュス国ではなくバールベイジかと顔を上げた時、項にチリリッと痛みが奔る。

覚えのある感覚。すぐに周りを見回すが何の音も気配もない。ギルバードは部屋の中を調べ終えると一旦外に出て、他の建物を眺めた。遠くで風に揺れる梢の音がする他、鳥の鳴き声さえ聞こえない。近くの家の窓から中を覗いてみるが、最初の家と同じように人影はなく、物音も一切聞こえない。ひとつひとつ、家の中に入って調べるべきか思案しながら周囲に視線を向けると、最奥のある建物が妙に気になった。

ちりちり疼くような痛みを奔らせる項を擦りながら近付くと、厭な気配は一層強くなる。自分に魔法を感知する能力がないことが悔やまれるが、もしディアナを攫った魔法導師がいたとしても負けるという気は全くしない。ギルバードは細く息を吐きながら帯刀した剣を確かめた。

 

出来るだけ音を立てないように扉を開くと、ゆっくりと空気が動く。

耳を澄ますと確かに何かがいる気配を感じる。慎重に奥へと足を進め、僅かに開け放たれたままの扉から中を覗く。寝台らしき上に誰かが寝ているのか、掛布が被されているそれは、人の寝姿のように思えた。住人がいなくなった里を住処にしている山賊か、それとも疲れ果てて眠り込んでいる旅人だろうか。

脳裏に過ぎった考えは、掛布から出ている髪色を目にして直ぐに吹き飛んだ。 

「・・・ディアナ!?」

 

叫ぶように彼女の名前を呼び、部屋に飛び込んで急ぎ掛布を剥がしたギルバードは愕然とした。

身体を丸めて横たわる彼女の髪が、肩口までしかない。教会の会衆席に置かれていた髪を見た時から覚悟はしていたが、実際に目にすると思っていた以上の衝撃を覚える。ディアナの綺麗な髪が、俺に係わったことで、俺の妃になると決めてくれたことで、無残にも切られてしまった。目の前の光景に眩暈がして、息が止まりそうになる。

それでもどうにか震える手を叱咤して首に近付けると脈拍が触れた。さらに彼女の薄く開いた唇から規則正しい呼吸が聞こえ、深い安堵と激しい動揺がギルバードの膝を床に着ける。

「ディ・・・・ディアナ。・・・ディアナ、起きてくれ」

安堵のあまり掠れた声で肩を揺するが、彼女は目覚めてくれない。

ただ眠っているだけなのだろうかと眉を寄せ、額に流れる髪を払い、掛布を取り除いて全身を確かめた。

寝息は穏やかそうで、衣装に汚れはあるものの血が付着している場所はない。熱があるようにも思えず、本当にただ寝ているだけのようだ。だが、何度名前を呼んでも目覚める様子が無い。 

「ディアナ・・・、どうして目を開けない? 何か飲まされでもしたか?」

身体を揺すっても目を覚まさないディアナに違和感を覚え、ギルバードは背後に振り返った。 

何度も大きな声を出しているが物音は聞こえない。人が現れることもない。ディアナをここに連れて来た人物は何処に行ったのか。

廃墟と化した里に置き去りにして、それで終わりという訳ではないだろう。

彼女を探しに来る者がいることを前提に、彼女の髪を切り、あの罠を仕掛けたのだ。それに王女配下の魔法導師なら、追尾にエルドイドの魔法導師が同行することも無論承知の筈だろう。こんな風にディアナをただ放置するなど有り得ない。

それとも充分時間稼ぎが出来たから、ディアナはもう用済みだというつもりか? ディアナを攫った魔法導師らは、先に捕らえた輩とは違い、王女に心より忠誠を誓っている様子ではないらしい。だから彼女の許に俺が来ることを判って放置したのか?

 

「駄目だ、分からん・・・。兎も角、まずはディアナを城に連れて行くのが先だな」

怪我はないようだが、何よりも痛ましいのは切られてしまったディアナの髪だ。

よほどの事情がない限り、エルドイドで女性の短髪は罪人か修道女を示す。切られた時、ディアナは意識があったのだろうか。眠ったまま切られていたら、後で驚き悲しむだろう。それにカリーナが彼女の髪の長さに気付いた時、どんな報復が俺に降り注ぐか、考えるだけでも身が竦む。

ギルバードがディアナを抱き上げながら身震いすると、彼女の瞼も震えた。

「ディアナ! 目が覚めたか?」

瞬きを繰り返しながら彼女の瞼が開かれていく。

碧の瞳が見えたところで寝台に降ろし、その前に跪いた。ぼんやりした様子のディアナの肩を擦り、どこか痛い場所はないかと尋ねるが、僅かに開いた唇からは吐息しか零れない。何か飲まされて意識がはっきりしないのか、驚きもせずに周囲を見回している。

やがて自分の肩口で揺れる髪に気付き、ディアナは手を持ち上げた。

「・・・髪は・・・切れられてしまった。でも時間が経てば――――」

髪を掴むディアナの手に自分の手を添えると、そこでようやく彼女の視線が自分に向けられた。

何と言って慰めていいのか、ギルバードは項垂れそうになる。だけどそのお蔭というのも腹立だしいが、ディアナを見つけることが出来たのは事実。時間は掛かるが、髪は元の長さまで必ず伸びてくれる。

しかし、そう続けようとして彼女の顔を見つめたギルバードの息は止まった。

重ねた手が振り払われると同時に、ディアナの口から叫び声が上がったからだ。

 

「きゃあああああっ!」

 

背後に誰かが現れたのかと、とっさに彼女を庇うために伸ばした腕。しかし、その動きにさえディアナは激しく怯え、腰掛けていた寝台の奥へ退こうとする。その動きにギルバードは愕然とした。蒼褪め、恐慌状態を示す瞳は間違いなく自分を見つめ、そして壁に救いを求めるように縋りながら悲痛な声を部屋に響かせるのだ。

「いやあああっ! こ、来ないでっ! 来ないでぇー!」

「ディ・・・、ディアナ、何故だ。何故・・・来ないで、なんて・・・」

「いやっ! いやっ・・・、来ないで! ち、近寄らないでっ!」

「・・・っ」 

出来るだけ離れようと壁伝いに移動するディアナに、ギルバードは息を詰まらせた。

恐慌に陥りながらも必死に寝台上を移動して扉側へ向かおうとしているのが判り、慌てて扉を閉める。退路を断たれたことに全身を震わせたディアナは、狼狽しながら視線だけで窓の位置を確かめていた。

彼女の足がソロリと窓の方へと動いていくのが見え、何がディアナの身に起こっているか理解出来ないまま、ギルバードは声を掛けた。

「ディアナ? 落ち着いてくれ。・・・何もしない、誰もいない。・・・逃げなくても大丈夫だ」

「ひっ! こ・・・来ない、で」

「何か・・・飲まされたか? 俺が誰だか、解からない、のか?」

「知らないっ、知らな・・・! 来ないでぇ・・・・」

しゃっくり上げながら、それでも背後の窓へ移動しようとするディアナの様子と、今更ながらに気付く部屋に漂う嗅ぎ慣れない匂いに、何かを飲まされたのだとギルバードは確信する。アラントルで攫われた時に飲まされかけた記憶錯乱と同じ薬なのかと、今にも泣き崩れそうなディアナを見つめた。

だが、あの時は余りにも酷い匂いと味で飲まずに済んだはずだ。

ふと、二日前にカリュス国に向かう海上でカイトが感じた魔法の波動を思い出す。

「まさか、無理やり飲ませようと魔法を・・・?」

「いやぁ!」

心配の余り踏み出した足に気付いたディアナが、悲鳴を上げて辿り着いた窓に縋り付く。立てつけの悪い窓を必死に引き上げようとして、ささくれ立った窓枠で手を傷付けるのが見えた。

「だっ、大丈夫、だ・・・。近寄らないから、無理はしないでくれ」

「・・・来ないで、来な・・・っ」

「手に傷が・・・。近寄らないから、窓から手を離してくれ。・・・頼むから」 

激しい焦燥を押し殺し、ギルバードは囁くように、しかし気持ちを込めて伝えてみる。

ここまで来て、ディアナが傷を負うなど本末転倒だ。ゆっくりした動作でハンカチを出し、寝台に置く。眉を顰めたディアナがハンカチとギルバードを見比べるが、窓枠から手を離すことは無い。ささくれで傷付いた手に力を入れて、どうにか窓を開かせようとする動きは続いている。

「頼むから、どうか話しを・・・話し掛けることを赦して欲しい。俺はエルドイド国から来たギルバードという者だ。行方知れずとなった君を・・・、ディアナを探しにここまで来た。君は・・・どうしてこの家にいるのか、知っているか?」

「・・・・」 

穏やかに問い掛けたのが良かったのか、ディアナは動きを止めてくれた。

問いに対する答えを模索し始めたのか、彷徨う視線が窓枠を掴んだままの手を見つめ、そろりと寝台上のハンカチに落ちる。そしてゆっくりと床を這い、ギルバードの靴先を見つめ、しかし目を瞑ってしまう。

目を瞑ったまま小さく頭を横に振る姿に、それは問いに対する答えかと尋ねた。逡巡した後、小さく頷くディアナを前に、ギルバードの胸が痛くなる。

「・・・誰かに連れ来られたか、覚えているか? ここに来るまでの経緯を、何か少しでも覚えてはいないか? 何に乗せられて来たとか、相手の人数とか」

全ての問い掛けにディアナは首を横に振る。

どのくらい眠っていたかも解からないようで、ギルバードは知らず溜め息を吐きながら髪を掻き乱した。苛立ちに壁を叩きたくなったが、窓枠を掴んだままのディアナの手が震えているのに気付き、大きく息を吐いて耐えしかない。

「手の・・・傷が心配だ。水を持って来るから、どうか・・・この部屋で待っていて欲しい」

背後の扉を開くと、ディアナの視線が向けられる。息を詰めて開かれた扉を見つめる様に、ギルバードは繰り返し待っていて欲しいと懇願した。直ぐに背を向けてしまうディアナを見つめ、もう一度、直ぐに戻るからと告げるが返事はない。

 

静かに扉を閉めて、部屋を出る。部屋の隅にあった甕を覗くが、入っている水はいつのものか判らない。外に出ると他の家々と共同で使っていたらしい井戸を見つけ、水を汲もうと傍らに転がる紐付きの桶を手にした時、自分の手が震えているのに気付いた。

「―――くそっ!」

ディアナの激しい拒否を思い出すと同時に胸に苦く苦しい思いが奔り、井戸の側面を蹴り上げる。やっと会えたディアナに近寄ることさえ出来ず、触れたのは一瞬だけ。あのように怯える様を目にしては、不用意に手を伸ばすことも出来ない。直ぐにでも瑠璃宮に連れて行き、何を飲まされたのかを調べて解毒剤を飲ませたいのに、今のディアナには触れることも、ましてや言葉を交わすこともまともに出来ない。

ギルバードは勢いよく水を汲み上げて顔を洗った。

いま一番困惑しているのは自分よりも、ディアナの方だ。髪を切られ、見知らぬ場所に連れ来られ、何があったか解からずに不安に怯え震えている。

そして、その不安の一端に自分がいることに悄然と項垂れると、指輪が目に入った。ローヴと話せるだろうか。ローヴが未だバールベイジ国内にいるなら届くだろうと、ギルバードは指輪に口付けた。

「ローヴ、聞こえるか? カイトに飛ばされたバールベイジの田舎領地で、ディアナを見つけた。だが多少、いや大きな問題があり、動くことが出来ない。出来ればこっちに来て貰いたいのだが」

『・・・殿下・・・声・・・・やら、・・・・無理』

「なんだ? 聞こえにくいな。俺の声は届いているか?」

『カイト・・・けるように・・・・近く・・・』

「カイトに連絡した方がいいというのか? 何だ、お前はバールベイジにいるんだろう?」

『・・・・・・』

「ローヴ? 声が全く聞こえない。俺の声も届いていないのか? おいっ! ・・・・駄目か」 

同じ国内にいるのに、何故か声が届かない。わかったのはカイトの名前くらいだ。

この場所に移動させたのはカイトだと思い出し、彼に連絡しようとして持ち上げた手が止まる。項に痛みのような感覚が奔るのを感じ、ギルバードは反射的に踵を返した。まさか、ディアナに何かあったのか。酷く怯えているディアナを、これ以上怯えさせる何かが彼女に迫っているというのか。

 

家に飛び込む前に焦る気持ちを渾身の力で抑え込み、息を詰めて中の様子を探る。諍うような音は聞こえないが、違和感が確かに家の中に充満していると感じた。ディアナ以外の者がいるのは間違いない。

ギルバードは静かに足を進め、ディアナを残してきた部屋の扉を細く開いた。

まず目に見えたのは油膜のような何か。

部屋いっぱいにシャボンのような油膜が広がっていて、ギルバードが目を細めて中の様子を窺うと、複数の男の影が確認出来る。二人の男がディアナの手を持ち上げるのが見えた瞬間、ギルバードは腰に佩いている物へ手を伸ばした。  

「・・・っ! ディアナ!」

叫ぶと同時に剣を抜き、油膜を切り裂こうと振り上げた。しかし、見た目と違い弾力ある油膜に剣が弾かれ、切り裂くことが出来ない。衝こうとしても刃は入らず、ギルバードは油膜の向こうへ叫んだ。 

「ディアナー! お前ら・・・ディアナに触るなっ!」 

油膜の向こうにギルバードの怒声は届かないのか、振り向きもせず、二人の男はディアナに何かを飲ませようとするのが見えた。床に崩れたように座っているディアナは抗いもせずにカップを受け取り、虚ろな表情のまま男たちが差し出す器から何かを飲もうとしている。いくら叫んでもギルバードの声は届かず、ディアナは器を傾け始めた。男が支えるようにディアナの肩に手を回すのが見え、ギルバードの視界は一気に紅く揺らぐ。 

「てめぇら・・・・っ!」 

剣を持つ手に憤怒と魔力を絡め、部屋の扉ごと叩き潰す勢いで油膜を薙ぎ払った。怒りのあまり扉だけでなく右側の壁も吹き飛んだが、同時に油膜も弾かれたように消え、その衝撃でディアナに何かを飲ませていた男の手から器が転げ落ちた。

振り向いた男たちの目が驚愕に開かれ、ギルバードに注がれる。

 

「まさか、この結界を吹き飛ばすなど。・・・それに、奴は何処から来た?」

「あいつは・・・もしやローヴ、なのか?」 

「いや、ローヴの足止めは成功しているはずだ。それに見目が違う。他の魔法導師か?」 

油膜の結界が消えたことに、男二人は慌てたように袖から杖を取り出し、壊れた扉と壁に目を瞠る。

しかし突然現れた男がエルドイドの王子とは気付いていないようだ。一人が立ち上がり、窓へ移動して外の様子を確かめる。誰もいないことを確かめた後、眉を顰めてギルバードに訊いて来た。 

「・・・お前はエルドイドの魔法導師か? ど、どうしてここが判った?」

「ぁあ? それより、お前たちの方こそ、バールベイジ国の魔法導師か? ディアナを攫い、アラントルからここまで連れて来た、王女配下の魔法導師なのか!? 答えろっ!」

ギルバードの怒声に身を竦ませながら、男達は一度互いの顔を合わせ、扉周囲の様子に眉を顰めると、そろそろと窺うように頷いて見せた。

「そ、そうだ。我らはバールベイジ国の・・・ビクトリア王女配下の者だ」

「こちらも尋ねたいことがある! エルドイド国の王子はオーラント国の王女との婚姻を断ったのか? こ、この娘が妃候補だというのは本当なのか! ビクトリア王女は現在、どうされておられる?」

「やっぱり、お前たちがオーラント国に余計なことをしたのか・・・!」 

杖を差し向けながら男たちが尋ねるのを、ギルバードは苛立ちながら睥睨する。

その鋭い視線に怯え退こうとした男の一人が、はっとしたようにディアナの腕を掴もうとした。 

「こ、この娘が大事なら、質問に――――」 

腕を掴もうとする寸前、、男はけたたましい破壊音と共に外へ放り出される。壁があった場所は跡形もなく吹っ飛び、残った男は驚きに短い悲鳴を上げた。しかし逃げ出すことはせずに、ゆっくりと視線をギルバードに向ける。足を踏ん張り、ギルバードとディアナ、そして自分の立ち位置を確かめる。男の差し出す杖は大きく震えていた。 

「おい・・・ディアナに近付くなよ。てめぇらの御託はいい! 先にこっちの問いに答えろ。ディアナが俺を見て悲鳴を上げるのは何故だ! 何を飲ませたっ! 直ぐに解毒剤を出しやがれっ!」

「こ、こっち、の・・・質問が先だ。王女は、いま・・・どうされている!」

「王女王女とうるせぇな! アレは幽閉中だ! カチコチに固まらせたまま、放置している! こっちの面倒事が片付いたら、ちゃんとバールベイジに送ってやるよ。さあ、俺の問いに応えろ!」 

「幽閉・・・? 固まらせ・・・?」

ギルバードの答えを耳にして戸惑う男の足元には、虚ろな表情のディアナが身動ぎもせず座ったままだ。

床上には薄緑色の液体と器が転がっており、どうにか飲まずに済んだようだと安堵が零れる。ギルバードと男が怒鳴り合う会話は耳に届いていないようで、ただぼんやりと床上の器を眺めている。歯噛みしながら男を睨みつけると、震える杖を持ち上げようとしているのが見えた。

「魔力の無駄使いは止めろ! ディアナが俺を見て悲鳴を上げる理由を話せっ!」

「ひ・・・っ」

ギルバードが手を払うと、男の杖が弾かれたように床上に落ちた。

落ちた杖を驚愕の表情で見た男は、ギルバードに視線を移す。魔力を使っているギルバードの双眸が深紅になっているのを見て、大仰に眉を寄せて首を横に振る。戦慄く唇が「そんな・・・」と呟くのを見て、ギルバードは背を正した。

「ディアナは俺の、エルドイド国の未来の王妃となる者だ。これ以上、彼女に近付くことも、不埒な真似も、一切赦しはしない。さあ、答えろ。ディアナは何故俺を見て悲鳴を上げる。何を飲ませた。飲ませた物の解毒剤はどこだ!」

「・・・では、貴方は・・・ギルバード殿下・・・?」

唖然とした表情を浮かべた男は、直ぐに悲愴な表情になり平伏した。

「ひ、非礼は深く・・・深くお詫び申し上げます! ですが殿下、・・・どうか・・・どうか、この娘のことはお忘れになり・・・ビクトリア王女と婚姻を御結び下さい!」 

「―――どいつもこいつもっ! 俺の意志を無視して、どうしてあの王女とくっ付けようとする? 俺の妃はディアナだ! ディアナ以外、欲しいと思わない!」 

「それでも、です! 我らにも・・・引けぬ理由が御座います。どうか、ビクトリア王女と」 

「無理だっ! それよりもディアナに何を飲ませた! 何故、俺を見て怯える!」 

幽閉した魔法導師と同じことを懇願する男に、苛立ちしかない。いくら平伏され悲痛な声を張り上げられようと、諾と答える訳が無い。あの奇怪な思考回路の王女と婚姻を結ばせようとするバールベイジの魔法導師たちに、違和感さえ覚える。そして何より、ディアナに何を飲ませたのか。

虚ろな瞳を床に向けたままのディアナ。その視線が自分に向いた時、また怯えながら近寄るなと叫ばれてしまうのか。同じことは繰り返したくないと、ギルバードは男を強く睨み付けた。

 

「・・・この娘が殿下の妃になることは決してありません。前回作った薬は記憶を失わせるだけの作用しかありませんでした。しかし記憶を失っても、再び殿下を恋い慕う可能性もある。・・・ですから今回の薬には・・・この娘が強く慕う相手の姿が化け物に見える作用を齎せました。殿下を御覧になった娘が怯えたのは、そのためです。娘が側に居て欲しいと願う相手の姿が、醜い姿の悪鬼に見えるのです」 

「っ!」 

そんな作用のある薬などあるのだろうか。

では、ディアナから見た俺は、・・・・いまの俺の姿は。 

項垂れたままのディアナに視線を向けると、緩慢な動きで瞬きをしていた。

やがて視界がはっきりした時、彼女の目に映る自分は恐ろしい化け物に見えるというのか。 

「この娘が殿下を慕うことは、もう二度とありません。ですからどうか、ビクトリア王女との婚姻を御考え直し下さい。大国であるエルドイド国の王太子殿下の妃に、ビクトリア王女を望んで下さい」

「俺が望むのはディアナだけだ」 

「しかし殿下が娘に近付くたびに、娘は恐怖に怯え続けた挙句、やがて闇に捕らわれます。周囲のもの全てが化け物に見え、身の置き所をなくして・・・精神が崩壊します」 

顔を上げた男がディアナに視線を向ける。

ゆっくりと瞬きを繰り返すディアナの眦に、涙の痕が見えた。薄く開いた唇が何かを呟いている。それは俺の名前だろうか。 

「お前らは馬鹿か? お前たちの目的が何であれ、ディアナがそんな状態で俺が頷くと思っているのか? ディアナは必ず元に戻す! 瑠璃宮の魔法導師は有能だぞ」 

ギルバードが吐き捨てるように言うと、男は首を横に振った。

そして歪んだような笑みを浮かべ、ギルバードを真っ直ぐに見上げて来る。 

「しかし時間がありませんよ? 直ぐに解毒しないと、この娘は時間の経過と共に廃人となりましょう。ですからギルバード殿下、どうかビクトリア王女との婚姻を結んで頂きたい」 

口端を持ち上げ、挑むような視線を投じて来る男。しかしその額には汗が滲み、顔色もひどく悪い。

バールベイジ国の魔法導師は、どうしてそこまで王女に従おうとするのか。魔法導師としての矜持は何処に行ったと胸倉を掴みたい。

 

その時、先に幽閉している魔法導師が洩らしていた言葉を不意に思い出す。 

魔法導師として過ごしながらも家族と生きる道を選んだ者たちがいると。王宮に住むより、町で家族と過ごす生き方を選んだ者たちがいると言っていた。

彼らは同じように王女に忠誠を誓っているのだろうか。

先に捕えた魔法導師と同じことを言いながら、目の前の魔法導師からは切迫した緊張感が漲っている。

――――もしかして、家族を質に脅されている可能性はないだろうか。

 

「お前たちに、どうしても王女の願いを聞き入れなければならない理由があるのなら、何か力になれないだろうか。・・・俺はどうしてもディアナを妃にしたい。ビクトリア王女ではなく、ディアナだけが俺の安寧なんだ」

もし、彼らが王女に脅されているというなら、王女を硬直させたまま永遠に放置することだって容易い。彼女は未来のエルドイド王妃となる者を弑そうとしたのだから。

「魔法導師の矜持を曲げてまで王女の指示に従うのは、何か理由があるのだろう? 俺はディアナを助けたいだけだ。お前たちの悪いようにはしないと誓う」 

ギルバードが静かに跪くと、男の顔が強張った。不遜な笑みは消え、眉が寄り、咽喉が大きく動く。

「・・・本当に・・・あなたは、御自身の妃に一領主の娘を望むと・・・おっしゃっているので?」 

男が纏っていた頑なな気配が薄れるのを感じ、ギルバードは強く頷いた。 

自分が心から欲するのは、共に歩みたいと望むのはディアナだけだ。家族と共に過ごすことを選んだ彼らなら、果たして理解して貰えるだろうか。ギルバードは相手の出方を、静かに待った。

 

 

 

 

 

 

 

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