紅王子と侍女姫  93

 

 

ディアナの耳に、くぐもった声が遠くから届けられる。

目に見えるのは床上に転がる器と、男性のものらしい靴先。自分の近くに誰かがいるようだ。

ぼんやりしながら顔を動かすと、視界に男の人が平伏す姿が見えた。男は顔を伏したまま、戸惑うような声色で靴しか見えない人に何か問い掛けている。

「・・・大国であるエルドイド国の、それも王位継承者が、本当に一領主の娘を娶ると?」

「そうだ。ディアナも最初は未来の王妃は無理だと逃げていたが、何度も何度も俺の気持ちを繰り返し伝えて懇願し、やっと了承を得たばかりだ。俺に政略結婚で国同士の繋がりを強固にするなど、そんな気は全くない。自分の嫁は自分で選ぶと王にも伝えてあるし、王もそれは認めている」

「エルドイド国王も認めていると・・・。ではビクトリア王女の御気持ちを、どうあっても御受入れ頂けないのでしょうか」

「受け入れるはず、ないだろう! 俺が好きなのはディアナで、俺の嫁はディアナ以外、考えられない。そのディアナにあの王女が何をしたか、お前たちも知っているだろう。他国に乗り込んできてディアナを誘拐し、監禁し、クソ不味いものを無理やり飲ませて記憶を失わせようとしたんだぞ! 挙句に、俺に媚薬を飲ませようとした。いくら平身低頭されようと、こんなことを画策した王女に俺が会うはずないだろう! 直ぐに処刑しないだけ有り難いと思え。それより、さっさと解毒剤を出せ!」

 

何度も自分の名前が聞こえて来る。くぐもって聞こえる男の声は肌が粟立つほどひどく耳障りで、醜悪に聞こえる。それなのに何故かもっと聞きたいと耳を欹てる自分に驚き、眉が寄ってしまう。

こんな声、聞いたことなど無いはず。それなのに息を潜め、一言一句聞き漏らすまいとするのはどうしてなのだろう。誰がしゃべっているのか、確かめたいと顔を上げようとして自分の身体が重だるいことに気付く。緩慢な動きで視線を移すと、平伏した男の近くに転がる器が見えた。

薄緑色に濡れた床は、器から何か零したのだろうか。窓や壁、扉周囲が壊れているのは何故だろう。男たちは何を言い争っているのだろう。何度も自分の名前が出るのはどうしてなのだろう。

グラグラする頭で考えていると突然、平伏していた男が上体を跳ね上げて大きな声を出した。

「お願いです、殿下っ! それでも王女と話し合われて下さい!」

「・・・てめぇ。同じことを何度も繰り返しやがって・・・」

くぐもった声の人物が発する激しい怒気に、部屋の空気がびりびりと震えたような気がした。潜めていた息が止まり、頭の隅に何かがチカチカと過ぎる。

―――こんな激しい感情を、どこかで・・・・。

過ぎった記憶の欠片を追おうとするが、それは近くで発する短い悲鳴に掻き消されてしまう。ディアナは思わず顔を上げ、平伏していた男の蒼褪め怯える表情を捉える。

その視線の先に顔を向けると、激しい怒気を放つ『もの』が映った。

 

「・・・っ、あ・・・あぁ・・・、きゃあああっ!」

「っ! ディアナ・・・」

私の名前を口にする闇色の恐ろしい獣が、黒ずんだ長い爪を向けている。

ディアナの目に映るのは熊のように大きな体高を持ち、歪んだ狼のような頭の黒い獣。耳まで裂けた口からは鋭い歯と恐ろしいほど長い牙があり、その牙から滴る粘度の高い唾液が床に落ちる。毒々しく輝く紅い目で見つめられ、ディアナは叫んだことを後悔した。肩を揺らして息を吐くたびに唾液が牙から滴り、触ると皮膚を突き刺すような黒い毛がざわざわと揺れる。まるで闇へと誘う悪魔の触手のように見えて目が離せない。立ち上がってこの場から逃げようとするが、余りの恐怖に足が震えて腰が立たない。

怖い、怖い、怖い。

頭の中には恐怖だけが渦巻き、見開いた目から涙が零れるが、拭うことも出来ず黒獣に固定されている。引き攣った咽喉から足掻くように息を吸うだけで精一杯。床が鳴ったような気がして息が止まる。耳鳴りがひどくなり、涙で歪んだ視界に映し出される獣が大きく膨らんだように見えた。もう死ぬのかと、今まで考えたこともない台詞が頭に浮かぶ。

黒獣から目が離せないままのディアナは浅く早い呼吸を繰り返す内に過呼吸に陥っているとは気付かず、手先の感覚が朧気となり、頭が朦朧としてきた。だけど視線は黒獣から離れない。離すことが出来ない。

視界の端に靴先がわずかに動くのが映り、獣の爪が頭上から振り下ろされる幻が脳裏に浮かぶ。


「ひ・・・っ、ぃ・・・っ!」

「ディアナ! 目を閉じろ!」

「・・・っ!」


戦慄く手が顔を覆うと当時に、ディアナの瞼が強制的に閉じた。

何が起きたのか考えようにも頭がひどく痛み、胸全体が苦しい。口元に何かを覆われたようだが、振り払う気力もない。何をされているのか、逃げようにも逃げられない。

「・・・ゆっくり、息をしろ。ゆっくり・・・、怖いものは見えないから」

四肢が痺れたように感覚がない。耳鳴りがして、そばで語り掛ける声が誰のものか解らない。平伏していた男だろうか。きっとそうだろう。口元を覆うのは間違いなく人間の手だ。その手に黒獣にあった毛はなく、縋りたくなるような温かさを感じる。

見えない恐怖は残るが、呼吸が落ち着いてくると同時に気持ちも落ち着いて来た。そっと外された手の行方を追うように顔を向けた時、疑問が浮かび上がる。

あの獣は何処にいる? どうして人の言葉を喋っていた? どうして私は目を開くことが出来ない? 

あの恐ろしい黒い獣に・・・・このまま食べられてしまうの?

「こ、来ないで下さい・・・、赦して下さい・・・」

どうして自分は獣に食べられるのだろう。ここは何処だろう。もしかして獣の住処に迷い込んでしまったのだろうか。では平伏している男は命乞いしているのだろうか。

答えの出ない恐怖に身を竦めながら顔を覆い、ディアナは縋るように呟いた。

「・・・殿下・・・」 

ギルバード王子と離れて、幾日経ったのか。

他国の王女と正式な婚姻を結んだのは嘘だと言ってくれたあの日から、ずっと声を聞いていない。

思い出すのは鳥伝だという鳥から聞こえて来た、いつもの大きな王子の声。

―――俺が結婚したいのはディアナだけだ! 約束したよな、俺の子を産んでくれると!

顔を覆っていた手にじわりと熱が広がる。こんな時だというのに、王子の言葉を思い出して居た堪れないほどの羞恥が胸に広がり出す。さっきまで感じていた動悸とは違う、熱い鼓動に身体が大きく震えた。

すると驚くほど近くから、くぐもった声が聞こえて来る。


「怖がらなくていいから! ディアナには近寄らないからっ」

「・・・え?」

「怖がらなくて、いい。震えたり、怯えりしなくてもいいからな。・・・大丈夫、ディアナの嫌がることは絶対にしないと誓うから・・・」


聞こえて来たのは、子供が親に縋るような声。切なげな声色に、思わず顔を上げるが瞼は開かない。声のする方向へ無意識に顔を向けると、何かが退くように動く気配がする。

「・・・え?」

宙を掻いた手が何も掴めずに床に落ちる。そこで自分が手を伸ばしていたことに気付いた。

それも声のする方向、くぐもった、獣の声と思われる方向へと。

どうして恐ろしい獣に手を伸ばそうとしたのか。そんな自分自身に躊躇しながら、それでもディアナは手を伸ばす。床を這いながら伸ばす手に不意に固いものが触れた。それは膝のようで、もっと確かめたいと手を動かすが、何故か急に離れていく。自分がいま触れたのは獣の身体ではない。服を着た、温かい手を持つ人間だった。では黒い獣は何処に行ったのか。

理解出来ない戸惑いにディアナは動けなくなる。何から考えていいのか解らず、床上に放置していた手を引き寄せた時、閉じた瞼の裏に複数の男たちが浮かび上がった。

 

「そう、だ。・・・私は攫われて・・・、船に乗って、教会で・・・・髪を」

伸ばした手は肩までの長さになった髪に触れ、切られたことに衝撃を受けて泣きそうになった自分を思い出す。その後、袋に入れられ移動したため、何処に連れて来られたか解らない。

だけど何処に連れ去られても、どんなことがあっても、きっと王子が助けに来てくれると信じている。だから落ち着いて王子が来るのを待つのが、今の自分に出来ること。

・・・・いや、駄目! ここには黒い獣がいる。熊のように大きく、狼のよう鋭い牙を持ち、奇怪な姿の恐ろしい黒獣が。万が一、助けに来てくれた王子が襲われたら困る。

そういえば、部屋にいる男も平伏している男も、獣がいるこの場から何故逃げないのだろう。

浮かんだ疑問は胸を妙に騒がせた。獣の姿が見えないからか、不思議なほど落ち着き始めた自分と部屋が静かなことに気付く。獣はどこかに移動したのか。わからないことばかりで頭が痛い。 

「・・・・あの」

ディアナが手を伸ばして声を掛けると、息を飲む気配がした。

伸ばした手が獣の毛に触れたらどうしようと震えてしまうが、ただ怖いと蹲ってばかりでは王子に迷惑を掛けるだけだ。それに理由はないが何となく大丈夫のような気がする。

さっきまで感じていた禍々しさや恐怖が不思議と薄れているように思えて、ディアナは口を開いた。

「私の手に・・・触って・・・頂けませんか?」

「え? あ、・・・だが」

 

戸惑う声のする方向へ、精一杯手を伸ばす。くぐもって聞こえる声は肌を泡立たせるほど耳障りなままだが、気遣うような気配を感じてディアナは手を伸ばした。やがて指先に温かいものが触れるが、やはり毛の感触はない。どくんっと胸の鼓動が大きく跳ね、ディアナは触れた手を掴んで包み込んだ。乾いた温かい手を包み込んだ瞬間、胸いっぱいに温かさが流れ込んで来た。急に泣きたい衝動に襲われ、熱かった鼻の奥がさらに熱くなる。

しばらくして包み込んでいたディアナの手がゆっくりと解かれ、手の平を広げられた。

「・・・傷が。またディアナを傷付けてしまった。申し訳ない、赦して欲しい・・・」

温かく乾いた手がディアナの手を広げ、何かをなぞるように動く。掠れた声が胸を衝き、目を開けることが出来ないから、何を許して欲しいのか尋ねるしかない。

「手に・・・何を? ・・・傷付けたって」

「・・・さっき、俺に驚いて・・・窓枠を掴んだ時に傷を・・・」


声を詰まらせながら伝えられる内容に、ディアナは驚いた。やはり、いま私の手を掴んでいるのは黒獣なのかと愕然となる。ではあの禍々しい爪は何処にいったのだ。手や腕を覆っていた棘のような毛はどこにある? 触れているのは温かい乾いた手で、それは普通の人間のものにしか思えない。見えないだけで感触が変わるなど、あるのだろうか。

閉じた瞼の裏で床に転がる器と薄緑色の液体が浮かぶが、それを何故いま思い出すのだろう。ディアナは何か大事なことを忘れているようで、それを思い出したいと自分の手をなぞる温かさを持ち上げた。

 

「ディ・・・っ」

両手でしっかりと包み込んだ手を、ディアナは胸に掻き抱く。

いま抱き締めているのは、ディアナの手の傷を心配し、嫌がることはしないと触れることさえ躊躇っていた獣の手。だけど触れた感触は間違いなく普通の人間の手だ。それも泣きたいほど温かい。

その温もりがディアナの胸に訳の判らない切ない疼きを響かせる。ディアナは掻き抱くように包んでいた手を離し、手首から袖口へ、袖口から肩へと手を動かした。

肩に触れると、腕の持ち主が息を止めて身体を硬直させるのが伝わって来る。あれだけ来るな、近寄らないでと怯え叫んでいたことは忘れていないが、直ぐに確かめたいと夢中で手を進めた。退こうとする肩を夢中で掴み、首から顎を伝い、そして頬に触れる。


「毛が・・・ない・・・」

その感触に、ディアナは呆然として呟く。目を閉じただけで恐ろしい獣は人間になっている。

触れれば刺さるかと思うような悍ましい黒い毛はどこにもなく、指先に感じる柔らかな頬は間違いなく人間のものだ。少し移動させると毛が触れた。だが、それは獣の毛ではなく男性の髪だとわかる。

いつもの自分なら、こんなこと絶対にしない。誰だかわからない、それも男性の顔や髪に触れるなど決してしない。だけど今は何かを求めるように手を動かす。

 

「ディアナ・・・・」

膝立ちして頭や頬をなぞるディアナの手の動きに、ギルバードは息を止めて固まった。

幾日も費やし捜し続けた愛しいディアナの顔が目の前にあり、しかしその表情は悲痛に歪んでいる。目が合うたびに叫ばれ、顔を背かれ、怯える姿を見るのは辛いが、至近距離にいるのに悲しげな表情をされるのも辛い。ディアナの目に自分の姿が醜い悪鬼に映ると悍ましい化け物に見えると言われ、二度目の叫び声に思わず魔法を使ってしまった。どんな風に見えているのか解らないが、余程恐ろしいものに見えているのだろう。あんなに怯え震えるディアナは見たことが無い。

恐怖に怯えるディアナは俺を呼んだ。小さな声で、「殿下」と縋るように呟いた。

俺に係わったために何度も攫われ、傷付きながら、それでも俺に助けを求めてくれている。直ぐに助けに向かえなかった不甲斐無さに項垂れそうになるが、ディアナの手がギルバードの頭で動き回っているため、項垂れることが出来ない。

情けないと猛省しながら、ディアナが自分に触れてくれている事実にギルバードの手は不埒な動きをしそうになるから、騎士道精神を思い出して拳を膝に押さえつける。顔や頭を撫でていたディアナの手が離れると胸が切なく痛んだ。そこへ戸惑うような声が聞こえ、ギルバードは目を瞬いた。

 

「髪色は・・・・黒、ですか? 声は先ほど耳にした獣の声と同じなのに、触れると全然・・・違う」

戸惑うディアナの声に、ギルバードは渇いた咽喉に無理やり唾を飲み込んだ。

「・・・そう、だ。俺の髪色は黒で、俺の姿が獣に見えるのは飲まされたものが、そう見える作用を齎しているからだ。ディアナ、遅くなったが助けに来た。・・・ギルバードだ。ディアナ、俺の名前を・・・憶えているか?」

「ギル・・・ギルバード殿下? え? ・・・ええっ!?」

ひどく驚いたのだろう、弱々しく首を横に振りながらディアナは「そんな・・・」と呟いた。あれだけ怯えていた化け物がギルバードだと聞かされても、直ぐに信じるなど出来ないのは承知だ。ディアナは蒼褪めた表情のまま、唇を戦慄かせている。

 

「ディアナはアラントルからビクトリア王女の魔法導師に、・・・また攫われてしまった。そして何かを飲まされ、その作用で俺の姿が化け物に見えるらしい。だが、安心しろ! ローヴやカリーナが、直ぐに解毒剤を作るからな。飲んだら元に戻るから・・・だから、だから暫くの間は見えないままで我慢してくれ。それと・・・誓ったはずなのに、またもディアナを危険な目に遭わせてしまい申し訳ない。本当に悪いと、心から猛烈に反省している!」

ディアナの手を握り、見えないとわかっていてもギルバードは深く頭を下げた。握った手が驚くように引かれようとするのを押し止め、繰り返し伝える。


「ディアナ、本当に申し訳ない。・・・また攫われたのも、髪を切られてしまったのも、俺がいつまでもディアナの立場を明確にしなかったからだ。俺がディアナの両親が納得出来る言葉を言えていたら、早くからディアナのそばに魔法導師を就けていたら、俺がずっと側に居たらこんなことには・・・・。本当に本当に申し訳ない」

「・・・殿下」

「ディアナ、どうか許して欲しい」

 

温かい手の持ち主が、くぐもった耳障りな声で何度も謝罪の言葉を口にする。

ディアナの名前と共に繰り返される謝罪を耳に、ディアナは呆然とした。わんわんと頭の中を駆け回る痛みを伴う謝罪の言葉。それを額面通りに受け取っていいのか困惑してしまう。握ったままの手から温かなぬくもりが伝わり、ディアナの困惑に拍車をかける。

すぐにでも握られた手を振り払って逃げ出したい気持ちが膨らむ一方、手を握る相手が語る話しをもっと聞きたいと思う気持ちも膨らむ。獣だと思っていた相手がギルバード王子だという言葉を信じていいのかもわからず、ディアナは握った手を引き寄せて渇いた咽喉に唾を飲み込んだ。


・・・・見たい、です。貴方を・・・」

そう言うと、触れている相手が大仰なほど震えるのが伝わった。離れていきそうな手を引きとめながら、ディアナは必死に懇願する。

「目の前の・・・貴方がギルバード殿下だとおっしゃるなら、貴方の姿を自分の目で見たいのです。私は殿下に来るなと、近寄らないでと・・・・何度も叫んでしまった」

「それはディアナのせいじゃないだろう。そんなこと気にする必要はない。・・・それに、まだ俺の姿は恐ろしい化け物に見えるはずだ。何度も見ているとディアナの精神が壊れる可能性があると言っていた。だから解毒剤を口にするまでは、こうして触れてくれるだけでいい。ディアナが無事だとわかっただけで嬉しいから気にすることはない。だから、な?」

「でもっ! ・・・殿下がどんなお姿でも、本当に心から愛しく想っているなら直ぐに気付くはずです。きっと怯えたり、叫んだりなんかしないはずなのに、私は・・・」


自分で言った言葉に手が震え始めた。

自分の手を掴んでいる人が王子なら、目にした黒獣が本当はギルバード王子だというなら、直ぐに気付いて当然のはずなのに、わからないままの自分があまりにも情けない。何かを飲まされたと言っていたが、アラントルの小屋で飲まされそうになった記憶を失う薬と似たようなものなのだろうか。あの時は飲むことを阻止出来たのに、今回はとうとう口にしてしまい、それで王子が黒獣に見えているとするなら自分に非がある。助けに来てくれた王子に叫んだ内容を思い出し、ディアナは悄然と唇を噛んだ。

ディアナの両手を包み込む手は温かく、労わるように優しく擦ってくれている。もう自分に出来ることは叫ばずに直視することだけだと顔を上げた。

「殿下、どうか・・・どうか、お願い致します」

どんなに恐ろしい化け物が目の前に姿を現したとしても、それがギルバード王子だというなら、絶対にわかるはずだ。いや、この温もりが恐ろしい獣のはずがない。だから大丈夫ですとディアナは強く訴えた。

それなのに目の前の男性は繋がれた手を解こうとする。そして困ったように、くぐもった声を更にくぐもらせ、それは駄目だとディアナの手を優しく叩いた。


「俺は・・・ディアナがこれ以上傷付くのを見るのは厭だ。信じてくれたなら、それでいいから」

「でも、殿下」

「いや、このままでエルドイドに戻ろう。な、ディアナ」

宥めるように繰り返される否定の言葉に、ディアナは思い切り首を横に振った。

「殿下、それでいい訳がありません! 殿下が目の前にいるというのに目を閉じていなければ判らないなど、そんな自分を私は許せません! ですから魔法を解いて、殿下のお姿をお見せ下さい。私は殿下の髪を撫で、瞳を見つめたいです」

声を張り上げて言うと、握られていた手が驚くほど熱くなる。突然熱発したかと思うほど熱い手で強く握られ、ディアナは「殿下、熱が・・・?」と首を傾げた。すると直ぐに手を解かれ、慌てて手を伸ばすが王子の手に触れることが出来ない。宙に浮いたままの手を、ディアナは寂しい思いで膝に乗せた。

「いやっ! ね、熱はない。だ、大丈夫だ。・・・・・・では、少しでも恐ろしいと感じたら直ぐに目を閉じると約束してくれるか? ローヴ達が必ず元に戻す解毒剤を作るから、決して無理はしないと約束して欲しい。ディアナ、いいか?」

「はい、殿下」

 

ディアナの意を決した声に、ギルバードは眉間に皺を刻んだまま顔を背けた。

視線の先には平伏していた王女配下の魔法導師がいて、視線に気付き眉を潜める。その表情は王女に会う気は本当にないのかと尋ねているようで、ギルバードは手を振り下ろした。声も出さずに昏倒した男が立てた音にディアナが肩を竦めて驚くから、慌てて「大丈夫だ!」と落ち着かせる。

落ち着かないのはギルバードの方だ。

ディアナの精神が崩壊するかも知れない。そう聞いているのに、彼女の目を開かせようとする。

瞼を開いた時、目の前に化け物が居てもディアナは必死に声を殺すだろう。恐ろしい化け物を前にして、怯え泣き叫ぶ心を抑え込みながら手を伸ばそうとするかも知れない。あんな悲痛な声は聞いたことが無い。ディアナの夢の中で聞いた声とはまるで違う、全身全霊で存在を否定する悲鳴だ。出来ることならもう二度と聞きたくはないが、ディアナが言う『髪を撫で、瞳を見たい』という言葉を胸に、ギルバードは手を持ち上げた。少し蒼褪めて見える頬を撫で、そっと瞼に手を乗せる。

小さく息を吸い、細く吐き出した。

 

「では・・・魔法を解くぞ、ディアナ」

 

 

 

 


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