紅王子と侍女姫  98

 

 

大人の両手に余るほどの大きな水晶を、ローヴはふわりと宙に浮かせる。

男たちは水晶玉の前に揃って両膝をつき、大陸一と謳われる魔法導師を前に、畏敬の念をもっているように見上げた。

「先に捕らえた魔法導師より話を聞いておりますが、貴方たちには家族がおられる。住居を探すのに多少手間取りましたが、場所も家族構成も確認済みです」

男たちからの息を飲む音と険しげな視線を受けたローヴは、徐に水晶に近付く。

ローヴがひと撫ですると質素な家が水晶玉の表面に現れ、その家の戸口から笑みを浮かべた中年の女性が出て来た。買い物に行くのか手には籠を持ち、しかし一歩も進まない内に家の中に戻ってしまう。場面が変わると土間で農具の手入れをする若い男の姿が映った。その顔にも笑みが浮かんでいる。何かいいことでもあったのかと注視していると再び場面が変わり、今度は十代後半の娘が台所に立って料理を作っているところになる。娘も笑みを浮かべて包丁を握り、音は聞こえないが鼻歌でも歌いながら料理を作っているように見えた。

水晶玉に映る日常は穏やかで、誰もが皆にこやかに笑んでいる。

だが息を詰めて見つめていた男たちの顔は一気に強張り、次いで悔しそうに唇を噛んだ。

この風景にどんな意味があるのかとギルバードが首を傾げた時、料理中の娘が固いカボチャから包丁を滑らせたのか、左手から血を滴らせる。思わず顔を顰めるギルバードの目の前で、しかし娘は何事もなかったように傷ついた手でカボチャを押さえた。場面が変わると、物を取ろうとしているのか踏み台の上で難儀している男がバランスを崩して床に倒れた。立ち上がる男の額からは血が流れ、何処にぶつけて切れたとわかる。しかし男は笑んだまま、何事もなかったように踏み台を元に戻して作業を再開した。

 

「ローヴ、これは・・・どういうことだ」

水晶には映る男や女は、よく見ると皆同じような笑みを浮かべている。しかし怪我をしようが血が流れようが、その表情や唇は微動だにしない。痛みを痛みとして感じていないようだ。

ローヴが水晶に手を翳すと、ある家の部屋の奥へと場が移動する。寝台に横たわる高齢の男性が映し出された。その男は笑みを浮かべたまま荒い息を繰り返していて、噎せ込んだのか幾度か嫌な咳を繰り返し、そして一際大きな咳とともにゴボリッと血を吐いた。

「と、父さん・・・っ!」

魔法導師の一人が短い悲鳴を上げて腰を浮かす。水晶玉を喰い入るように見つめる男の背にフランツが痛ましげな視線を向け、ローヴに「映っているのは彼らの家族ですか?」と尋ねた。

「ええ、そうです。先に捕えた魔法導師が言っていたように、ここにいる彼らは魔法導師としてだけではなく、家族や家庭を持ち、普通の生活を営んでいます。その普通の生活を王女に奪われ、取り戻すためにディアナ嬢を攫ったのでしょう。―――違いますか?」

 

ローヴの言葉に、水晶玉を見つめていた男が嗚咽を漏らす。

水晶玉にはガクガクと揺れながら血を吐き、それでも笑みを浮かべる父親が映し出されている。口から吐き出される血は頬や耳朶を伝い、肌だけでなく枕や寝具も赤黒く染め始めた。その血色と対比する顔色の悪さ、貼り付けたような笑みが見る者の顔を顰めさせる。

「・・・ローヴ様のおっしゃる通りです。私たち三人は、世を構築する全てを知り尽くたいと魔法導師の道を選びました。でも、どうしても家族を捨てることが出来ず、魔法導師としては中途半端な人生を歩むことを選びました。もちろん自分で選んだ道に不満などありません。・・・・ですが」

項垂れた男が零す声は低く掠れ、歩む足を不条理に止められた憤りを滲ませた。

一人だけ喰い入るように水晶を見つめていた男が、後ろ手に括られた手を震わせながら振り返り、悲痛な懇願を訴える。

「父さんを、助けて下さいっ! 今なら治療が間に合うはずです。お願いです、父を」

「ディアナ嬢に飲ませた薬の解毒剤が先です」

悲痛な叫びに応えるローヴの声は冷酷そのもので、男は身体を強張らせた。

視界の端に浮かぶ水晶玉を横目で睨み、唇を戦慄かせる。焦れた表情でローヴを見上げ、意を決したように腰を上げようとした時、隣の男が身体をぶつけてそれを阻止した。止めるなとばかりに睨み付ける男に歯噛みしながら首を振り、駄目だと掠れた声を漏らす。

「駄目だっ、それが知れたら」

「だが、このままでは父さんがっ!」

「ええ、間違いなく死にますねぇ。あと半日持つかどうかといったところでしょうか」

腰を屈めて水晶を覗き見たローヴは、事も無げに状況を判断した。

「貴方たちがディアナ嬢に飲ませた薬は、飲む回数を重ねることでより深く浸透し、更に『呪』もかけている。それによりディアナ嬢の精神は、水晶に映る貴方たちの家族と同じように壊れていくのでしょう。痛みも恐怖も感じず、生きる屍になるのも時間の問題。さあ、取引を致しましょう。貴方たちの大事な家族を助ける代わりに、ディアナ嬢の解毒剤を出しなさい」

ローヴの言葉に一番驚いたのはギルバードだ。レオンも立ち上がり、顔を歪めて水晶を見る。

項垂れた男は「せめて懐に入れていた薬草を煎じて、家族に飲ませて欲しい」と口にする。ローヴはすでに瑠璃宮の導師に渡したと端的に答えた。ローヴがバールベイジで捕らえた男が持っていたのは、自分の家族に煎じて飲ませようとしていた薬草らしい。

「貴方たちがすべきことは、解毒剤を出すことです。このままでは大事なものを、守るべきものを失いますよ。ほら、また血を吐いた。あのままでは半日も持たない」

ローヴから発せられているとは思えない昏く冷酷な声色に、ギルバードもレオンも息を飲んだ。

フランツだけは多少慣れているのか、僅かに顔色を変えただけで男たちを見下ろしている。三人は互いの顔を見つめ、憔悴しきった顔をローヴに向けた。

 

「俺たちは家族を助けたい! だが・・・そのための薬草は王宮の、我らが立ち入れない場所に保管されてしまって・・・、どうやっても、どうしても探し出せなかった・・・」

「あの娘の解毒剤に使用する薬草も、バールベイジ王城の禁域に保管されていて」

「俺が持っていた薬草も似た解毒作用はあるが・・・、あれでは一時凌ぎでしかない」

哀れにも聞こえる男たちの弁解に、ギルバードは舌を打ち床を蹴った。

「家族を人質にされていたなら、そうと早く言えっ! 俺は何度も訊いただろうが!」

「だ、だけど禁域だっ! 多くの衛兵が跋扈する王宮の、さらに奥だとしか知らない。王女しか入れない秘密の部屋で、俺たちにはどうやっても入れない場所で・・・」

「取引するのはいいが、しかし・・・どうやって王宮奥まで行けばいいのか」

眉間の皺を一層深く刻んだ男が張り上げた声には嗚咽が混じり、徐々に掠れて床に霧散する。

 

ビクトリア王女はギルバードを恋い慕う余り、王子の関心を得るための手段として国内外から多くの魔法導師を集めた。集められた魔法導師は信じられないほどの高待遇と数多の研究素材を前に、殆どの者が王女が提示する研究に意欲を示した。

中には王女の個人的嗜好には付き合えないと去っていく魔法導師も多くいたが、三人は家族を捨て切れずに己の道を決めかねていた。未知なるものへの探求心は大きいが魔法導師としての矜持もある。生活は苦しいが、今まで通りの生活の中で己の求める研究を続けようと決心して王宮魔法導師を辞する直前、王都で流行していた病に家族が倒れてしまう。

王女が男たちの家族のためにと高価で希少な薬草を回してくれた上、家族と暮らしながら従事して欲しいと王都近くに家まで用意された三人は恩を返すため、王女に奉じ従事することになった。

指示された研究が自分たちの得意分野だったこともあり、家族の病を治すためという大義名分を掲げながら探究心を満たされる研究に没頭する。時間の制限なく王城で研究し続ける他の魔法導師と違い、家族の許に帰る三人だったが、時に王城に連日泊まり込み研究にのめり込むことも多々あった。

二年近く経過しても、なかなか治らない家族の病に違和感を覚えながら、新たな研究を提示されるとそれも頭の奥隅へと追いやられる。そんな日常が突然破綻した。

他の導師がある植物を元に薬を生成しているのを目に、明確な違和感を覚えた。南方でしか採れないその薬草は、高山が多いバールベイジでは重宝している植物だ。高山病によく効くからと特殊な温室を作り栽培に成功したばかりで、その育成には男も係わっていた。しかし高山病に用いるのとは違う手順で作られる薬に男の眉は寄り、そして驚愕した。ある手順で抽出精製された薬草は幻覚や妄想などを呈する精神毒性が強くなる。導師が作る薬が見慣れた薬袋に包まれるのを、男は息を詰めた。

急ぎ家に戻り家族が飲む薬袋を見て、それは確信に変わる。急ぎ家中の薬を捨てるが、もう遅かった。

男の家族は研究の材料として、王女の贄として扱われていたのだ。

 

王女に問い詰めると、頬の肉に目を埋めた王女は口端を持ち上げる。

『わたしのギルバード様に近付く、愚かで醜い女たちを追い払うための実験に協力して貰っただけ』

他国の王女やエルドイド国内の貴族息女が、舞踏会などでギルバードに勝手に近寄って行く。王太子としてギルバードが対応するのは仕方がないことだと認識しているが、自分以外に微笑む王子を見るのが許せない。ましてやギルバードと手を取り合い腰を掴まれて、ダンスを踊る女どもは皆滅びてしまえばいい。ギルバードから放たれる笑みの全てはビクトリアのものだ。私だけの王子で、側に侍るのは私だけが許されている。だが、ビクトリアの苦しみを知らず、女どもはギルバードを取り囲み、ビクトリアが近付けないよう仕向けている。

歯噛みしている内に王子は城を出て領地視察に向かってしまった。きっと言い寄る醜女どもに辟易して逃げるように城を出たに違いない。可哀想な王子のために何かしてあげたい。―――そうだ、愚かな女が近付かぬよう、女どもの頭から王子の記憶を抹消しよう。ギルバードを知るのは、ギルバードの側にいるのは自分だけでいい。その為に作った薬を試しただけだと、王女は悪びれもせずに笑んだ。

 

試薬を飲んだ男たちの家族は徐々に記憶を失っていった。二年近く常用した薬のせいで、最低限の日常生活だけを記憶に残し、家族は人形のように笑みを浮かべるだけの存在となった。最初に罹った病も仕組まれたものだったのではないか。そんな疑惑が浮かぶが、もう確かめるすべもない。とにかく、家族を取り戻すには解毒剤を飲ませたらいい。しかし解毒剤は王女だけが知る場所に隠され、幾度訴えても何度探しても手に入れることは叶わなかった。 

「とても・・・大切な家族です。今の自分が魔法導師としていられるのは、家族のお陰です。だからこそ魔法導師の矜持を捨ててでも助けたいと、王女の命に従いました・・・。殿下、娘を助けるために禁域の解毒剤を手に入れるには、殿下がビクトリア王女と婚姻を結ぶのが一番早いと」

「てめぇらは・・・、馬鹿かーっ!

跪く男たちの頭上に、ギルバードは吐き捨てるような怒号を落とした。 

「ローヴ、こいつらの家族を急ぎ診るよう指示を出せ」 

「む、無理です! 家からは誰も出ることが出来ない。どうやっても解除出来ない、強固な呪文がかけられている。それも二重三重にっ」 

「それは王女配下の、他の魔法導師がかけた呪文ですか?」 

家族を救うことを断念したような口上を繰り返す男たちに、フランツが問い掛けた。その声に一人が涙と鼻水でぐっしょり濡れた顔を上げると「わかりました」と目を細めて頷き、杖を出すと王女の姿を部屋から消した。そしてアラントルで捕らえた、五人の魔法導師を場に召還した。 

突然空間を移動させられた魔法導師たち五人は目を丸くしていたが、仲間である三人の男を目にして途端に明るい笑みを浮かべる。場にそぐわない明るい表情は、彼らが口を開いて理解出来た。 

 

「おおっ! ビクトリア王女様のためにギルバード殿下のお気持ちを変えることに成功したのか? 王女様はいずこに? 喜ばしい一報は国王の許へ、もう届けたのか?」 

「おめでたいことだ。我らが出来なかったことを、よくぞ遣り遂げた」 

王女の望みを叶えることが出来た喜びに満面の笑みを浮かべ、床に蹲る男たちを褒め称える五人の魔法導師を、ローヴとフランツはただ静かに見守る。しかし、その横では刃傷沙汰が起こりそうになっていた。レオンが渾身の力で押さえていなければ、ギルバードは間違いなく部屋を真っ赤に染めていただろう。

ギルバードの怒気に染まる頬を見て、王女配下の魔法導師はさらに喜びを深める。婚姻が決まった喜びに頬を染めるなど、なんと初々しい王子だと笑みを零す。

「ギルバード殿下、ビクトリア王女様との挙式には盛大な花火を打ち上げて御覧にいれます」

「王女様の御心をお受け頂き、我ら一同、心よりお祝い申し上げます!」

「殿下と王女に、永久に尽くすことを誓います! おめでとう御座います」

レオンの耳に、ギリリッと奥歯が噛み砕かれたような聞くに堪えない音が聞こえて来る。笑みを浮かべたまま床上に転がっている魔法導師の首が脳裏に浮かび、レオンは黙ってギルバードの腕を押さえ続けた。

ローブが肩を竦めてギルバードの頭を杖で小突く。歯軋りしながら振り向いたギルバードの目の前に杖を突き出し、「彼らに頭を下げようとしたのは誰ですか? 今は怒るより、すべきことがありましょう」と辛辣に言い捨てる。眉間の皺を深く寄せながら、それでもギルバードは大きく息を吐いて佩いていたものから手を離した。ローヴに向かいレオンが小さく頭を下げると、柔らかな笑みが返って来た。

  

「まずは皆様、口を閉じ、御静かにして頂けますでしょうか。王女は別室にてお休みです。貴方たちを呼んだのは、尋ねたいことがあるからです」 

ローヴの声掛けに振り向いた魔法導師は一瞬戸惑ったような顔を見せたが、すぐに笑みを浮かべる。王女に関することなら何でも聞いて下さいと恭しく跪き、尋ねられる前に口々に語り出した。

王女がどれだけギルバードを想っているか、ギルバードを振り向かせるために作物や魔道具の研究開発に多額の費用を投じ、そして結果を出したかを紅潮した頬で誇らしげに語る。魔法導師への高待遇、新種の薬草開発、そのための薬草園整備、いろいろな薬の研究開発。魔法導師が興味を持つことを全て許容してくれる、懐の広い王女だと魔法導師は意気揚々と訴える。

傍らの三人が口惜しげな顔をしていることに気付こうともせず、王女の知識欲・意志の強さ・慈愛に満ちた優しさの素晴らしさを、まるで神が遣わした天使のような気高い存在だと褒めちぎる。

魔法導師それぞれが唾を飛ばさんばかりに狂信者の如く熱弁する姿に、ギルバードたちが胡乱な視線を投じているなど、思いもしないようだ。

魔法導師たちが語りの合間に荒い息を吐いた瞬間を狙い、ローヴが一歩近付き、杖で床を強かに叩いた。その顔にはいつもの柔和な笑みを浮かべているが、フランツがレオンに「あれは相当怒ってますよ」と呟きながら一歩退く。レオンも続いて二歩退いた。 

「・・・・貴方たちが崇拝されているビクトリア王女がエルドイド国に何をしたのか、御承知ですか? 貴方たちが言う慈愛に満ちた天使のような王女様は我が国の民を、アラントル領侯爵家の娘を攫い、毒を飲ませ、苦しめ、廃人にしようとしている。加担したのですから、もちろん承知ですよねぇ?」

穏やかな、しかし場の空気を一掃するかのような低い声色に、五人の魔法導師は顔を強張らせる。そろりと互いの顔を見つめ合うと、足元へ視線を落とし、不安げな顔を上げた。 

「・・・エルドイド国アラントル領で攫った娘は、本当にギルバード殿下の想い人なのですか? では王女様との婚姻はどうなるのですか? ビクトリア王女様は貴国に御滞在なのですよね? 殿下のお側で慈しまれているのでは」 

「―――ッ!」  

激しい苛立ちに振り上げたギルバードの手は、しかし直ぐにローヴの杖に押さえられ、放たれた雷は部屋の壁を破壊するに留まった。驚愕に目を瞠る魔法導師は崩れ落ちる壁の瓦礫にオロオロと狼狽し、レオンが大きく息を吸い込んだ。 

「ギルバード殿下。お怒りは御尤もですが、話しを聞くためならと、彼らに一度は低頭することも辞さない覚悟でおりましたでしょう? 落ち着いて下さい」 

「これが・・・これが落ち着いていられるか! いいか、お前ら! 俺が妃に望むのはディアナだけだ! 何度だって言うぞ、俺は豚と結婚する気はないからなっ! 馬鹿にするのもいい加減にしろっ!」 

「ええーっ!?」 

心の底から驚いている魔法導師達を前にして、ギルバードの押さえ込まれた手が再び上がりそうになる。フランツが溜め息を吐きながら壁を修復する横で、レオンが興味深げに魔法を見つめていた。 

「フランツ殿。あの衝撃がこれだけで済んでいるのは、もしかしてこの邸自体に魔法がかけられているからですか?」

「そうです。邸がある島自体に誰も入らぬよう、邸から出られぬように強固な魔法を施しております。ですから壁も容易に戻せる。その前に破壊の魔法がこの邸内で使えるとは、さすが殿下というか・・・」

修復を終えた壁を一撫でしたレオンは、満足げに振り向いた。垂れた目を細め、未だオロオロと狼狽えている魔法導師へと足を向け、慇懃に一礼する。

「さて、先ほどから吐き気を催す言葉が私の耳を穢しておりますが、殿下の言うように我が国の未来の王妃様はディアナ嬢と決まっております。それはアルフォンス国王様を始めとし、宰相も認めております。つまり、ビクトリア王女は、ギルバード殿下の花嫁を誘拐した、ただの犯罪者です」

切って捨てたような物言いに、魔法導師たちはぽかんと口を開けた。そして幾度か瞬きした後、そんなはずはない、王女以外に殿下の王妃に相応しい女性はいないと漏らし、まだ足掻き続ける。洗脳でもされているのかとギルバードが訝しげに見つめると、真偽を確かめんとばかりに一人の魔法導師が跪いた。

「殿下、彼が口にしたことは本意で御座いますか?」

答えるのも面倒だとばかりにギルバードが口をへの字にして頷くと、魔法導師から悲鳴のような呻き声が上がる。フランツが思わずと言った態で噴き出すから、への字はさらに大きくなる。

ローヴが顎を上げて蒼褪め憔悴しきった魔法導師を睥睨した。

「私が尋ねたいことは、今まで開発された薬の内容です。人の精神を惑わす、狂わす、記憶を失くして精神崩壊させる薬を、王女に依頼されて作っていましたね?」

 

その問いに誰もが蒼褪めた顔を俯けたが、やがてひとりの魔法導師が小さく頷いた。

罪人を懲らしめるためとはいえ、命まで取るのは可哀想だという王女の優しい心に感銘して、新たな薬草を用いて新薬を作ったのだと答えた。原料に使ったのは高山病のための薬になる薬草だが、調べていくと精神に作用することが判り、その効用を多方面に使えないかと研究を始める。やがて、身体に傷を付けず精神だけに作用する薬の開発は王の目に留まり、国からの正式命令となる。万が一、他国から攻められた場合、自国の兵を傷付けることなく攻め入った敵を翻弄するには打って付けだと王から感嘆の言葉を賜った魔法導師は、更なる研究を重ねた。新薬の効き目は上々だと王女から殊の外褒められ、どこで使われたのかなど疑問にも感じなかった。

自分たちを拾い上げてくれた王女の役に立てたと、ただ心から喜んだ。

アラントルで攫った娘に飲ませることになった時は驚いたが、結局は飲まなかったし、ギルバード殿下を得るために必要だと言われれば、王女に従事する自分たちに否は無い。

「その後も薬は改良を重ねましたが、味はどうにも出来ませんでした」

「もしローヴ様が御興味あるのでしたら、ビクトリア王女様より譲り受け下さい。味の改良など、どのようにされても構いません。王女様と殿下が御結婚されましたら、これまでの研究は全てローヴ様の」

またも瞳を輝かせて語り出した魔法導師達を一瞥したローヴは、「貴方たちは」と声を強めた。

「御存知ですか? その薬は、貴方がたと同じ魔法導師の、大切な御家族で幾度も試されたのだと」

「―――え?」

五人が揃って顔を上げ、きょとんとした表情を見せる。

またも数瞬した後に項垂れたままの三人へと視線を移し、まさかと眉を寄せたのを見届けたローヴが杖を持ち上げた。宙に浮いたままの水晶玉を杖でなぞり、部屋の壁一面へさきほどの映像を映し出す。笑みを浮かべた人形が繰り返す日常、それが同じ仲間の、捨て切れない家族だと知り、五人は蒼白となる。

ガクガクと血反吐を吐きながら笑みを浮かべ続ける高齢の男性が壁に映されると、一人が「あれは肺の病では?」と呟いた。

「何故、治療院へ連れ行かないのです?」 

「早く治療をした方がいいのが、わからないのですか?」 

当然のように言われた三人が、肩を怒らせて唇を戦慄かせた。 

「連れて行けるなら、とっくに連れて行って治療しているさ! だけど、家から出られないんだ!」

「強力な術が家の周囲にかけられ、俺たちも家の中に入れない。いくら声を掛けても、戸口が開いても、近寄ることも触ることも出来ない!」

「そ・・・・っ」 

腰を浮かした魔法導師の横で、顔を強張らせる者がいた。腰を浮かせた導師が驚いた顔で隣の男を見る。 

「・・・まさか、心当たりが?」 

疑問を投げ掛けられた男は僅かに顔を上げたが、三人の魔法導師と視線が合うと慌てて顔を伏せた。 

それが答えだと物語っている。

「お、まえが、俺の家族を閉じ込めたのかぁ!」 

後ろ手に括られた縄を千切らんばかりに肩を震わせ、三人が立ち上がる。自由になる足で怯えた顔の男を蹴り転がし、更に踏み付けようとした。 

それを止めたのはレオンだ。 

「貴方も同じ穴のムジナです」 

端的な言葉は三人の男の顔を歪ませ、王女配下の魔法導師たちは一様に項垂れた。 

「ビクトリア王女のされたことは、ただ己の欲を満たすためのもの。貴方がたはその片棒を担いでいたのです。他国の者を攫うことに違和感を感じず、精神崩壊へ導く薬を嬉々として作り、王女を暴走させた。貴方たちは己の欲求を満たしてくれる場所を、好きな研究だけに没頭できる環境を失いたくないばかりに、魔法導師としての矜持を捨てた愚か者です。王女の片棒を担いだ犯罪者です」 

レオンの言葉が届いているのか、魔法導師たちは皆呆けた表情で床だけを見つめる。

ギルバードは堅く閉ざしていた唇を開け、大きく息を吐いた。瑠璃宮の魔法導師はまともで良かったと頭を掻き、しかしそれぞれが掲げる善悪の境界線はどこにあるのかと肩を落とす。もし自分の欲しいものが得られないと知った時、果たして自分は魔法導師を使わなかっただろうか。魔道具や魔法を、自分は使わずに堪えることが出来ただろうか。幼いディアナの言葉に激昂した過去を思い出し、気分が塞がりそうになる。 

「殿下、話しを進めませんとディアナ嬢を救えませんよ」 

驚くほど強く背を叩かれ、ギルバードは目を丸くする。 

そうだ、今は過去の自分を反省している場合じゃない。未来を勝ち取るために、ディアナを助け出すことが先決だ。自分の手も痛かったのだろう、レオンが擦る手に自分のそれを重ね、強く握った。 

「解毒剤はどこにある。バールベイジの王宮禁域とは、どこだ!」

 

 

 

***

  

 

 

目が覚めると柔らかな色合いの板目が見えた。それが天井だと気付き、ディアナは大きく息を吐く。

顔を横向けると衝立が見えた。白い布がかけられた衝立をぼうっと見ていると、何故か目元が突っ張っているようで痒く感じ、何度も擦る。寝足りないのか、あくびが漏れた。

床が鳴る音がして、部屋を仕切る衝立の向こうから何かがのっそりと現れる。 

「ディアナ嬢、目が覚めましたか。すぐに食事を用意しますね」 

現れた影のような人物は、ディアナが目を瞠っている間に姿を消した。

コツリと固いモノで何かを叩く音がすると同時に、部屋にふわりと美味しそうな匂いが広がり、その匂いに鼻がヒクヒクと動き、乾いた咥内にじわりと唾が湧く。

だけどディアナは身を竦めた。言い知れぬ恐怖が背を這い上がり、急いで影から逃げたいと、少しでも影から離れたいと強く思う。視線を巡らせると小さな窓が見えた。そこから外に出るのは難しいと即時に判断し、他に出口はないかと立ち上がった。衝立から向こう側を覗くと、影が揺れながら水を注いでいる。その奥に扉が見え、ディアナは胸元をぎゅっと握って足を踏み出した。

「ディアナ嬢?」

あっという間に気付かれたディアナは悲鳴を上げて部屋を飛び出した。追い掛けて来ないように祈りながら、廊下を駆け出す。自分が夜着姿だとか、食事を用意してくれているのに申し訳ないとか、今のディアナは欠片も感じない。ただ胸に巣食う恐怖から逃げたいと、足を動かし続ける。

 

闇雲にしばらく走った後、背後から追い掛けてくる音がないのに気付き、ディアナは足を止めた。廊下の窓からは暖かな日の光が窓から差し込んでいて昼間だとわかる。その窓を開けようとして狼狽えた。鍵もかかっていない窓なのに、少しも動かない。他に出口は無いのだろうか。

恐怖が増して動悸が激しくなる。ここから逃げたい。ここは怖い。

見えるのはたくさんの扉と開かない窓だけ。幾度角を曲がっても長い廊下しか見えず、出口は一向に現れない。途中何度も試みるが、どの窓も固く閉ざされている。怖くて助けを呼ぶことも出来ず、走っては窓に縋り、また走ってを繰り返す。

突然、床に何かが転がり現れた。とっさに見てはいけないと感じた。だが、視線は転がり現れた物を追随し、それが何かと注視してしまう。現れたものは握り拳大くらいの何か。石のようにも見えるが石ではない。石ではない証拠に表面の黒い殻がパリパリと破れ、中から何かが出てくる。それは卵の黄身のような形状だが、黄身ではなかった。ぐにゃりとした大きな目玉。赤い糸のようなものは血管なのだろうか、中心には獣のように縦の虹彩が見える。 

「・・・ひっ」 

仰け反って壁に身体を押し付ける。途端、顔近くの壁が溶けたようにドロリとした形状になり、天井から小さな蟲が這い落ちて来た。視線を戻すと、いつの間に現れたのか床一面に驚くほど多くの貝が転がっていて、それらが軽い音を立てて次々と開いていく。怖いのに目が離せない。きっとまた恐ろしいものが見える。見たくないと思うのに、どうしても顔を逸らすことが出来ない。そして貝から現れたのは長い長い黒髪だった。 

「あ、あ・・・」 

うねるように床を這う黒髪がディアナに近付いて来る。咽喉が痙攣したかのように声が出ない。

どうにか足を叱咤し、床いっぱいの貝から視線を逸らして廊下を走り、また角を曲がる。次に目の前に現れたのは蠢く蟲。ディアナの腕ほどもあるムカデや、赤ん坊ほどもある大きなナメクジ、人間の頭かと見紛う異形な蜘蛛。そして奥から犬のように大きな蛙がのっそりと姿を見せた。僅かに開いた口から赤い粘着質の舌が素早く伸び、近くにいた椅子ほどもあるバッタを飲み込む。蛙の口からはみ出たバッタの足がビクビクと痙攣する。まるで悪夢のようだと思う。だけど顔を覆う手が痛いほど頬に爪を突き刺し、目の前の光景が現実だと伝えて来る。

突然足元が揺らいだ。足元の床が沼のように変わる。ずぶずぶと身体が沈んでいく。遠くから獣の叫び声が聞こえ、だけど廊下の壁に反響して何処に獣がいるのかわからない。

身を竦めて耳を塞ぎ、――――そして気付く。

叫び声は獣のものではなく、自分の口から出ているのだと。

「やああ、あ・・・う、あっ、ああ・・・っ!」

助けてと差し出した手は泥の沼に沈み、やがて重い水音を纏わせながら飲み込んでいった。

 

  

 

 

 

 

 

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