紅王子と侍女姫  99

 

 

「では直ぐに出立の準備を致しましょう」の言葉に、フランツが魔法導師たちを再び各部屋へと転移させ、ローヴが水晶を片付けた時だった。突然、空間を捻じ曲げてカリーナが現れた。彼女の表情はひどく蒼褪めており、崩れ落ちるように膝を落として唇を戦慄かせる。

ギルバードは目を瞠り、荒々しくカリーナの肩を掴んだ。

「ディアナに・・・何が、あった」

「殿下、も・・・もう時間が、ありません」

掠れた声を落とすカリーナは、肩に置かれたギルバードの手を強く握り返す。

その指先はひどく冷たく、ギルバードの頭には厭な想像しか浮かばない。そんなものは払拭したいと頭を振った時、ローヴが何があったか先を促がし、カリーナは震える唇を開いた。

 

―――深い眠りに就いていたはずのディアナが突如目覚めた。目覚めると彼女は夜着姿のまま、部屋を飛び出してしまった。カリーナが声を掛けても声が届いていないのか、ディアナは振り返りもしない。

何を思って部屋を飛び出したのかディアナの心理状況がわからないため、彼女の足を止めることはせずにカリーナは黙って後を追うことにした。瑠璃宮から出られないよう術を施しているというのもあった。瑠璃宮の外に出なければ、まさかの怪我を負うことも、今の状態を第三者に見られることもない。

ディアナは廊下の窓を見つけるたびに必死に開けようとしていた。だけど開けること叶わず、悲壮な顔で次の窓を探すべく、廊下をどんどん進んで行く。ディアナの目に何が映っているのか判らないが、時に悲鳴を上げて廊下の壁に縋ることもあった。

そして幾度目かの角を曲がった時、ディアナは突然足を止める。

顔色は瞬く間に紙よりも白くなっていった。何もない床を凝視していたディアナの身体が小刻みに震え出し、それは見てわかるほど全身に広がる。開かれる唇から劈くような悲鳴が廊下に響き、カリーナが差し出す腕を避けるようにディアナは昏倒してしまった・・・と、語られた。

 

「倒れたディアナ嬢は、すぐにアネットの部屋に戻して寝かせております。深く眠るよう香を焚いておりますが、それも・・・今の彼女に効果があるのかどうか」

「ふむ、では私も一度足を運びましょう。カリーナは瑠璃宮全体を見回り、術の綻びがないかを確かめた後、引き続きディアナ嬢のそばに就いているように。瑠璃宮に向かうついでに、バールベイジに連れ行く魔法導師を選びます。殿下とレオン様はバールベイジに向かう旨を、王と宰相に伝えて来て下さい」

「殿下・・・、バールベイジに・・・向かわれるのですか?」

訝しげな表情を見せるカリーナに大きく頷いたギルバードは、バールベイジの王宮にある禁域に解毒剤と薬草があると伝えた。レオンがついでとばかりに、バールベイジの魔法導師たちは未だ王女とギルバードとの婚姻を願っていると、余計な話まで伝えてしまう。

するとカリーナは幽鬼の如く立ち上がり、その顔色を変えた。目を細めたカリーナが失笑と共に肩を揺らすと、周囲の空気が一気に冷え込む。

「はっ! そのような戯言を口にしている愚か者がまだいると? ・・・それではカイトが作っていた幻覚薬に私も手を加え、王女だけでなく配下の者にも味わって貰うとしよう。苦味辛味を混ぜ込み、この世のものとは思えぬ味を口へ詰め込み、奴ら自身の杖を用いて咽喉奥深くで掻き回し、腹が裂けるほど堪能してもらおうか。好い機会だ、試したいと思っていた薬草を全部試すも楽しそうだな・・・」

ギルバードが呪詛のような言葉をぶつぶつと漏らし始めたカリーナに唖然としていると、背後から淡い嘆息が聞こえて来た。

「ああ・・・肌がゾクゾクする。やはりカリーナ殿はいい・・・」

こそりと呟くレオンの熱の籠った言葉に鳥肌を立てながら、ギルバードは王城に戻ることにした。

 

 

王城に戻ると同時にレオンは急ぎ王への面会を求めた。

その間、ギルバードはローヴと共にディアナの許を訪れ、そっと見舞った。薄らと香の煙が棚引く中で眠るディアナは、随分やつれたように見える。このままディアナが眠っている間に、全てを早々に解決したい。眠っていても時間は経過する。時間の経過とともに親しい者の顔と名前を忘れ、幻覚に怯えて昏倒するほどの憔悴など、二度と繰り返したくない。

解毒剤さえ手に入れれば――――、それですぐに解決するはずだ。

そう思うのに腹のずっと奥底で、言葉に出来ない不安が頭を擡げる。不安だけでなく、怒りや口惜しさ、もどかしさがトグロを巻き、じわじわと絞めつけて来るようで気持ちが悪い。

大丈夫だと自信を持って己を納得させることが出来ない苛立ちが、何度も浮上する。

狡猾で不遜なバールベイジ国王と上手く取引が出来るのか、王女の執拗な恋情を消すことが出来るのか。自身に課された為すべきことと、やつれた表情で眠るディアナを前にして、うねるように感情が揺れる。

いま、自分がディアナにしてあげられることは皆無だ。出来ることといったら、音を立てず黙って見守るだけ。悪夢から救うことも守ることも出来ず、触れることも目を合わせることも出来ず、もしディアナが目覚めそうになったら急いで隠れなければならない。

もとより長考することは苦手な自分だ。その上、ディアナが絡めばどうしても感情的になる。

ローヴやレオンが共に行動してくれることに感謝しながら、ディアナが自分に微笑んでくれる日常を取り戻したい。今は唇を閉ざして眠り続けるディアナに誓い、ギルバードは立ち上がった。

 

瑠璃宮から王宮へ向かう途中、レオンが出立の用意が出来たと迎えに来た。

そのまま王の執務室へ向かい、背を正して叩扉して開ける。

机の主が見えないほど高く積まれた書類の陰から何か飛んで来るのが見え、またペーパーナイフかと思ったら、今度はフォークだった。何か食べていた途中なのだろう、汚れたフォークは硬く頑丈な扉に突き刺さり、耳障りな音を上げながら揺れる。前回同様やはりギルバードの耳朶をほんの少し掠め、そろりと視線を向けると、王が眉間に深い皺を作り睨んでいた。 

「ローヴらを連れて、バールベイジ国に向かうと聞いた。その間、お前の仕事は全てこっちに回されると宰相に言われてな、席を立つ暇などないとばかりに食事まで運ばれる始末だ! ああっ、フォークなんかじゃ苛立ちが治まらん! 戻ったら鍛練場で鍛え直してやるから覚悟しておけよ、いいかっ!」 

「はい・・・。誠に、御面倒をお掛け致します」 

発端となった面倒事はバールベイジが持ち込んだのに、何故自分が謝罪しなくてはいけないのだと憤ってはいけない。背を見せる勢いで深々と頭を下げなくてはいけない。口を尖らせながら貧乏ゆすりをしている王に不貞腐れた顔を見せてはいけない、逆らってはいけないと、幼少時よりギルバードは骨の髄まで叩き込まれていた。

いま自分に出来るのは自分の不甲斐無さを謝罪することと、同盟国であるバールベイジに乗り込むことを王にも承諾してもらうことだ。

  

「ディアナ嬢の容態が悪化したと聞いた。バールベイジに向かうなら騎士団長に話して、暇な部隊を丸ごと連れて行け。ついでにバールベイジとの国境の警備状況を視察して来い。そこの警備部隊も引き連れて、どうせなら綺麗さっぱり潰して来てもいいぞ」 

「どうせならって・・・潰しちゃまずいでしょう。ローヴは国を消すより国王と王女を消した方が早いと言うし、それでは民が驚きましょう。一応・・・大国ですし、我が国とは同盟国ですよね」 

けっ、と唾を飛ばさんばかりに顔を顰めた王だが、直ぐ宰相に窘められる。多少は言葉を選びなさいと。しかしギルバードに振り向いた宰相が零した言葉に面食らってしまった。 

「しかし殿下、王がおっしゃることを実行されても問題ありませんよ。まあ、バールベイジは大国ですから潰して平地にするより、属国にした方がいいのはないでしょうか。ねえ、国王」 

「あんな国、属国にしてどうする? 潰した方がすっきりするだろう。それよりも魔法導師は誰を連れて行く? カリーナ以外、全員連れて行ってもいいぞ。時々は瑠璃宮に行ってディアナ嬢の様子を見て来てやるから、ありがたく思え」

「それは駄目ですよ。瑠璃宮に行ったきり、王は戻って来ませんでしょう。殿下の分の仕事も回って来るのですから、しっかりと御政務に励まれて下さい」 

「いや・・・いやいやいや・・・・」 

王と宰相の掛け合いを止めながら、ギルバードは額を押さえる。

平地にするとか属国にするとか、そこまで大事にしてもいいのかと頭が痛くなった。ただ、バールベイジ国王に謁見したのち、ディアナを攫った王女の愚行を無視して婚姻話を推し進める可能性がある。厚顔無恥な書簡を寄越す国王だ。娘可愛さに何をするか、会ってみないと判らない。娘の願いを叶えたいと、ギルバードを閉じ込めようとするかも知れないが、もしも閉じ込めようとするなら魔法で退けるだけだ。

問題は自分の感情の揺れ幅で、ディアナを愚弄する言葉を僅かでも耳にしたら、自分は間違いなく暴走するだろう。バールベイジの王城を瓦礫の山と化すことは想像に易い。禁域にあるという、解毒剤を手に入れる前にそんな事態になるのは絶対に避けたい。念のためにディアナのリボンを手首に巻こうかと考えていると、王が微苦笑を零した。

 

「同盟なぞ秩序のために制定されただけに過ぎん。バールベイジ国王は平穏な時代に胡坐を掻き、大きな腹を揺らすだけの堕落した王だ。知ってるか? あの王には妃が八人もいるんだぞ。王子だけで十二人。王女も同じくらいいたはずだが早世した者が多く、年頃なのはビクトリア王女だけ。それが自然の理か、他者によるものかは知らぬが、漏れ聞こえた話によると王女が一枚噛んでいるのではないかと噂されているそうだな」

・・・まさか、自分の姉妹を」

「王宮主催の舞踏会に頻繁に足を運び、他国の王女や貴族息女の動向を事細かく調べ、お前を呼び寄せるために寒冷地に強い麦を餌にバールベイジに足を運ばせる。そして未だ立場不明確なディアナ嬢に狙いを定め、何をしたか知っているだろうが。お前だって、それでバールベイジに向かうのだろう?」

ぐっと眉を潜めたギルバードを前に、王は大仰な嘆息を吐いて椅子の背に身体を預ける。

「お前のどこがいいのか解らんが、エルドイドが大国が故に王太子妃を望む者が多いのも事実だ。まあ、バールベイジを属国にするも、平地にするもギルバードに任せる。部隊も足りなければ増援を送る。ただ他国とはいえ、民を傷付けることだけはするなよ」

「はい。ですが時間がありませんので、隊を連れて行くより『道』を繋げて、城に忍び込もうかと考えています。バールベイジの魔法導師が言うには王宮のある場所に禁域があり、そこに解毒剤と元となった薬草があるようです。急ぎ持ち帰り、ディアナを元に戻すことを優先したい」 

 

問題はその禁域を配下である魔法導師も知らされておらず、王女以外入れない場所らしいということだ。眉を寄せると、王が楽しげに咳払いを落とす。 

「あの王が素直に禁域を教えてくれるか? お前が魔法を暴走させてバールベイジの王城を瓦礫の山に変えても、今回に限っては諸手を上げて褒めてやるぞ」 

「そうしないように心身を鍛えて・・・いる、つもりです」 

語尾が弱々しくなるのは口惜しいが仕方がない。レオンが隣で笑いを堪えているのを怒ることも出来ないのが現状だ。事実、ディアナが絡むと自分は毎回暴走してしまう。アラントルでは多少堪えることが出来たようだが、バールベイジ国の王の返答次第ではどうなることか。最悪の場合は王の言った通りになりそうだと項垂れそうになる。 

「大切なものを守りたいと思うなら、お前の矜持に従い、思うままに動け」 

ギルバードが顔を上げると、思い掛けず王の柔らかな視線が絡む。強張っていた身体が僅かに緩み、力が抜けていくのを感じながら、王と宰相に深く一礼して踵を返した。

扉を出たところで、レオンに小隊をバールベイジの港に密かに侵入させるよう指示し、瑠璃宮に向かう。バールベイジ国王が素直に口を開き、王女が隠す禁域に案内してくれる可能性は低い。鍵となり得る王女を連れて行くべきか、それが一番の悩みだとギルバードは口を尖らせる。 

 

「ローヴ、バールベイジに向かう魔法導師は決まったか?」 

「秘密裏に行動するつもりですから、同行するのは私とカイト、ザシャだけにします」 

「あの肉の塊を連れて・・・・行った方が、王との話しは早いだろうな」 

「そうですね。それにいつまでも我が国にあのような醜悪な肉塊があるというだけでも鬱陶しい。早々に引き渡し、親であるバールベイジ王に強く苦言申し上げましょう。二度と越境しないよう、誓約書を書かせるのもお忘れなく!」 

カイトが不愉快だと言わんばかりに言い放つと、ローヴが呵々大笑を零す。そこへハインリヒが現れ、先に出立したザシャがバールベイジ王城近くで『道』を繋ぐ準備が出来たと報告した。

「殿下、直ぐに出立されますか?」

「ああ、直ぐに出る。一刻も早く解毒剤を手に入れたい」  

 

王女を引き渡しの条件に解毒剤を手に入れて直ぐに戻り、ディアナを元に戻す。そして同じように愚かな考えを持つ者が出ないよう、王太子妃は決定したと公布してディアナの立場を明確にすることが先決だ。

バールベイジ国王はディアナ誘拐に関して未だ謝罪をしていない。

さらに王女が戻らないことを都合の良い方に捉え、書簡では好き勝手な物言いばかりを繰り返している。宰相が何度も繰り返して謝罪を要求しているが、全く埒が明かない。そんな古狸と、感情的になりやすい自分とが上手く交渉出来るだろうかと愚痴めいたことを零すと、ローヴが肩を竦めた。

「それはそうでしょうねぇ。バールベイジは国の威信をかけて自分の非を認める訳にはいかない。それに王女の働き如何によってはエルドイドと密な関係になる可能性がある。復活されたら、懲りずに何度でも殿下に婚姻を求めて来るでしょう」

「何度請われても、アレがどんな働きをしようとも、俺の妃はディアナだけだ」

「しかしながら殿下の固い決意も、王太子妃が決まったと公布されなければ知られることもない。このままでは第二のビクトリア王女が現れても仕方がありません。今殿下がすべきことは、・・・・もう存じておりますよねぇ?」

 

チクリと刺すようなローヴの言い方に、ギルバードの胃がギュウッと絞られる。思わず視線を逸らしながら足早に瑠璃宮から出ると、王宮から戻って来たレオンが恭しく書簡を差し出した。

「殿下、宰相より書簡を預かって来ました。バールベイジ国から真摯な謝罪が得られない場合、同盟解除も辞さない、と最終勧告が記された書簡です。それと殿下麾下の騎士団にバールベイジ国の港に向かうよう指示したところ、すでに国王直属下の第一部隊が港よりバールベイジに向けて出航したとのことです。やることが早くて、流石アルフォンス王、格好良過ぎです! と褒め称えて参りました」

「褒め称えてくんなっ! ・・・本当に大事になってもいいのかよ」

「国王様も今回のことを心より御心配されておいでなのです」

「レオン・・・、だが」

「ディアナ嬢が城に来られてから殿下が一喜一憂されるのを見て、誰よりも楽しんでおられたのは国王様です。流石に憔悴しきって落ち込む殿下相手では、弄りも苛めも楽しめないのでしょう。国王様のためにも、そして私のためにも、殿下には一刻も早く元気になって頂きませんと。ディアナ嬢が無邪気に殿下を翻弄する様を我々が楽しく堪能出来るよう、精一杯お手伝いさせて頂きます!」

「レオン様のおっしゃる通りです。景気づけに、ドーンッとバールベイジ城を爆破してしまいましょう」 

 

『道』を繋げる準備を手伝いながら、ハインリヒが拳を持ち上げる。

ディアナに助けられたと恩義を感じているハインリヒは同行出来ないのが口惜しいと目で訴えながら杖で魔法陣を描き終え、レオンにハンカチを手渡した。それは何だと問うと、「広げるだけでレオン様を爆風から守る大きな布膜になる魔道具です。透明となり、視界を遮ることはありません」と得意そうな笑みが返って来た。レオンに何かあっては後で詳しい話が聞けないから、急ぎ作ったとはにかんだ笑みを見せるハインリヒに、レオンは満面の笑みを浮かべて礼を言う。必ず余すことなくこの目にしっかり焼き付けて来ますと宣言するレオンを放置して、ギルバードは『道』へ足を向けた。

ザシャが『道』を繋げた場所は、バールベイジ王城からほど近い森中だという。そこからは速やかに城中へ侵入し、王の許へ向かう予定だ。

ローヴから魔道具である姿隠しのマントを渡されたレオンは、二つ目の魔道具に興味津々といった態で子供のように目を輝かせている。これから敵地に向かうというのに、緊張感の欠片も見えない側近に溜め息を零すと、大仰な仕草で首を竦めながらレオンが近付いて来た。

「殿下、そんな顔でバールベイジに向かうおつもりですか? 殿下に苦渋に満ちた悩ましい表情は、はっきり申し上げて似合いません。大国エルドイドの王太子殿下らしく不遜不敵な態度を前面に押し出して、バールベイジの国王に対面致しましょう。ところで殿下。軍服と盛装、どちらを着用なさいます?」

いそいそとトランクから衣装を取り出すレオンに、ギルバードはがっくりと項垂れた。

 

「さて」

ローヴが地面に杖先を置くと、人ひとりが通り抜けられる歪んだ鏡面のような『道』が空間に現れる。

その鏡面にザシャの姿が現れ、ギルバードたちに恭しく一礼した。ザシャの背後には森があり、木立の向こうにはバールベイジ城の城壁が見える。目を眇めるギルバードの横でローヴが袖から不透明な水晶を取り出し、ギルバードの目前にすっと掲げた。 

「フランツがビクトリア王女を魔道具に取り入れましたので、持ち運びに問題は御座いません。バールベイジ王の真意がどうであれ、殿下が直接お会いになれば話も出来ましょう。・・・・一刻も早く解毒剤を手に入れませんと、思っていた以上に深刻な状態に移行しております」 

ディアナは香の作用もあり深く眠っているはずだ。深刻な状況とはどういうことだとローヴを睨むと、眉を顰めた表情が振り返る。睨んだ視界が歪みそうになり、ギルバードは悪い想像を首を振って消した。

ひとつ大きな息を吐いたローヴがギルバードを真っ直ぐに捉え、今しがたカリーナから瑠璃宮の様子が報告が届いたと口を開く。

 

僅かに目を開いたディアナに気付いたカリーナは慎重に声を掛けた。泣き叫んでいたこともあり、咽喉が乾いていないか心配だったためだ。しかし、ディアナは悲鳴を上げてカリーナの存在に怯えた。効果を増したはずの香も効かず、水にも食事にも手を出さず、今は衝立の向こうから悲しげな泣き声が漏れ聞こえているとカリーナからの報告を口にした。 

 

「今のディアナ嬢には・・・全てがひどく恐ろしく映って見えるのでしょう。怯えながら蹲るディアナ嬢の姿を前に、カリーナもどう声を掛けるべきか、どう対応していいのか戸惑っております。食事も取らずに恐怖に怯え続けていれば、いずれ体力も低下し、精神が闇に堕ちるのも時間の問題。・・・殿下、どのような手段を用いても、早急に解毒剤を手にいれませんと」 

「王女配下の魔法導師によると、禁域には王女しか立ち入れないそうだが、親である王は入れる場所なのだろうか。第一、王が素直にこちらの言い分に従うとは考えにくいな・・・」 

ギルバードが唇を噛むと、ローヴが神妙な顔で一歩前に出た。

「殿下に飲ませようとした媚薬、王女配下の魔法導師の研究成果及び動向、王女が発した言葉は同行していた魔法導師の記憶を辿り、魔法石に記録してあります。それらも報告してありますのに、バールベイジ国は頑なに謝罪を拒否しておられる。それも国としての矜持、なのですかねぇ」 

「ただの悪足掻きだな」 

「その態度も改めて頂きませんと! 我が国に対する冒涜です」 

 

隣で頷くレオンが、王と宰相より預かったという大きな函を持ち上げた。中には数年前からバールベイジ国が送り込んでいた間諜を調べた書類があり、ギルバードは愕然としてしまった。

ギルバードがエルドイド国内の領地を視察していた二年の間、姿が見えない王子の動向をしらべようとしていたのだろう、王城に何度も侵入を試みては失敗した間諜の人数や行動が詳細に記されていた。

バールベイジより送り込まれた間諜は魔法導師の術により城内には入れないまでも、王城で催されていた舞踏会の日時や内容、出席した貴族息女や他国王女の名前、年齢の他、身に着けていたドレスや宝飾、靴まで調べ上げ、更にはドレスを発注した仕立屋まで記されている。

エレノアが主催した舞踏会には王女自ら出席し、ギルバードの従妹であるエレノアに多大な貢物を贈っていた。中にはギルバードに贈って欲しいと書かれた手紙付きの怪しげな香水や布地があり、それらは魔法導師がすべて撤去している。

バールベイジの間諜が王女の命で調べていた、その膨大な調査量にギルバードの開いた口が塞がらない。

王女個人の趣味嗜好のためだけに動かされた間諜と魔法導師たち。さらに自国の領地民を追い出して薬草園を作り、碌でもない物を作り、勝手に手紙を盗んでディアナを攫う。

それらの、一国の王女とは思えない愚かな行動は、ギルバードに恋焦がれる余りだという。

何時か二人きりで会えるその日のために、ギルバードが好むを覚え、王太子妃になるために邪魔な存在を隅々まで調べ、出来る限り排除し、エルドイドで流行しているドレスと化粧で美しく装う。魔法導師が研究を重ねた成果を餌に、視察帰りの王子が興味を持ちそうな話題も忘れない。

王女の脳内に住むギルバード王子は、ここまで自分を気に掛けてくれて嬉しいと凛々しい笑顔を浮かべ、恭しく王女の手を取りダンスを申し込んでいるのだろう。多くの貴族が見守る舞踏会の大広間で、王女の肉で盛り上がる背に腕を伸ばし、揺れる腹を愛でながらくるくると二人だけでダンスを楽しんでいるのかも知れない。醜悪としか思えない過度な化粧を施した王女を熱い眼差しで見つめ、吐き気を催すほど濃厚な香水を胸いっぱい嗅いでいるのだろうか。

想像などしたくないと眉を寄せるほどに王女の妄想が鮮明に浮かび、ギルバードは嘔吐きそうになった。

 

「ねっとりと、恐ろしいほど・・・愛されておりますねぇ」 

ローヴの呟きが耳に届くと同時に、ギルバードの肌は一気に総毛立つ。

書類を片付けていたレオンに視線を向けると、何故かレオンは口端を持ち上げていた。その表情は悪徳商人と見紛うばかりのいやらしい笑みを浮かべており、ギルバードは眉を寄せて退きそうになる。 

「何か・・・(善からぬ)考えでもあるのか、レオン」 

「ビクトリア王女は殿下に病的なまでに執着されています。それを親であるバールベイジ国王も御承知ですから、簡単に解毒剤のありかを、例え知っていようとも我らに教えることは無いと思われます。王女が魔道具に詰め込まれていると知っても、殿下の側に置いてもらっているなら王女も幸せだと、歓喜の涙に咽ぶやも知れません」 

「・・・・」 

ぞっとする話だと、ギルバードは見えない鉄鎖に身体中を絡め取られたような気分になる。魔道具から王女を出し、硬直を解いて幻覚剤を飲ませ、ギルバードが世にも恐ろしく醜い化け物に見えるようにした方がいいかと眉間に皺を寄せると、レオンが「ですから」と口を開いた。 

「そこは、瑠璃宮に残っている魔導師の皆様方に御尽力頂きましょう」 

「ほぉ?」 

レオンの提案に目を瞬かせるローヴとカイトの横で、ハインリヒは何でもします! と意気込んだ。

ディアナ嬢に少しでも恩返しがしたいというハインリヒが袖から羊皮紙を取り出し、意気揚々とペンを握る。ハインリヒはレオンの注文に目を細めながらペンを走らせ、「それは以前、グラフィス国で研究したことがあります!」と盛大な笑みを浮かべ、レオンを喜ばせていた。カイトまで参入し、「それは私が得意とするモノです」と意欲を漲らせている。

嬉々として恐ろしげな企みを話し合う三人から離れ、ギルバードはローヴを真っ直ぐに見つめた。

 

「うちの王は、俺の魔法が暴走しても構わない、他国の城を破壊しても問題ないと諸手を挙げていたが、それはディアナが悲しむことになるから困る。ディアナは・・・誰かが傷付くと、すごっく辛そうな顔になるから、・・・気にするなといっても気にするだろうから、このリボンを手首に括り付けてくれ」 

「おやおや、ディアナ嬢のリボンが無ければ自身の精神制御も出来ないとは、普段の鍛練が足りない証拠ですねぇ。お戻りになられたら、たっぷりと鍛錬されて下さいよ」

「鍛練は・・・既に予約済みだ」

「それに王の許可を頂いておられるのでしたら、殿下が躊躇する必要はありません。殿下が考えるのは、ディアナ嬢の笑顔が見られるよう、解毒剤を手に入れることだけです。そのためでしたら、城のひとつやふたつ破壊する覚悟など、簡単で御座いましょう」

「・・・俺はふたつも城を破壊する気はないぞ? それに、あとでディアナがそれを知ったら、きっと、絶対に悲しむ。これ以上、ディアナが悲しむことは・・・増やしたくない」

『道』の前で、ローヴが小首を傾げて肩を竦める。

その態度に苛立ち、大仰に息を吐いて気持ちを宥める。簡単に城を破壊してしまえなど、言わないで欲しい。気持ちが荒れたままバールベイジ王の前に立てば、ディアナの叫びを思い出してしまうだろう。思い出した途端、それは堰き止められていた溶岩の如く流れ出し、いとも簡単に弾け飛ぶ。

カリーナが同行しなくて良かったと髪を掻き毟った。

ディアナが苦しんでいるのを一番近くで見ているカリーナは、同行すれば城をただ破壊するだけでは生温いと激怒し、バールベイジ国土を草一本生えない砂の荒れ地にしろと焚き付けてくるかも知れない。それどころか、ギルバードが城を破壊する前に彼女が城を爆破する可能性もある。王女入りの魔道具を踏み躙り、粉々に破壊して海に流すのも容易に想像出来る。

だけどディアナが正気に戻り、それを知った時どれだけ悲しむか、彼女がどんな表情になるかなど―――言うに及ばない。同じ轍は繰り返すまいと、ギルバードは深呼吸を繰り返す。

しかしディアナのリボンを手首に巻いても、ディアナの悲しむ顔を見たくないと思っていても、相手の出方次第では暴走する可能性もある。王や宰相、ローヴからの暴走許可を胸の片隅でこっそりとありがたく思っているのは内緒にして、ギルバードは「出立するぞ」とレオンの肩を引っ張った。

 

 

 

 

 

 

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