紅王子と侍女姫  1

 

 

気づいた時には王宮の大きな庭園の片隅にディアナは倒れていた。

いや、倒れたというより倒されたというのが正解だろう。 

目の前で佇む、初めて訪れた王城で会った、自分より四つ年上の壮麗な顔立ちの少年に。

ディアナは大きな碧色の瞳をさらに大きく見開き、その少年を見上げていた。

 

 

母親がいつも以上に丁寧に梳いてくれた髪は無残にも乱れ、髪に飾られていたリボンは少年の手の内にあるのが見える。珊瑚色のリボンはプラチナブロンドに綺麗に映えると、母親に言われて嬉しかったことをぼんやりと思い出す。

倒された身体が受けた痛みより、いきなり髪の毛を引っ張られた衝撃と少年に言われた言葉に呆然として動けないままでいた。顔を上げると少年は唇を噛み締め、握り締めた手は力が入っているのだろう、ひどく震えているのがわかる。そして目の前の少年が何故か痛そうな顔をしているように見え、震える手の中で珊瑚色のリボンが揺れているのを、ディアナは少年の顔と交互に見つめ続けた。 

目が合った瞬間、少年は唇を閉ざしたままディアナから視線を外したが、その場から動こうとはしない。ディアナも倒された体勢のまま、少年の黒髪が戸惑うように揺れているのをただ呆然と見つめ続けていた。

少年の黒髪は日の光の中、黒檀のような艶を放ち濃藍にも見える。戸惑う瞳は伏せられているが、髪と同じ色で輝いていたように思った。しっかりと伸ばされていた背は今や何かの重圧に耐えているかのように屈まれ、肩が微かに震えている。

なぜだろう。

髪を引っ張られたのも、突き飛ばされたのも自分だというのに、目の前の彼の方が痛みに震えて、今にも泣きそうに見える。

 

何かを言おうと口を開いた時、庭園の片隅から足音が聞こえて来た。

 

「どうされました! 声が聞こえましたが、な・・・・、どうされました?」

「・・・っ!」

 

少年は突然現れた人物が大きな声を出したことで、まるで魔法が解けたかのようにその場から脱兎の如く逃げ出して行く。先ほどまで一緒に戯れていた大きな噴水が綺麗な水飛沫を上げていたのが見える。その横を焦げ茶色のブレザーが舞い、駆けて行く彼の黒髪が消えていくのを、ディアナは倒された状態で見続けていた。 

その後駆けつけた大人が助け起こしてくれ泥を払ってくれたが、その頃には既に痛いところなんて無かった。いや、驚いただけで痛みなど最初からなかったのかも知れない。 

走り去った少年の悲痛な表情を思い出し、彼の方が私よりずっと痛かったのだろうと、だからきっと自分が何か悪いことをしたのだろうと思うだけだ。

次に少年に会う機会があったら、まず一番に謝ろうと心に決めた。 

それから自分が何をして少年を怒らせたのか、悲しませたのかを聞こうと思った。

 

それがディアナ六歳の、初めて訪れたエルドイド王国、王宮庭園での記憶。

 

 

 

 

 

しかし王城から戻る途中で、ディアナの頭からその出来事は薄れていく。ただいつまでも唇を噛締めてディアナのリボンを握り締めた黒髪の少年のことだけは消えることはなかった。

当時エルドイド国王宮に訪れたのは、祖父が亡くなり新たなリグニス家侯爵当主となった父ジョージ・リグニスが王へ新当主として挨拶のためにと、小旅行を兼ねてディアナ達姉妹を連れて行ったのだと後に聞いた。 

ではあの時に会ったのは、少年時のエルドイド国王子なのだろう。

その王子に、未だ記憶に残るような辛そうな顔をさせたのは自分なのだろうか。

何で倒れる破目になったのか、当時のディアナは覚えていない上、少年も何も語らなかったそうで両親に謝罪された侍従も困惑していたという。しかし相手が王子である以上、たとえディアナが大怪我をしたとしても文句は言えない。

ただ、城に戻ってからの私は両親に言わせると 『あの日から、うちの娘の性格は突然信じられないほど変わってしまった』 と嘆かれるようになっていた。前の性格をぼんやりとも覚えていないのだから、いくら嘆かれてもどうしようもない。自分自身は今の性格に問題など感じず、嘆かれるような苦痛も文句もないので、何と説得されても変えることは難しいと思えた。

 

「ごく普通に育ててきたはずなのに、どうして・・・・」

 

母が泣き喚き、父が蒼褪めるけど、自分自身はこうしていた方が落ち着くのだから仕方がないとディアナは繰り返し説得する。

 

「そう何度申されましても私はこの方が落ち着きますし、何も問題は無いように思います。お話が御済でしたら仕事に戻っても良いでしょうか」

 

説得とまではいかないが、説明すればするほど両親は蒼褪め悲しげな表情になる。 

両親の悲しげな表情は私自身が『元に戻る』まで何年経っても同じだろうなと、ディアナは袖捲くりしながら嘆息する。同じ話しが繰り返されることが多いため、答える台詞もいつもと同じで、つい次の仕事の段取りを考えながら袖を捲くっていた。

その動きに涙目で両親は悲痛な声を出す。

 

「袖捲くりなど必要ないでしょう? 貴女はこの侯爵家の娘なのですよ!」

「申し訳御座いません。こうしないと汚れてしまいますのでお許し下さい」

「ああ・・・っ。なんてこと・・・」

 

三日に一度はこうして同じ話しが繰り返される。 

しかし何度嘆かれようと、説得されようとディアナは深く御辞儀をしたあと、袖捲くりをする。それは自分の仕事をするために必要で、今日は東側の窓を全てきれいに拭く予定だ。

 

 

ディアナには姉が二人いる。

長女アリスンは既に嫁いでおり、翌月には次女カーラの挙式が予定されている。その婚約者はこの城伯に婿に来てくれる予定となっていた。カーラの婚約者ロンは騎士団に在籍したことのある体躯の良い男性で、性格が温和で領地の跡継ぎとして両親も安堵している。更にロンは義理妹となるディアナのみんなにおかしいと言われている性格も承知してくれていた。

ただディアナだけは自分を普通だと思っているのだが。

全て『性格が変わった』ためだと両親も姉も口を揃えて言うが、自分自身では全く気にならないし、変える努力をする気も無い。

 

「でもディアナ、貴女も十六歳のお年頃。そろそろ婚約者がいてもいい年頃なのよ。出会いを求めて、ドレスを来て、舞踏会で素敵な出会いを望んでもいいのではないかしら」

「奥様。私は掃除に洗濯、繕い物、厨房仕事、畑仕事にと忙しく、余暇がありましたら機織りをする時間に回したいと思っております。それにこうして働いている方が落ち着くのです」

「また奥様など・・・・。 ああ」

 

ディアナは王城から戻った六歳以降、両親が泣こうが困ろうが、ドレスを着ることを断固として拒むようになった。みんなが一体どうしたのだと困惑する中、掃除を始め、更に厨房に出入りしだした。末娘のがらりと変わった異常行動に、何か悪いものでも食べたのではないかと蒼褪めた両親は医者を呼び、祈祷師を呼び、説得に説得を続けた。 

しかしいくら両親や姉たちが止めても咎めてもディアナは理解しようとはせず、部屋に閉じ込めても窓拭きや掃除をするし、脱走しては庭師と一緒に庭園の手入れや畑仕事、果ては厩舎の掃除まで始めてしまう始末。 

どう説得しても無理だと思った家族は、それならば危険がないように城内だけ、好きな姿で好きだと言う掃除をさせても良いのではないかと言う長女の提案に渋々納得することにした。母親だけは泣きながら絶対に認めたくないと訴えたが、逃げ出して裏山の炭焼き小屋に籠もられたり、万が一厩舎で馬に蹴られたり、ましてや糞塗れになっても困るだろうと説得され渋々皆の意見に従うことにした。ディアナの頑固さは強制出来るものではないと理解し、半ば諦めと共に城内ならと好きにさせることにしたのだ。

今日も母親の嘆きが含まれた溜め息を聞きながら、ディアナは窓拭きを続ける。

 

掃除や洗濯などがしやすいようにと、常に侍女服を着て袖を捲くり、朝は夜明けと共に、夜は遅くまで城内の掃除や調理、繕い物、畑仕事、最近は執事と共に庶務にまで携わった。そんな日々を彼女はもう十年間、殆ど休み無く過ごしていたが、年頃になると寝込むほどに悲痛な母の願いを無碍に出来ず、姉達とともにダンスや貴族淑女としての基本講義を受けることになった。出来るだけドレス姿で過ごしたくないディアナは習得するのが早く、ダンスも女性講師からのお墨付きを頂けるほどの優雅な踊りを見せ、今は新しいステップを教えてもらう以外、講義に参加することは無い。

両親も姉たちも末の妹を心から愛しく思い、しかし手立てがない状態で侍女として働くディアナと十年間過ごしてきたのだ。不憫とは思うが、諦めと慣れというのもある。

彼女が朝から晩まで侍女服で働くことに喜びを感じており、それで楽しいと思うなら、もう好きにしてもいいのではないかと現状にすっかりと慣れつつあった。過去、ディアナに無理やり掃除を止めさせた時の苦しそうな表情を思い出し、姉たちは止める術を放棄したのかも知れない。侍女の仕事などやめさせたいと思うのだが、彼女が楽しそうに過ごしているなら、と。 

どんなことをしていても、どんな状況でも、やはり可愛い娘であり妹なのだ。

 

 

そんなある日、エルドイド国の王宮から書簡が届いた。

王家からの書簡とあって、普段穏やかな生活を営む静かな城伯は一気に遽しくなる。 

リグニス家執事が緊張の面持ちで使者から恭しく書簡を受け取り、領主である父親は、一体何があったのかと書簡を開き、直ぐに妻や娘たち、侍女頭、使用人頭を呼び集め、一人ひとりの顔を見つめたあと、説明を始めた。

 

「我が国の王太子殿下ギルバード・グレイ・エルドイド殿下が当家に、リグニス家に滞在なされることになった。自国を深く知るために以前より殿下は各領地を御視察されていたが、今回はこのアラントル領の番となった。領地内視察、ワイン生産状況の視察、牛や羊などの畜産状況、漁業状況などの御視察をなさり、一週間程滞在の御予定になるそうだ。その間、うちの城に滞在されると書かれてある」

 

領主である父の言葉に悲痛な声で反論したのは妻で、続けて娘カーラも眉を顰めて同意する。

 

「そうは言っても、王子様を御泊めするような貴賓室などありませんのに、一体どうしましょう!」

「侯爵といっても、ご先祖様が昔の戦争時に活躍した、今は名ばかりの侯爵。小さな城下町とワインで生計を立てている、辺境貴族よ?」

「港があるといっても漁船しかない田舎の港ですし、のんびりした土地が広がるばかりの何もない場所。視察なんて半日もあればあっという間に見て回れるでしょうに」

「・・・それでも、だ!」

 

みんなが一斉に問い掛けるが、それを押し切った領主の声色に執務室は静まり返った。

王宮から書簡が届けられたということは、それはもう決定事項であり、王子が来るといったら来る。リグニス家が行なうことは、王子を丁重に迎えることだ。あと三、四日後に王子が到着する予定だとわかり、城内は一気に蜂の巣を突付いたように遽しくなった。

 

リグニス家が統治しているアラントル領地は決して広いとはいえないが、山の斜面を上手く利用したブドウ畑が広がり近隣では評判のワインを生産している。なだらかな牧草地帯には放牧された羊や牛が飼われ美味しいチーズやハムが作られ、小さいながらも港があり漁師が日々漁に精を出し、城下町はそれなりに賑わっていた。ただ王都から離れており、同盟国である隣国との境には大きな川と谷や森があるだけの、比較的のんびりした領地である。そののんびりした領地を統治する領主の城では突如として朝から晩まで引越しでもするかのような逼迫した大掃除が始まっていた。

 

普段から侍女や使用人達が城内を掃除しているとはいえ、一国の王太子殿下が滞在する機会など初めてのことだ。城内を塵ひとつないほどに綺麗に磨き上げるよう、領主は使用人頭、侍女頭に厳命した。城下へも御布令を出し、王子が視察に来る旨を報告する。

城外では跳ね橋から城壁、城門に至るまで梯子を使って徹底的に磨き、城内では玄関マットやランプを新調する。ディアナはその度に困惑して勿体無いと思うのだが、執事と共に蒼白な表情で走り回る父を見ていると何も言うことが出来ず、見ない振りをするしかない。  

 

 

 

 

→ 次へ

 

メニュー