紅王子と侍女姫  4

  

 

「この城では、こんな遅くまで女性が働くのか」

「え・・・・、あっツ!」

 

驚いて声のする方に顔を向けたため、蝋燭を立てる鉄芯に手が触れたのだろう。火を消したばかりの芯は蝋が短かったということもあり、鉄芯はかなりの熱さで思わず声が出てしまった。それでも手に持った籠を落さなかった自分を褒めたいと、冷静に思うくらいには落ち着いていた。厨房では小さな火傷に慣れているから、これくらいでは動じない。それよりも籠を落として中の蝋燭が折れてしまう方が大変だ。 

今驚いたのは突然背後から声を掛けられたことが一番大きい。

そのうえ声を掛けてきた人物に蝋燭を持つ手ごといきなり強く掴まれ、籠が落ちそうになり慌ててしまう。連れられて入った部屋はディアナが設えたギルバード王子の部屋だった。

しかし驚く暇も無くそのまま部屋の奥へと連れて行かれ、着いた先は浴室。

そのまま勢いよくバスタブ横に置かれた水桶に袖ごと手を突っ込まれて、そこでようやくディアナは驚くことが出来るのだが、その頃にはいったい何に驚いていいのか声さえ出ない状態となっていた。

 

誰に腕を掴まれているのかとそっと横を見ると、黒檀のような艶のある黒髪が目に入る。

黒髪の人物は真摯な表情で水桶に突っ込んだディアナの手を押さえ、自分が火傷したかのような辛そうな表情を浮かべていた。

王子のために設えた部屋にいる男性。 

たぶん、きっと、もしかしたら自分の隣に居る人物は王子なのでは無いだろうか。そう思うとディアナはどうしたらいいのか判らなくなり、何度も瞬きを繰り返すしかない。慌てて視線を下に向けると二人の腕が水桶に浸かっているのが目に映る。気付くとその人物の袖までが水に浸っているのがわかった。

 

「で、殿下! お袖が濡れております! どうか、お手を外して下さいませ!」

「駄目だ! しばらく水に漬けてないと後で痛みが増すぞ。・・・・・それに声を掛けて驚かせたのは俺だ。申し訳ない。驚かすつもりじゃなかったのだが」

「いえ、あの、本当に手を・・・・。ああ、お袖が!」

「お前の袖か? 引っ張ってやるから手はまだ水に漬けておけ」

 

押さえ込まれた手から袖が引き上げられ、ディアナはどうしていいのか解からなくなる。王子はドレスシャツの袖を濡らしながら、まだディアナの手を水桶に押し込んでいた。

 

「殿下、もう充分冷やされました。お気になさらないで下さい」

「まだ冷やし続けたほうがいい。・・・・いやに水が冷たいように感じるが?」

 

確かに昼間用意した水桶の水にしては冷たいと感じる。見ると水面に靄のようなものが立ち込め出し、急に痛いほど冷たくなった。驚いた二人は同時に水桶から手を持ち上げる。

何が起きたのか理解できないまま水桶を見ると、小さな硬質の音を立てながらその表面が白くなっていくのが目に映る。まるで冬の川面のようだと思いながらディアナかが表面を突くと、白さは瞬く間に消え、たぷんっと水面が揺れた。

 

「・・・・・。殿下、充分冷えましたので、これで・・・・失礼させて頂きます」

「あ、ああ。・・・・・充分冷えたようでなにより・・・・、だ?」

 

今、目にした不思議な光景は何だったんだろうと軽いパニックになりながら、ディアナは袖を下ろして籠を持ち上げる。過去の様々な経験が頭の中を巡るが答えは見つからず、考えることを放棄した方がいいだろうと考えるに至り、軽く頭を振って籠を持ち直す。部屋から出ようとすると何故か王子がついて来る気配がして、ディアナが戸惑いながら振り向くと目の前に小さな容器が差し出された。

 

「よく効く軟膏だ。手に塗っておけ」

「あ、ありがとう御座います。しかし本当にこれくらいは大丈夫で」

「貰ってくれ。・・・・・本当に」

 

掠れた声が頭上から聞こえ、思わず顔を上げると真摯な表情が自分を見つめていた。急ぎ視線を下げて、侍女の立場で王族の顔をまともに見てしまったと強く目を瞑り低頭する。

 

「では・・・・・ありがたく受け取らせて頂きます」

 

見ないようにしていたのに、一瞬、視線が合ってしまった。 

でも、十年も昔の子供の頃のことだ。

王子も何処の領主の子供かは記憶しているだろうが、名前や外見などは覚えているはずも無いだろう。しかしディアナ自身も覚えていなかった瞳の色が、今明確に思い出され、今まで以上に鼓動が大きく跳ねるのを感じた。何故自分の鼓動が跳ねたのか戸惑ったが、高貴な身分の男性と近距離で視線を合わせたからだろうと思い、そのまま踵を返して足早に階下へと降りていく。 

艶やかな黒髪に、黒い瞳。しかしその黒い瞳の奥に何かが浮かんでいたように見え、ディアナは思わず足が止まりそうなる。確かに子供の頃に会った彼の髪色だったが、あの少年は黒い瞳だったろうか。いや、今見たのと同じ、黒い瞳でいいはずだ。何処も違わないはず。そう思いながらディアナは何故か後ろ髪が引かれるような気持ちになっていた。

不思議な水のことは頭から追い出すことにして。

 

 

 

翌日、朝食を終えると早速王子達一行は領地内の視察に出掛けた。

双子の護衛騎士が強く推薦したため、最初の視察は海が一望出来る場所にある領地内で一番大きなブドウ畑となった。双子騎士が試飲目的で王子に誘いを掛けたのだろうと見送った皆一様に心の中に思い浮かべる。帰りはきっと真っ赤になって帰ってくるだろうと。

 

厨房に入ったディアナはふと昨夜の火傷を思い出した。王子に貰った軟膏が良く効いたのか既に痛みは無く、少し赤さが残るだけとなった指を見て小さく頷く。城で働く一介の侍女にすら、あんなにも優しい王子が王位継承者ならば、この国の行く末は安泰だろうといつの間にか微笑みが浮かんでいた。

 十年も前の王城での出来事を今更もう一度謝ることは出来ないが、その分王子滞在中は褒めて頂けた料理と菓子で寛いで貰えるよう、誠心誠意尽くそうと気持ちを改める。

ディアナが菓子作りの下拵えをしていると、漁師が取れたての大量の魚を王子のためにと運んで来た。料理長がメインを魚に変えようと捌き出したのを見て、ディアナは厨房裏の菜園へ足を運び、料理用にと香草を摘み始める。 

その時ふとラベンダーの香りはきつくなかったかしらと思い出し、ディアナは王子達が出掛けている間に確かめようと部屋に向かうことにした。昨夜は突然だったから香りに気付くことも無く退室したが、部屋で召し上がって頂く菓子の香りと重なるようなら香り袋を回収しなきゃいけないと、そっと扉を開ける。

ベッドメイキングが終わった部屋は天蓋が開けられ、換気のためか窓が少し開かれていた。心地良い風が抜け、部屋に漂うラベンダーの香りは気にならないほどだ。 

ディアナは少し躊躇したがやはり回収しようと枕の下へ手を入れると、青いサッシュで作られた袋と共にベビーピンク色の紐が一緒に姿を見せた。青いサッシュで作られた袋はディアナが用意したポプリだ。ディアナはベッドメイキングを行なった侍女が落とした物かと思ったが、よく見ると紐と思われていたものはリボンだと解かる。それも年季の入った古ぼけたリボン。元はもっと濃い色だったのだろうかと見つめていると、王城の庭園で少年の手の中に握り締められていた珊瑚色のリボンが脳裏に浮かんだ。

 

「ま、さか・・・・・あの時のリボン?」

 

そう思うと薄くなった色合いが、元は濃い珊瑚色だったのだろうと見えてくる。ずいぶんくたびれてはいるが、あれから十年間、王子はそれを持ち続けていたのだろうか。

ディアナは元はリボンであったものをしばらくの間、黙って眺めた。綺麗な光沢も消え、捻れ、かつてリボンだったものは、今はただの紐にしか見えない。

それを一国の王子がずっと持ち歩いていてくれた?

それは何故なのだろうかと戸惑いながら見ていると胸の奥がほんわりと温かく感じるようで、不思議に思える。しばらくの間見つめ続けていたが小さく息を吐き、ディアナは枕の下へその紐とポプリ袋を戻した。枕の下に入れていたのは何か意味があるのかもしれない。ただの侍女が王子の品物を容易に動かす訳にはいかないだろう。ポプリ袋も同じようにしておけば、見られたと気付かれずに済むと考えた。

昨夜と同じような動悸が治まらず、困惑したままディアナは静かに部屋の扉を閉じる。

 

 

 

夕刻、やはりワインの試飲を何度もしたのだろう。

護衛であるべき双子騎士たちは気持ち良さそうに馬車で居眠りをしながらの帰城となった。

出発時には彼らが乗っていた馬に王子と侍従長が騎乗し、呆れた顔で馬車を眺めているから、さすがに出迎えたラウルも言葉を失ってしまう。

平和な領地のアラントルだが、隣国の境にある谷川や森を乗り越え、時折物騒な輩が現れることがある。大抵はそのまま過ぎ去って行くが、中には田舎領地でのんびりした者たちばかりが生活する場だと侮り、一仕事しようと企む輩もいる。

町にいる警吏は、酒場でのトラブル解決や嵐などの災害時に指示を出すのがメインで、漁師を引退した高齢者が担っていた。高齢といえど頑健な身体と気性の荒い者が多く、物騒な余所者が現れたと聞いた町の人々は襲撃者を憐れんでしまうほどだ。警吏から現役で働く漁師仲間やその息子たちへの伝達は早く、その上みんな気性が荒い。さらに農業、酪農業者へ伝達が回るとさらにやっかいになる。集まった者たちは銛や網の他、鍬や鋤、鋸、鎌、斧を持ち寄り、どちらが悪者だか分からないほどだ。

治安維持活動が自主的にされており、時折来る襲撃者撃退がいいストレス解消になっているようで、町の治安はすこぶる良い。王子に就いている護衛騎士が泥酔していようと、この領地では何の心配もない。だが王太子殿下付き護衛騎士としては有るまじきことではないだろうかと、出迎えた皆は視線を落とす。

 

ラウルに呼ばれた使用人が、騎士たちをそれぞれの部屋へ失礼の無いように移動させようと、シーツで運ぼうか、いや、板に乗せるのはどうだとかちょっとした大騒ぎになる。結局、昨夜のように背負って部屋へ運んだ方が早いだろうと、ラウルが体格のいい使用人に指示を出していると、侍従長であるレオンが冷たい笑顔を向けてきた。 

「彼らはそのまま馬車に放置して下さい。目が覚めたら勝手に部屋に戻るでしょう」

 

しかし、はいそうですかと放置する訳にはいかず、泥酔している騎士二人を起こさないよう緊張しながら部屋へと運ぶことにした。王子も侍従長の意見に賛同し、運ばれていく護衛騎士の二人を眇めた視線で見守っていたが、ラウルから部屋に御茶と菓子を用意しますと告げられると途端に嬉しそうな顔で頷き、レオンに馬を厩舎に繋ぐよう伝えて去って行く。

 

 

 

鳥小屋で卵を取りに行っていたディアナが侍従長のレオンに会ったのは、彼が厩舎に馬を繋いでいる時だった。

ディアナに気付くと、瞳を大きく見開いたレオンが栗毛色の少し癖のある髪を掻きあげながら、甘い微笑を浮かべて近寄って来た。突然足早に近付いて来た侍従長に驚き、その場から一歩も動けずにいると、彼はディアナの周りをくるりと回り目を細めて更に微笑んだ。 

 

「鄙にも稀な御美しさですね。今の私は、その花のような美しさに誘われた蜂の気分です。貴女の荷物をお持ち致しますので、どうぞお渡し下さいませ」

「・・・・は? あ、いえ。殿下様付きの侍従長様にそのようなことをさせる訳には参りません。どうぞ城内へ足をお運び下さいませ。私のことなぞ御気になさらずに」

 

妖艶な笑顔で近付いて来た侍従長にディアナは城内へ入って頂けるよう促したが、レオンは笑顔を崩すことなくディアナの手から卵が入った籠を奪うように取り上げてしまう。

   

 

  

 

 

 

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