頑なな賢者の祈り  1

 

 

「た、助けて下さいっ! お願いしますっ、怖がらすに話を聞いて下さいっ!」

 

騎士として幾度も前線に出撃した過去を持つ自分に、怖がらないでと声が掛かると、奇妙な気がした。
自分はかなりの大柄で、見た目同様度胸と体力には自信がある。自分の領地で一人狩りをしている最中だから軽装とはいえ、大弓を背に掛け腰には大刀も佩いている。自分の体躯に合わせたような大きな黒馬トルードは元来ひどく気性が荒く、馴らすのにかなり時間を要した自慢の馬だ。
その馬に騎乗した自分の前、かなり視線を下げなければならない地面近くから、必死に叫ぶ声が聞こえて来た。しかし声も嗄れんばかりに必死に叫んでいるようだが、馬を駆らせていたら間違いなく聞き逃すような声量だろう。

 

「驚かないで、怖がらないで、お願いします! こ、こんな山奥で人なんか滅多に通らないと思っていたので、もう貴方に頼るしかありません。お願いしますっ!」

 

怖がりはしないが、まあ、確かに驚いた。

いや、現在進行形で驚いている最中だ。
なんせ愛馬の足元の草叢から人間の言葉で叫び続けているのは、どう見ても一羽の野ウサギだからだ。薄茶色の野ウサギが前足を上げて、必死に自分に向かって叫び続けている。

―――どうやって人間の言葉を話すのだろう。

―――その声帯はどうなっているのだろうか。


人間は現実から著しく懸け離れたものを見せられると、必要のないどうでもいいことを考え、逃避するのだと初めて理解した。戦場で暇があれば編み物を始めたり、聞いたこともない料理の作り方を説明し始めたり、子供のころの秘密を打ち明けたりする奴らがいたが、そうか奴らはあの時現実逃避をしていたのかと気付く。その時は、そんなことをしている暇があれば武器を磨いて、敵を一人でも多く倒す作戦でも練ればいいものをと思ったが・・・・・そうか、あれが現実逃避なのか。

 

今までの人生、目まぐるしい現実ばかりが圧し掛かり、こんなファンタジーワールドが目の前に展開されるなど想像すらしたことない。もしかしてこれは、初体験の白昼夢というやつなのか?

いやいや、冷静に落ち着いて考えてみよう。きっと自分は狩りを終えて、木の根元で昼寝をして夢でも見ているのだ。そうに決まっている。

それにしても自分がこんな可愛らしいメルヘンな夢を見るとは、この国も本当に平和になったものだ。

これも、今の国王が尽力されている執政が素晴らしいからだろう。

この前の戦場では苦労したが、その苦労の甲斐があったというもの。長く続いた戦争で疲労疲弊したこの国も、緩やかながら平和へと近付いている。穏やかな日々を満喫出来る世の中になり、自分もこうして狩りを楽しむことが出来ている。有り難いことだ。


何時の間にか過去を振り返りながら馬上で目を閉じて感慨に耽っていると、足元から甲高い声が耳に届く。目を瞬き見下ろすと、薄茶色の野ウサギは左足を激しく地面に叩き付けながら、前足を擦り合わせて悲痛な声で叫んでいた。

 

「あのっ! 聞いてますか? 怖くて現実逃避をしたくなるのは解りますが、お願いです。怖がらずに話を聞いて下さい。助けて欲しいのですっ!」

 

ウサギの甲高い声が気になったのか、トルードが首を下げて鼻を近付けた。ウサギは大きく震えながらもその場に留まり、気丈にも素直に身を委ねているようにも見える。

トルードは気性が荒く、世話をするのも俺以外は無理な、とても気位の高い多少面倒な馬だ。ましてや他の馬や家畜が近寄るだけで歯を剥き、それ以上は近寄るなと言わんばかりの態度を取る。それが野ウサギに鼻を寄せるだけではなく、怯え震えるウサギの身体を舐めているのだから驚くしかない。

こうなると余計に現実とは思えなくなってきた。トルードに舐められたウサギがひっくり返り、慌てて起き上がると前足を合わせて再び俺を見上げて来る。
ああ、俺もこんな可愛らしい夢なんか見るんだな。
夢は願望の現われともいうが、俺はこんなことを望んでいるのだろうか。
それにはちょっと首を傾げたくなる。

 

「本当に・・・お願いします。・・・このままじゃ私、狼とかに食べられてしまうかも知れません。お願いです、お願いですっ! このまま死ぬのは絶対に厭ですぅ!」

 

とうとうウサギが泣き声をあげた。ウサギの瞳からぽろぽろと零れ落ちる涙をトルードがフンフンと鼻を鳴らしながら嗅いでいる。そして静かに首を持ち上げると、トルードは漆黒の眼差しを向け、主である俺をじっと見つめて来た。

 

「お願いします・・・・。助けてぇ・・・・」

 

なんだかなー。もしかして俺は何かおかしなものでも食べたのかな。
戦場では時間がある時に、その場にあるモノを口にする時がある。たまに正体不明のキノコや見たことのない果実が出てくることはあるが、大抵のものなら腹を壊すことなく消化出来る自慢の胃袋を持っており、今まで不調に陥ったことはない。

今朝城で食べたものは普通のものばかりだったから、食べ物のせいじゃないだろう。
食べ物のせいでないとなると、やはりどう考えても夢しかない。

これはどうやったら目覚めるのだろう。

この後の展開が読めない焦燥感と、人語を話すウサギの泣き声に溜め息が出る。

困ったものだと頭をボリボリ掻いていると、トルードが小さく嘶いた。どうにかしてやれと促されているような気になり、仕方なく下馬して跪く。目の前には涙を零すウサギがいて、俺は夢が覚めるまでならと、それに付き合うことにした。

 

「あー、ウサギ。話を聞いてやろう。お前は何が言いたいんだ?」

 

ぽろぽろと涙を零しながら顔を上げたウサギは、真っ黒でつぶらな瞳を少し細めて俺を見上げたあと、更にぽろぽろと涙を零し出した。どういうことになっているのか判らないが、しゃっくりあげるウサギは不思議なことに幼い少女のようにも見えてくる。

 

「えっと・・・・狼に喰われるって? お前は捕食される側だろうから、それは当たり前のことであってだな、それが厭なら逃げるしかないだろう。そのための保護色と逃げるための脚を持っているのだから、生きたいと切に願うのであればその脚を駆使して」

 

瞬きを繰り返したウサギは涙を零しながら首を横に振り、鼻を動かしながら俺を見上げる。つぶらな瞳から大きな涙がまたひとつ、ぽろりと零れ、流石に可哀想に思えてきた。

ウサギ肉など珍しくもない。それを食するために今まで何度も狩っていた。それが目の前で泣いているだけで手が出せないのだから、夢とは実に面白いものだ。

 

「何故、首を横に振る? 助けてと言っただろう」 

「狼に食べられるかも知れないのは私の身体です。このウサギの身体ではありません。このウサギが食べられちゃうのも厭ですけど、自分の身体はもっと厭です・・・・。お願いです、助けて下さい・・・・」

 

項垂れたウサギは大粒の涙をぽろぽろと零し始めた。ウサギがこんな風に泣くなんて初めて知った衝撃の事実だ。いや、その前にしゃべることにも衝撃を受けなければならない。
・・・・・ああ、俺は何処で寝ているんだろう。
もしかして今はまだ真夜中で、身体は寝台の上なのかも知れない。
こんな現実味たっぷりで、草叢から立ち上る熱気や、狩りの後の汗ばんだ感触まで感じる夢を見るなんて人生初めてだ。おまけにフルカラーとくる。

考え深げに腕を組んで頷いていると、トルードがいきなり俺の頭に歯を当てた。
まさか草と間違えたのかと思いながら、その痛みに思わず振り返り睨み付けながら首を傾げる。・・・・今のは確かに痛かった。激しく痛かった。
この痛みも夢なのかとウサギを見下ろした時、視界の端にトルードの首が大きく撓るのが見え、ぎょっとする間もなく俺の身体を直撃し思い切り横に吹っ飛ばされてしまう。

地面を盛大に転げ、近くの木に身体を打ちつけ、俺はその痛みに叫んだ。

 

「・・・っ! ト、トルードッ! お前っ、何をするんだよ? 痛いじゃないかっ・・・・痛いじゃないか・・・・。確かに痛かった・・・・って、ことは?」

 

強かに打ち付けた左腕を擦りながら吹っ飛ばされた地面に座り込む。ウサギが驚いたような顔で、馬に吹っ飛ばされた俺と、主を吹っ飛ばした馬を交互に見ている。
夢ではないのか? 夢じゃなきゃ、これは一体何だというのだ?

呆けているとトルードが地面を焦れたように蹴り出した。
俺は意識を取り戻して地面を這い、ウサギに近付いてみる。怯えるように震えるウサギは、それでも逃げることなく真摯な眼差しで俺を見上げてきた。

 

「なんだか解らんが、お前の言うことを聞いてやる。俺はどうすればいい?」

 

ウサギは鼻をひくつかせて左足をぱたつかせた。つぶらな瞳から零れた涙は、今度は歓喜に震えているように見える。

 

動物同士で通じ合うものがあるのか、トルードは自分の首元にいるウサギが右足で首を叩けば右へ、左足で叩けば左へと向きを変え、森の奥へ奥へと進んで行く。自分の領地とはいえ潅木が多い森奥では馬を駆らせることが難しく、ここはトルードとウサギに任せて大人しくしているしかない。

 

自分の領地と言っても、正直、まだ全てを把握し切れていない。
父親と兄が先の戦いで相次いで亡くなったため、騎士団にいた自分が急遽跡を継ぐことになり、気付けば一年が経過していた。最初は膨大な量の執務に追い立てられ、城から遁走する方法を真剣に悩んだものだ。次男として生まれ、早くから城を出て騎士団に入り日々心身を鍛えながら、いつか出会う尊敬に値する主に従事するのだと信じて過ごしていたのに、まさか繰り上げで領主になるとは人生何がどう転ぶか判らない。


地方領主である父と兄までもが参戦した戦いは悲惨なもので、隣国との戦局は季節を跨ぐごとに追い詰められていた。隣国とは長く同盟を組んでおり、武力が拮抗しているため戦争など起こらないとされていたが、何があったのか突然それは起こった。

当初、拮抗すると思われていた武力は、いざ始まると押され気味で日々苦しさが増すばかりとなる。隣国との国境では陰惨な日常が繰り返され、戦局は芳しくない状況が続いた。他同盟国からの応援や騎士団長の盾仲間たちが来るのが遅ければ、死者は更に増えていたことだろう。その中に自分がいなかったと誰が言えるのか。
あの戦いを勝利で納めることが出来たのは奇跡に近いと思う。

王城に居るべき王が前線まで足を運び、剣を振るったと聞いた時は驚いた。

自分がいた騎士団団長と旧知の仲とは聞いていたが、王の剣技は力強く、そして素晴らしく、感動に肌がざわめいたのを思い出す。国を守ろうとする気概に溢れ、雄々しく逞しい気迫。その姿に鼓舞された騎士の働きより、戦いの波は一気に反転したのだ。

結果戦いに勝利し、幾人かの騎士が叙位し、その中の一人に俺も選ばれた。名誉であると同時に父と兄の死を知り、騎士団員から領主へと変わらざるを得なくなる。母は既に亡くなっており姉たちも嫁いでいるため、跡を継ぐのは俺しか残っていなかった。


執事と子供の頃から世話になっていた使用人たちのおかげで、最近どうにか格好がついたようなものだが、まだ慣れぬ執務に時々遁走したくなる気持ちを抑えることが出来ない。
おまけに落ち着きを取り戻した領地に安堵する暇も与えられず、執事が大事な役目だと近隣貴族子女の肖像画をあちこちに飾り出した。婚姻や跡継ぎを考えるのは領主として大事なことだと言われても、まだまだやるべきことは山積みだし、騎士としては自慢の体躯だが貴族としては不調法な性格だと自覚している。騎士団にいた頃だって正直モテた試しはない。

執事が言うようにそれが領主の責務というなら、その内考えなければならないのだろうが、今はとてもじゃないが・・・・・・無理だ。

 

そしてどうにか時間を作り久し振りに狩に出てみれば、白昼夢のようなメルヘンに出会い、俺は呆けたままの状態でウサギと共にトルードの背上にいる。 踏み潰さないよう見失わないようにと馬上に乗せたウサギの首を掴みながら、こんな奥にまでは足を踏み入れたことがないなと見慣れぬ風景を見回した。

 

「まだ先か? このまま進むと他領地に入り面倒なことになる。詳しくは知らないが、この先の領主と俺の父が仲違いしていたようで、出来れば入りたくないのだが」

「このあたりです。地面に白い花がいっぱいあって、その近くにある筈なんです」

 

振り返ったウサギは何度も瞬きをしながら俺にそう答えた。
人間というのは時間の経過と共に、こうして様々な事象に慣れていくのだろうな。
騎士になりたての頃は刀傷にさえ怯えていたというのに、幾つかの戦場を経験するうちに人が死ぬという日常に慣れていく自分を受け入れた。

仲間である騎士が、突然隣から姿を消す。

息することを止め、動かぬ物体として、どこかへと運ばれて行く。
そんな非日常を、いつしか日常として捉えることが当たり前の日々を過ごしていたから、今ウサギが喋ることにも驚かないのだろうか。おまけにウサギに普通に話し掛け、その返答に頷いたりしている。

ふと、さっきトルードに首で飛ばされた時のことを思い出し、そんな事をされるのは初めてだと今更ながらに気付く。もともと野生馬のトルードを調教するのは時間も掛かり怪我を負う毎日だったが、首でいなされ弾き飛ばされたのは初めてだ。

馬にいなされ、そしてそれに従う自分を思い返すと親に叱られた感が甦り、妙な気持になる。子供の頃は出来の良い兄と事あるごとに比べられ、癇癪を起して叱られ、それでも愛されていると感じていた。だからこそ今、心底厭な執務でも逃げ出さずに行い、領地を守ろうと頑張ることが出来るのだ。

  

 

 

 

 

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