紅王子と侍女姫  103

 

  

王女配下だった魔法導師の家族の数人が、無事に意識を取り戻したと報告が来た。数日は経過を見るが、解毒剤が効いたことに誰よりも安堵したのはギルバードだった。

すぐにディアナに飲ませたい焦燥感を堪え、次の報告を待ち続けた。 

「これで本日の政務は終わりました。殿下はこのまま瑠璃宮に向かわれますか?」 

「ああ、今日分の栄養剤を飲ませに行く。何か急ぎの用事があれば呼んでくれ」 

書類をまとめるレオンが目を細めて、大丈夫だと笑う。

急ぎの政務や特別な用事がない限り、このあとギルバードは朝までディアナのそばで過ごす。カリーナが栄養剤を手に現れ、眠っているディアナを見て辛そうな表情を見せた。

 

「殿下、ようやく解毒剤を飲ませる予定が明日となりました。ディアナ嬢がお飲みになった後、目覚めるまでは私がそばで見守り続けます。あとでディアナ嬢の着替えを東宮に取りに行きますね」 

「ようやく許可が下りて嬉しいよ。早く飲ませて、目覚めたディアナと会いたい」 

「ローヴよりお聞きになっておりましょうが、すぐに効果が現れる訳ではありません。先に解毒剤を飲んだ者の内、半数は丸二日間ぼんやりしておりました。家族の顔も自分の現状も分からず、三日を経過してようやく思い出していました。ディアナ嬢も同じようにしばらくは殿下のお顔を思い出せずにいるでしょう。ですから記憶の混乱を避けるため、三日間は私だけが部屋に立ち入り、穏やかに過ごして頂きたいと思っております」

「そ、そうか。・・・ああ、わかった」

 

三日でも三か月でも待つと言うと、カリーナは柔らかな笑みを浮かべた。

やっと解毒剤を飲ませることが出来ると、ギルバードは安堵の息を吐く。同じように安堵の息を吐いているのは双子騎士だろう。警護対象が目の前で攫われてしまったことに、エディはかなり憔悴していた。普段の陽気な笑みは消え、黙したまま淡々と鍛錬するエディに、オウエンも黙って付き合っている。

王の生誕祝いの舞踏会は規模を縮小して催されたが、ギルバードが欠席したことで多くの列席者は当てが外れたような表情だったと聞く。王太子妃が決定したと聞けば貴族たちは落胆し、王族と繋がりを持つことで一族の欲を満たす願いが打ち砕かれたと臍を噛むだろう。恨みがましい視線を送られるかも知れないが、そんなの知ったことか。好きな相手と添うことに何の問題がある。

 

「だけど、これで・・・」 

眠りから覚めたディアナはぼんやりした頭を押さえ、だけど時間の経過とともに以前のように柔らかで優しい笑みを見せてくれるはずだ。しっかり食事を取ってもらい、ゆっくり体力を取り戻してもらおう。それから改めてアラントル領に行き、共に結婚の承諾を得よう。何度も何度もディアナに愛を誓おう。すぐに会うことが出来ないのは想定外だが、時間の経過とともに、必ず会えるのだ。

ふと手を見ると汗が滲んでいた。無意識に服で汗を拭うが、今はディアナを抱き締めることが出来ないことを思い出して苦笑する。あと数日・・・三日間の我慢でディアナが戻る。この手に擁くことが出来る。

 

 

翌日、眠ったままのディアナに解毒剤が飲まされた。

飲ませたのはギルバードだが、先の説明通りに彼女が目覚めるのを確かめることも出来ずに部屋から出されてしまう。目が覚めて戸惑うだろうディアナにはカリーとローヴが分かり易く説明する予定だ。先に解毒剤を飲んだ者たちのように、ディアナも数日はぼんやりと過ごすことになるだろう。ディアナの精神安定を慮るためにカリーナが付き添うのは賛成だ。だが、目覚めに立ち会えないことが口惜しい。

あの瞼が開き、美しい碧の瞳がギルバードを真っ直ぐに見つめてくれるのが待ち遠しい。

しばらくは廊下で佇み、知らず扉に耳を宛がっているのをローヴに見つかった。様子は後で必ず伝えるからと言われ、ギルバードは渋々ながらも執務室に戻ることになる。

 

「飲んだ量と期間が問題ですが、すぐに目覚めるとローヴ殿もおっしゃっていたのでしょう?」

「・・・ああ」

「たった数日待つだけですよ、殿下。目が覚めたら知らぬ間に瑠璃宮に移動していて、毒を飲まされたと知ればディアナ嬢はひどく驚くでしょうが、説明を受けたら、いずれ全て思い出されますよ」

「・・・ああ」

「多少の障害など問題ない。二人の間には、揺るぎない愛があるのでしょう?」 

「・・・ああ」 

「目覚めたらすぐに報告が来ますし、健康面に心配はないと言われているのでしょう?」 

「・・・ああ」 

「元気になったディアナ嬢とアラントルに行って、婚姻の許可を頂くのでしょう? 結婚式はすぐに行うのですか? 寒くなる時期ですので、春まで待ちますか? ともかく招待客リストを作り、すぐに招待状を出せるようにしなくてはいけませんね。同時進行で式服の採寸や、披露宴準備、料理リストやワインリスト作成もあり、ものすごく忙しくなりますからね!」 

「・・・ああ」 

「・・・殿下、その態度、いい加減にして下さい! ものすごっく鬱陶しいです。そこで腐った芋の如く転がっているだけなら、ディアナ嬢のために花でも摘んで来たらどうですかっ! ほら、さっさと!」

 

ギルバードはひくひくと眉を吊り上げたレオンに尻を蹴り出され、意気消沈したまま庭園に向かうことになった。庭師の爺にも「そんな顔で来られては迷惑だ」と呆れられるほどで、それでもディアナのために花を摘み、部屋に飾ってもらうよう、ローヴを呼び出して渡した。 

 

「ディアナは目覚めたか?」 

「解毒剤を飲ませて、香を消したばかりです。殿下のお気持ちはわかりますが、ちゃんと報告すると伝えましたでしょう。そして目覚めても直ぐにはお会い出来ないと御承知ですよね」

「あ、ああ・・・」

「目覚めたばかりのぼんやりしているところなど、普通の淑女は見られたくないものです。ディアナ嬢が知れば、羞恥で殿下に顔を見せたくないとお隠れになるかも知れませんよ? 何度も申し上げておりますように今は政務を片付け、時間を取れるよう調整しながらお待ち下さい」

堪え性がないと揶揄され、ギルバードはすごすごと執務室に戻ることになる。

戻ったところで身の置き所はなく、室内を意味もなく徘徊するギルバードを胡乱な目で眺めたレオンが、「まるで出産が終わるのを待っている夫のようですね」と呟き、「その日はいつになるやら」と笑った。

 

 

解毒剤を飲ませてから三日が経過したが、いつまで待っても面会許可が出ないことに焦れたギルバードがローブに詰め寄ると、私室に招かれソファを勧められた。

ギルバードは渋々部屋に入るも、座っている場合じゃないと急き立てる。

しかし悠然とソファに座るローヴはギルバードを見上げて口を開いた。

「先に御報告申し上げます。ディアナ譲は解毒剤をお飲みになった翌日、無事に目覚められました。今は食事も湯浴みも済み、心身の疲労回復のためにお休み頂いております」

「そうか! 翌日に目が覚めたのか。良かった・・・」

翌日に目が覚めたのは、眠り香の作用もあったのだろう。しかし、まだ目が覚めて二日しか経過していないから、ギルバードには会わせられないと言われないかと動悸がしてくる。ローヴを強く凝視していると僅かに目を眇めてから視線を外された。

ソファに深く腰掛けたローヴが視線を外したまま口を開く。

 

「殿下・・・、ディアナ嬢が飲まされたものは、魔法導師の家族に飲ませたものを改良した、幻覚作用の強いものでした。殿下が化け物に見えて恐怖に怯え慄き、王城に戻ってからも幻覚に悩まされ憔悴されておられたのはご存知ですよね。残念ながら・・・ディアナ嬢の精神が元のように回復するには、もう少し時間が掛かると思われます」 

「魔法導師の家族が飲んだものを改良した・・・。それは毒性が強いということだな。だが解毒剤を飲んだし、目は覚めた。元のディアナに戻るのに時間が掛かっても、俺は待てるぞ」 

「・・・・・」 

困ったように笑うローヴが眉を寄せる。何が言いたいのかわからず、ギルバードは言い添えた。

「元に戻るまで俺に会うなと言うのか? もう幻覚は見えないはずだろう? だが俺に会って、また化け物が見える可能性があると言うのなら、ローヴが許可するまで会うのを我慢する。すぐに解毒剤を手に入れることが出来なかった俺に原因があるからな。・・・本当は嫌だが、覚悟は出来ているつもりだ」 

「覚悟が出来ていると伺い、安堵致しました」

 

ローヴは眉を寄せたまま、言質は取ったとばかりにギルバードを見上げた。

目が合った瞬間、ギルバードの背に厭な予感が奔り、鼓動が大きく跳ねる。やはり覚悟が必要な何かがあるのだろうか。

そう思うだけで一気に咽喉が干上がったが、顔を歪ませたギルバードに対してローヴが柔らかく笑んだ。 

「ああ殿下、覚悟といっても悲愴なものではありませんよ」 

「では、何を・・・」 

ソファに凭れたローヴが、ギルバードにふたたび着席を求めた。首を横に振って先を促すと、ローヴの視線が床に落ちる。

「実はディアナ嬢の記憶が・・・一部分、消えております」 

「ディアナの記憶が? 一部分?」 

 

困った顔のローヴに、ギルバードはすごく困った顔を返す。

記憶がなくなってもディアナはディアナだ。彼女の命に別状がなければ問題などない。

――――そう、すぐに言い切ることが出来ない。ギルバードが窺うように顔を上げると、ローヴは大きく頷き、そして長く息を吐いた。 

 

「ご自身の名前や年齢、アラントル領での生活は覚えております。侍女として自分が生まれ育った城で働いていたことも覚えております。ご家族様の顔や名前も覚えております。ですが、問題はその先です」

ギルバードは唇を噛み締めて、ローヴの言葉を待った。

膝頭を掴んでいたはずの指先の感覚が消え、自分の身体が浮いているような、どこかに落ちていくような感覚に陥る。ディアナが侍女として生活していた日常の、その先の記憶に問題があると聞き、思い当たるのはひとつしかなかった。魔法を解くために王城に連れて行くことになった、ギルバードとの出会いが消えているというのか。 

彷徨う視線の先に、三日前に自分が摘んだ花が映る。

 

「・・・アラントルに俺が行ったことを、王城に来てからのことを・・・魔法にかけられていたことも、それを解いたことも、ディアナの記憶から消えたと、そう言うのか?」 

「はい、そうです」 

ローヴの即答に息が止まる。倒れ込むようにソファに深く沈み、ギルバードは目を瞑った。そんな馬鹿なと口中で呟き、あとは何も考えられなくなる。 

解毒剤を飲めば元に戻ると、自分に微笑むディアナに再び会えると思っていた。

何度も傷付けて申し訳ないと謝罪するつもりでいた。

そしてその謝罪を受け入れてもらい、アラントルに二人で向かい、領主にディアナとの結婚を承諾を得て王城で盛大な式を挙げるつもりだった。そうなると思っていた。そうなるはずだった。

ディアナが受けたあらゆる恐怖も解毒剤で消え去り、元のように微笑んでくれると―――――。 

どうしてこうなるのだ、と誰に問えばいいのだろう。

 

「記憶の欠如は一過性のものか、完全に消失してしまったのか、今のところ判断が出来ません。ディアナ嬢はどうして自分が王城にいるのか、どうして季節が移ろいでいるのかなどに戸惑われております」

それはそうだろう。半年近くの記憶が飛んでいるのだ。ギルバードが二週間近くアラントルに滞在したことも、魔法について説明したこともすべて忘れているのだから。

「ですので、あとは殿下の判断に委ねたいと思います」

「俺の・・・判断?」

 

思考がぐちゃぐちゃに乱れ、ローヴの言っていることが上手く理解出来ない。 

アラントルの城で魔法の存在を説明したこと、宿でディアナを抱き上げたこと、感情の暴走で思いかけず魔法を重ねてかけてしまったこと、庭園で泣きながら謝罪したディアナに思わずキスしてしまったこと。ディアナを愛しく思い、ディアナが本当に信じてくれるまで何度も繰り返し愛を説いたこと。

そして互いに気持ちを認め、共に同じ未来を歩もうと誓ったこと。 

それらを全て、忘れてしまったと・・・そう、言うのか。

そして、あとの判断を任せると言う。いったい何の判断だ。

失った記憶が一過性のものか、完全に消失したか、それをギルバードに見極めろというのか? 

もしもディアナの記憶が戻らないとしたら?

・・・・今まで何度もディアナを危ない目に遭わせ、身体にも心に酷い傷を負わせてきた。

魔法が解けた今、彼女を開放すべきだと言うのだろうか。いやだ、そんなこと望みたくない。考えるだけで感情が昂り、見えるもの全てを破壊したい衝動に襲われる。

 

「殿下の望みは何で御座いましょう」

「俺の・・・俺の望みなどわかっているだろう! 俺はディアナの笑顔が見たいだけだ。そばで、彼女の一番そばで、これからもずっと見続けたいだけだ。その笑顔を、俺が与えたい。一生、ずっと、俺の妻として微笑んでもらいたい! ・・・それ以外の望みなど、今は・・・考えられない」 

掴んでいた膝の生地が今にも破れそうだと思いながら、同時に記憶を失ったディアナをどうやって幸せに出来るかを必死に考えた。溢れ出しそうな感情を抑えるのにも限界があり、ローヴは何が言いたいのか、はっきり伝えてくれと訴える。

ローヴは一度目を閉じ、ゆっくりと開いた。

 

「目を覚まされたディアナ嬢は先ほど申し上げたように酷く驚かれていましたが、カリーナからの説明を全てを受け入れて下さいました。侍女として過ごしていたのは魔法にかかっていたためであり、それを解くために王城に来たこと。時間は要したが魔法は無事に解けたこと。すぐにアラントルに戻らなかったのは王主催の舞踏会に招かれたためで、そしてギルバード殿下の妃推挙問題に巻き込まれて毒を飲まされてしまった。急ぎ解毒剤を手に入れたが、残念ながら記憶欠損が生じてしまった。この説明をディアナ嬢は戸惑いながらも納得して下さいました」

「え? ・・・な、納得したのか? 目が覚めたばかりで?」

 

ギルバードが顔を上げると、ローヴは肩を揺らして笑っていた。疑うことを知らない生まれたての子供のようで、説明していたカリーナが逆に心配していたと話す。

「記憶がない今、初めて会った人物からの説明を丸ごと信じるなど有り得ない。あんなに無垢では直ぐに騙されてしまうだろうと、カリーナは憤っていましたよ。アラントル領には善人しかいないのだろうか、だから殿下に口説かれて絆されてしまったのだろうか、とね」

「う・・・。カリーナが心配するのも、少しわかる気がする」 

思わず同意してしまったが、自分はディアナを騙した覚えはないと眉を寄せる。

いつの間にか緊張が解れていることに気付き、ギルバードは詰めていた息を吐いた。

「まあ、ディアナ嬢の目の前で皿を浮かせたり、袖から茶器を取り出したので、魔法の存在は信じ易かったのでしょう。ですが余りにも簡単に信じて下さるので、それ以上の説明をどう続けようか悩んでしまいました。そこで殿下の判断を伺おうと思った次第で御座います」

「そこで俺の判断を? ・・・そうか、わかったぞ! 俺が結婚を申し込んだこと、それをディアナが受け入れてくれたことを話せば、すぐに彼女は信じてくれると言うことか! よし、会ってくる」

 

これで万事解決したと立ち上がると、なぜかローヴが杖でギルバードの腹を勢いよく突き、ソファに押し込んだ。何をするんだと目を剥くと、ローヴが額を押さえて「情けない・・・」と愚痴めいた呟きを落とされる。

ローヴの呟きにレオンに通じるものを感じたギルバードは、何が情けないのか考えてみた。ディアナと結婚する予定であることを伝えようとするのは駄目なのだろうか。嘘を言うつもりはないし、もちろん騙すつもりもない。本当のことを伝え、戸惑いの中にいるディアナを幸せにしたいと願っているだけだ。憮然としながら顔を上げると、胡乱な視線が突き刺さる。

 

「どうして国王陛下も殿下も、こう猪突猛進なのでしょうねぇ。それで上手くいく場合もありますが、今回に限ってはお止め下さい。いいですか、殿下。まずは私の話を腰を据えてお聞き下さい。それから先のことを殿下に判断して頂きたいのです。御理解頂けましたか?」

「・・・わかった・・・」

ローヴの話はディアナに関することだろう。それならば聞くに決まっている。

早く会いたいが、待てと言われて待てるだけの自制心はあるつもりだ。

だがローヴの下がった眉尻を見ていると、落ち着いたはずの動悸がしてきて、手に汗が滲んでくる。どうか悪い話ではないようにと、そっと祈りながら、ギルバードはソファに座り直した。

 

 

 

 

 

 

→ 次へ

 

← 前へ

 

メニュー