紅王子と侍女姫  111

 

 

レオンの台詞に何も言い返せず意気消沈して歩いていたギルバードだが、裏門近くから聞こえてきた声を耳にして、一気に歩みが早まる。業者が出入りする裏門の近くには厩舎や鳥小屋があり、見たことのある風景にレオンが侍女を拐かそうとしていた場所だと思い出す。

あの時は侍女がディアナだと知らず、夜中まで働く勤勉な者だとしか思わなかった。だが追い掛けてまでレオンの無礼を詫びようとしたのは、やはり彼女が自分と繋がっていたからだろう。 

魔法が解けた今、繋がりは運命という言葉に変わる。

魔法が解けても彼女の性格は一向に変わらず、控えめで、それでいて王太子の求愛を素気無く断り続ける頑固さがディアナにはある。一度は求愛を受け入れ、だけどやはり自分では無理だと夢に逃げ込むほどの強情さがある一方で情には脆く、過去何度も嘲弄の対象とされていたギルバードの黒髪黒瞳を綺麗だと褒め称えてくれた。

それも真剣に、その時だけは驚くほど真っ直ぐに見つめてくる。

魔法で変わる紅瞳も宝石のようだと目を細め、感嘆の溜め息を漏らすほどだ。 

ディアナはいつもギルバードを嬉しくさせる。

気付けば抱き締めたりキスをしていて、慌てて退くとディアナから触れてくることさえある。ギルバードに触られるのは嫌ではないと、頬を染め、瞳を潤ませながら言ってくれることもあった。 

ディアナは、一体どれだけ俺を溺れさせたら気が済むのだろう。 

淡いプラチナブロンドは月のような輝きを放ち、細く白い手から生み出される料理はどれも皆美味いし、菓子は絶品だし、心優しいし、誰よりも綺麗で可愛い。男性とダンスを踊ったのは俺が初めてだと言ってくれた。正式な場でのダンスは王に取られたが、ディアナがそう言ってくれたから良しとしよう。

東宮侍女たちもディアナを歓迎していたと聞いた。いつも部屋を綺麗に整え、食事を運ぶたびに丁寧にお礼を言う貴族息女など見たことがないと話し、礼の品に感激したと侍女長が報告していた。

庭師、騎士団員も同じだ。もっとも熱狂的なのは瑠璃宮の魔法導師たちで、少しでもディアナを諦める素振りなど見せようものなら、どれだけ責められることになるだろう。 

もちろん、ギルバードに諦める気など毛頭ない。 

 

しかし――――、現状はどうだ。 

結婚など、まだ自分には早い。会うのは面倒だ。そう思い、国内外から持ち込まれる妃推挙を断ることもせずに、ただ放置していた。

ディアナに会い、恋に落ちてから、それらは面倒事に変わる。

ディアナから待ったをかけられ、正式な返答を受け取るまでは一日千秋の思いで待ち続けた。国内貴族から持ち込まれる妃推挙は断る段取りが着いたが、国外は難しかった。公布もお披露目も出来ない状態では理由なく断ることが難しく、ディアナから正式な返事をもらうまで焦れ続けた。

その後ディアナから快い返答をもらい、舞い上がっていたといえばそれまでで、ディアナの両親の心情まで思いやることが出来ずに悩ませ、挙句ディアナは故郷であるアラントルで攫われてしまった。

愛しい者を何度攫われ、悲しませるのだと自分を罵倒した。・・・自分は後悔するばかりで進歩がない。

 

 

「や、やぁ、ディアナ」 

「まあ、殿下。・・・今日は、どうなされたのですか?」 

碧の瞳を大きく見開いたディアナは、驚いた顔のままドレスの裾を持ち、腰を落とした。傍にいた侍女が会釈して消えるのを目にしながら、ギルバードの胸は痛みを覚える。

わかっている。数日前に送り届けてくれたはずの王子がまた姿を見せたのだ。何かあったのかと尋ねるのは普通のことだろう。それでも胸は痛み、笑みは強張り、続く言葉が咽喉奥に貼りつく。 

「じゃあ、明日は小麦とチーズ、それとワインを持って来るよ」 

「重いでしょうが、よろしくお願い致します」 

「はいよ。・・・じゃあ、また」 

業者らしき人物がディアナに頭を下げながら、ギルバードをチラチラ窺うように見てくる。突然現れた、見慣れない人物は誰だ? 殿下と言っていたが、まさか我が国の王子なのか? 

顔見知りらしい業者の男が、二人きりにして大丈夫だろうかと、そんな視線を投じつつ去って行く。 

 

「お待たせ致しました。・・・あの、父に御用でしょうか」 

「い、いや。その後、ディアナの調子はどうだろうと、気になって・・・」 

ギルバードの言葉に、ディアナは目を丸くし、そして深く御辞儀する。 

「殿下のお心遣い、大変うれしく思います。記憶は戻っておりませんが体調に問題はなく、毎日元気に過ごしております」 

ディアナのつむじを見つめながら、ギルバードは「そうか」と呟いた。

この先に続ける会話が見つからず、頭の引き出しを片っ端から開くが、そう都合よく見つかる訳もない。視線をずらすと大きな瓶が目に入る。 

「これは牛乳か? 厨房まで運ぶのか?」 

持ち上げると結構な重さがあり、まさかディアナが運ぶつもりだったのだろうかと目を瞠った。

果物が入った箱を持ち上げようとしたディアナから「重いです」の声が上がり、同時に厨房から見覚えのある料理長と侍女長が走ってきた。 

「こ、これは殿下! 申し訳御座いませんっ」 

「殿下、ディアナ様、それらは私どもが受け取ります。あの、えっと・・・そうっ! 鳥小屋を閉めたかどうか、見て来て下さいますか?」 

二人はギルバードとディアナから荷物を奪うように取り、新たな用事を言い付けて立ち去ってしまった。余りにもあからさまな態度にギルバードも言葉を失い、そろりとディアナを見る。やはりディアナも呆然として二人が消えた厨房裏口を見ていた。

頭上では鳥が高い声で鳴き、初冬にしては温かな日差しが緩くまとめられたディアナの髪を撫でる。

  

「・・・あー、鳥小屋はどこにある? 何を飼っているんだ?」 

「え? あ、はい、鳥小屋は厩舎の向こう側にあります。ニワトリとガチョウがおりまして、その隣にはウサギ小屋があります」 

「ウサギもいるのか。で、そこの扉が閉まっているかを確かめるんだな」 

戸惑うディアナを促すと、慌てたように先を歩き出した。 

・・・・・口説くとは、一体どうすればいいのだろう。

どんな風に語れば、ディアナは振り向き、笑ってくれるのだろうか。女性に関するギルバードの知識は皆無と言っていいほどで、ここ数日悩み続けたが良案はまったく浮かばなかった。関連する書物を紐解こうにも、どの本を見ていいのか解からず、レオン以外に訊く当てもない。

今までも周囲から何度も叱咤され、許可もなくディアナを抱き締めないよう自制するが、手が勝手に動くのだから仕方がない。ディアナが厭わないと知ると更に増長し、夢の中とはいえ首周りに多数の吸い痕を残したことさえある。あの時は流石に、吸い痕の多さに自分の執着度合いを知り羞恥を覚えた。

今のディアナには行動で示すより、心に響くような言葉が必要だ。ギルバードに興味を持ってもらえるよう、好きなってもらえるよう、関心を惹くような話題を語るべきだ。

だけど、それが少しも見つからなギルバードは、結局は黙ったままディアナの後に従った。

 

「殿下に御案内するような場所ではありませんが、鳥とウサギ小屋の奥に畑があり、その奥から海が見えます。アラントル領は傾斜地が多いので、少し坂を上がると殆どの場所から海が見えますが、私はそこから見る海がとても好きなのです」 

「・・・そこを案内してくれるか?」

 

ディアナの柔らかな笑みと頷きに、ギルバードは目が潤むのを感じた。言葉が足りない自分に気遣ってくれるディアナの気持ちが嬉しい。記憶がなくても、ディアナはディアナのままだ。

視線はすぐに逸らされてしまうが、出会った頃の彼女に比べたるとまるで違う。緊張しているのは同じだろうが、根本的に何かが違うと感じる。 

鳥小屋の施錠を確かめた後、案内された場所でしばらく海を眺め、ふとディアナの服装に目が留まった。 

今の彼女はお仕着せの侍女服ではなく、デイドレスに白い前掛け姿。騎士団宿舎の食堂でも同じ姿で料理を作っていたのだろう。ギルバードもディアナ手作りの菓子は食べたが、その場で作りたての料理を食べた騎士たちが憎らしい。

 

「あー・・・・、ディアナの体調に問題がないなら、良ければ、時間があれば、都合が良ければ、その、昼食に何か作ってもらえるだろう・・・か」 

ギルバードは海を眺めながら呟くように話し掛け、ディアナの返答を待つ。昼前に来た自分を秘かに褒めながら、急にこんなことを言われては迷惑だろうかと逼る咽喉に無理やり唾を通す。しかし、もう口から出てしまった。口説く前に何か作って欲しいと訴える即物的な自分に嗤ってしまう。

 

「簡単な物しかお出し出来ませんが、それでも宜しければ」 

「っ、いいのか? ディアナが作った物なら、何でも!」 

「・・・昼は、料理長が作ります」 

「そ、・・・・・・・・そうか」 

思わずがっくりと項垂れてしまった。隣りに立つディアナが驚き息を飲む音が聞こえてくるが、憔悴したギルバードは立ち直ることが出来ない。 

「あ、あの、それでは何か、・・・菓子でも焼きましょうか?」 

聞こえた台詞の内容に勢いよくディアナに振り返ると、びっくりしたように後退ろうとするから反射的に手を掴んでしまった。大きく見開いた碧の瞳と、ほんのりと染まる頬。柔らかに輝くプラチナブロンドのディアナを前に、ギルバードは胸を弾ませる。 

「本当か! ほ、本当にディアナが、菓子を焼いてくれる? 出来立てを、俺のために?」 

目を瞠ったままのディアナが頷くのを目にして、嬉しさのあまり掴んだ腕を引き寄せて抱き締めていた。久し振りにディアナが作ってくれる菓子が食べられる。それもギルバードのために焼いてくれるというのだ。目の前のつむじにキスを落とすと、腕の中から悲鳴が聞こえてきた。なんて可愛い声だろう。腕の中にすっぽり収まる身体も愛おしい。 

 

「俺はすごい嬉しいぞ! 楽しみだ、ディアナ!」 

「あのっ、あの、あのっ、殿下っ」 

「何を作る? 何か手伝えることはないか?」

「だ、大丈夫です。そ、それよりも、あ・・・きゃあっ」 

嬉しくて嬉しくて、その想いのままギルバードはディアナを抱き上げていた。どこからか叫び声が聞こえていたが、ギルバードの耳には入ってこない。ディアナを地に降ろすと、両肩をがっしりと掴んだ。 

「では、すぐに戻ろう!」 

「・・・は、はいぃ・・・」 

真っ赤な顔のディアナを見て、そこでやっと気が付いた。また許可もなく抱き締め、さらには抱き上げていたと。慌てて謝罪するが、ディアナは黙って頷くだけだ。自制が出来ない自分が愚かしく、同時に自制出来ないほど嬉しかったから仕方がないと、ギルバードは口端を持ち上げる。 

羞恥に顔を赤らめながら、無意識にディアナの手を掴んで城に戻るギルバードの背を、必死に息を整えながらディアナがじっと見つめていることには気付かずに。

 

** 

  

「や、やあ、ディアナ!」 

「・・・・御機嫌よう、ギルバード殿下」 

早馬でも往復三日、四日は掛かる道程だというのに、王子は今日もやってきた。 

アラントル領地に送り届けてくれてから、王子は週に一度は顔を見せる。そんなにも王城を離れてばかりで大丈夫なのだろうかと心配になり一度尋ねてみたが、「やることは、しっかりやっている」と満面の笑みが返ってきた。直後に「気遣ってくれて嬉しい」と笑んだ顔で手を握られ、ディアナはそれ以上は問えなくなった。 

「今日の昼は私が仕込んだ肉料理です。あとはクーヘンを作りました」 

「そうか! 楽しみだ」 

山の斜面にいるディアナから籠を取ると、王子は優雅な仕草で手を差し出してくる。おずおずと手を重ねると強く握られ、足元に気を付けろと気遣われた。

多少は慣れたつもりだが、身分尊き王子と手を繋ぐのは、やはり緊張する。握られた手を離すことも出来ず、ゆっくりした歩調で城に戻る間、ディアナは胸の高鳴りに困惑したまま歩き続けた。

 

「殿下、ディアナ嬢、お帰りなさいませ。・・・キノコ、ですか?」 

「レオン様、御機嫌よう。はい、付け合わせにと思いまして」 

やはり今日も侍従長のレオンが一緒だ。本当に王城での政務は滞っていないのだろうかと心配になる。

眉を寄せたディアナに気付いたのか、レオンは大仰に顔を顰め、ゆったりと近付いて来た。 

「ディアナ嬢、殿下はあなたの仕事の邪魔をしませんでしたか? もし殿下がディアナ嬢に少しでも不埒な真似をした時は、すぐ教えて下さいませ。私自らが殿下を庭か畑の隅にでも埋めましょう。もちろん、這い出て来ないよう、杭もばっちり打ち込みます。ひと月も経過したら立派な肥料になりますよ」  

ディアナが目を丸くすると、レオンは肩を揺らして笑い出す。笑っていいような内容ではなかったが、王都貴族ならではの冗談なのかしらと追従して口端を持ち上げようとした。その直後、レオンの背後に立っていた王子が腕を持ち上げるのが見えて目を瞠る。 

「痛・・・っ! ディアナ嬢、見ましたか? このように粗暴な男より、紳士的な私とのお付き合いを、どうかお考え頂けませんか?」 

「御許し下さい」 

「はっは! レオン、ばっさりと斬られたな」 

楽し気に掛け合う王子とその侍従長の横で、昼食の用意が整えられていく。

ここ一か月間、週に一度は同じような光景が繰り返されるので皆すっかり慣れたのだろう、目を合わせることなく黙々と働き続けている。

王子はいつも侍従長のレオンと共に昼前に来て、昼食と菓子を食べ、夕方の鐘が鳴る前に御帰りになる。畑や裏山にいるディアナの許に足を運び、ぎこちない挨拶の後は戸惑うほど積極的に話し掛けてくる。さりげなく差し出される手に、自分の手を重ねることにも多少慣れてしまった。

慣れていいのだろうかと悩む時もあるが、王子の笑顔を見ると悩んでいたことさえ忘れてしまう。

 

 

「や、やあ、ディアナ。・・・体調に変わりはないか?」 

毎回、王子は来るたびにぎこちなく挨拶をし、そして、同じことを問う

ディアナが「はい」と答えると、これもいつものように柔らかな笑みが返ってくる。そして僅かに眉を寄せた王子から何かもの言いたげな視線を感じるが、尋ねることはしない。 

――――記憶は戻ったか。何か思い出したか。 

その無言の問いに、応えることは出来ないから。

王子がアラントルに来た日の夜や翌日、実は幾度も気を失っていると伝えたら、王子はきっと顔を顰めるだろう。気を失う前に白昼夢のような映像が頭を過ぎるが、目を覚ますと夢の内容は忘れている。目覚めると泣いていることもあり、姉がとても驚いていた。目が覚める寸前、あと少し・・・そう思ったこともあり、その先を知りたいと思う自分に戸惑った。 

以前は思い出したくない、もし思い出しても黙っていようと考えていたが、頻繁に足を運ばれる王子の無言の問いに、『思い出せたらいいのに』と考えるようになってきた。だけど未だ鍵は見つからず、扉を開ける術は見つからないままだ。

頻繁に足を運び気遣ってくれる王子の気持ちに添えないようで、ディアナは申し訳ない気分になる。

 

「あの、日に日に寒くなっておりますし、御政務もありましょう。春になるまで、お越しになるのはお止めになった方が宜しいかと・・・。お風邪を召したら大変です」 

王子たちはいつも騎馬で来られるのか、馬車の姿はない。途中で宿に泊まるとしても、時季を考えると昼間でも騎馬では体を冷やし、体調を崩す可能性もある。 

「ディアナからの心配は嬉しい。だけど俺はディアナに会えない方が辛いんだ。ここでディアナと一緒に食事して、ディアナ手作りの菓子を食べることが、俺の一番の楽しみだから」 

「・・・ありがとう御座います」 

それ以上言い留めることは難しく、風邪をひかないように願うしかない。 

 

 

「ディアナ・・・、殿下はお帰りになったのか」 

「はい。ですが、また来るとおっしゃっておりました」 

洗濯物を畳んでいたディアナは、領主である父親の問いに項垂れた。 

王子は帰り際にディアナの手を掴みながら、「また来週来るからな」と言っていたが、来週は十二月最後の週で、王城では新年の催しの準備などで忙しいはずだ。

毎年、新年に行われる王城での舞踏会は盛大なものだと聞いたことがある。多くの貴族が集い、冬の夜空に花火が輝き、夜通し賑やかな音曲が鳴り響くという。その舞踏会で王子は多くの貴族から新年の挨拶を受け、多くの貴族息女と踊るだろう。 

花の如く美しいドレスの女性たちと踊り、そして心惹かれる人と出会うかも知れない。 

年が明けたら、もうアラントルには来ないかも知れない。 

 

「だが、来週は年の瀬だ。殿下もお忙しいだろう」 

「そうですね。リグニス城にも領地の皆様がお集りになり、きっと賑やかになりますね。年が明けたら例年通りに庭にテーブルを出しますが、当日の天気が心配だと料理長が言っておりました」 

「そうだなぁ。最近は冷え込みが厳しいから、当日は雪でも降らなきゃいいが」 

アラントルは国の端にあり、地理的に王都からは一番遠い領地だ。新年の舞踏会で素敵な女性と出会ったら、もうこんな田舎に足を運ぶことは終わるかも知れない。記憶を取り戻しても王子の気持ちには応えることなど出来ないのだから、王子が来なくなって良かったと喜ぶべきだ。そしていつか、そういえば東宮に滞在していた田舎領主の娘がいたなと、時々は思い出してもらえたら・・・・・。

 

畳み終えた洗濯物の整理を他の侍女に頼むと、ディアナは部屋に戻った。 

知らぬ間に増えたドレスの量に今まで使用していた部屋は狭くなり、アラントルに戻ってから少しして元々のディアナの部屋へと移動した。不思議なことに広い部屋にはすぐ慣れ、居た堪れないと感じることはない。二階の自室からは海が見渡せた。曇天の下、冬の海は荒々しく寒々しい。 

ふと、目を閉じてみた。

いま目にした海原とは真逆の、夏の海が脳裏に浮かぶ。真っ青な空の下、どこまでも広がる白い海原。眩しいと目を眇めながら・・・・誰かと甘い花の香りを楽しんでいた、ような・・・。 

「・・・っ」 

鈍い頭痛を感じたディアナは、また気を失う前にとベッドに腰掛ける。

今日こそは過去の扉が開くかと思ったが、いつもと同じように擦りガラスの向こう側には行けない。気を失うほど深く沈み込むと全てを忘れてしまい、こうして眩暈を覚えた瞬間の、わずかな光景を縋るように繰り返して思い出す。

「夏の海・・・。殿下と、王城で見たのかしら。甘い香りは・・・薔薇?」

窓を見ると灰色の空から白い雪が舞い落ちて来るのが見える。立ち上がり厚地の緞帳を下ろすと、ディアナの意識は明日の仕事の段取りに切り替わり、夏の光景も薔薇の香りも消えていった。 

 

 **

 

三日後にギルバードが顔を出すと、卵を取りに行っていたディアナが目を大きく見開いて駆け寄って来た。一週間も経たずに現れたことに呆れたり、嫌がられてはいないかとギルバードは焦るが、ディアナの口から零れて来たのは、ギルバードを心配する内容だった。 

「雪が舞う時期ですのに、そのような薄着でお越しになり、お寒くはないですか? 王宮での御政務は、お忙しくはないのですか? あの、直ぐに暖炉の前へお越し下さい」 

領主から魔法で繋いだ『道』を使用していると聞かされていないディアナは、外套も来ていない姿に驚きを隠せないようだ。だけど知られる訳にはいかない。知れば、ディアナはまず長い距離を駆けて来たのではないと安堵し、それから、自分に会うためなどに魔法を使わせてしまったと心を痛めるかも知れない。それでも逢いたいのだと伝えても、今のディアナには通じないだろう。 

 

「ああ、政務は滞りなく進んでいるから大丈夫だ。だが、年を明けると忙しくなる予定で、同盟国を巡って新年の挨拶に行かなきゃならない。だから、しばらく来られないと伝えに来た」

 

新春恒例の王宮舞踏会には同盟国より多くの使節団が訪れるが、同時にほとんどの国から招待状が持ち込まれる。エルドイド国の王太子であるギルバードを招待する理由は、自国の姫を披露するためだろう。

十の時から数多の国から招待され、面倒だと思いながら毎年ひと月以上も掛けて他国巡りをしていたが、自国の領地視察のおかげで二年間はその面倒事から逃れることが出来た。

今回は出来るだけ多くの国に赴き、エルドイド国の王太子妃は決まったと公言して回るつもりだ。まずはそこから解決し、新たな面倒ごとが増えるのを抑制しよう。

何年掛かろうとも妃にと望むのはディアナだけで、その心を掴むために努力しようと決めた。 

頻繁に、だけど迷惑にならない程度に顔を見せ、たくさん会話して時に手を繋ぎ触れ合い、ディアナから笑みを向けられる機会を増やしていくのだ。この頃は昼食をディアナが作ってくれることが多く、それはギルバードの来訪に合わせてだとロンとカーラに教えてもらっている。もちろんディアナ手作りの菓子も用意されていて、食べている間は一緒のテーブルにいてくれるようになった。上手い口説き方は教えてくれないレオンだが、場を盛り上げるために軽快な話を面白おかしく語るから、楽しいひと時を過ごすことが出来ている。少しはディアナも慣れてくれたようだと思えるようになってきた。 

それなのに他国巡りという面倒事の到来に、ギルバードは肩を落とす。

妃推挙を退ける良い機会だと解かっていても、半月以上はディアナに会えなくなる。下手をしたらひと月以上かかる可能性もある。

切なさに溜め息ばかり吐いていたら、レオンに椅子ごと蹴り倒された。そして頻繁にもほどがあると知りながら、こうしてディアナに逢いに来てしまった。 

 

今日もディアナの美味しい昼食と焼き菓子を食べた後、庭を散策する。

ぎこちないながらも笑みを浮かべるディアナを誘い、寒さを理由にローブの中に引き入れた。「大丈夫です」と離れようとするディアナに、「くっ付いていると温かい」とこじつけながら肩を引き寄せ、薄らと雪の積もったなだらかな芝生を歩く。 

「他国巡りは面倒だが、ディアナに土産を買って来れると思うと、少しだけ楽しみだ。でも、何を買って来たらいいのか判らない。何か欲しいものがあったら言って欲しい」 

本当は内緒で買って驚かせようと思っていたが、数日悩んだ結果、本人が欲しい物を買った方が喜ばれるのではないかと結論が出た。

女性に何か贈った経験など皆無だ。姉たちにはあるが、欲しい物を要求されるので悩んだことなどない。悩むのも楽しいと思ったのは一日だけで、その後は髪を掻き毟り、呻くばかりで何も思い浮かばない自分自身に疲労困憊した。 

顔を上げたディアナがじっと見つめてくる。

断られるかと覚悟したが、意外にもディアナは考え込んでいるように見えた。ゆっくりと歩きながら、返答を待つ。ディアナは枯れ葉と雪混じりの庭を見つめ、足元の芝に視線を移し、空を流れる雲に目を細めた後、「ああ・・・」と小さく頷きながらギルバードを見上げた。

 

「他国の・・・、殿下が美味しいと思われた菓子をお土産に頂きたいと思います」 

「っ! そうか、うん、わかった」 

断られると思ったが、ディアナはきっとギルバードの気持ちを汲んでくれたのだろう。その気遣いが嬉しいと、肩を掴む手に力を入れる。

このまま頭にキスを落としたくなるが、今はこれ以上進むべきではない。許可なくキスすることは禁じるべきだし、許可を求めても断られるに決まっている。自制しながら、今日はゆっくり出来ると伝えると、ディアナはそれなら夕食も用意すると微笑んでくれた。そのつもりだったギルバードだが、ディアナから言われたことが嬉しくて、地団太を踏みたくなる。夕食後にまた菓子を焼くと言われると、このまま抱き上げてキスしたくなった。

 

「土産の菓子を買って来たら一緒に食べて欲しい。多くの国に行く予定だから、たくさんの珍しい菓子を買って来る。そうだ、次に来る時は果物も持って来よう。この時期にはない、いろんな種類の果物を持参するから楽しみにしてくれ」

「それは魔法導師様が管理されているという、温室からですか?」

「ああ、そうだ。きっと驚くぞ」

「楽しみにしております、殿下」

「・・・そう言ってくれると、すごく嬉しい」 

嬉しいと素直に伝えることが出来る幸せに、ギルバードは破顔する。だけどそこに、好きだとか愛してると続けられないことが哀しい。それとも言っていいのだろうか。何度も繰り返し伝えることで、気持ちを届けることが出来るのだろうか。

レオンに言われた、ディアナの心労になるような言動は慎みたい。焦らずに時間を掛けて親密になり、それから改めて告白をするのが一番いいのだろう。

だが奴は、同時に攻めなければ進展はないと言った。―――攻めるとは何だ? 

急に抱き締めるのは駄目だと言われたが、好きだと言うのは正解なのだろうか。

だが、こうして肩を引き寄せても嫌がる素振りは全くないディアナに、今ここで好きだ愛していると告げたら、俯かれるか逃げられるかのどちらからだろう。どちらにしても顔を背けられ、ぎこちない雰囲気で貴重な時間を過ごすことになるのは確かだ。

それなら今は、今だけは、このまま肩を引き寄せたまま散策を続けよう。

触れた場所から好きだという気持ちが届くよう祈りながら、ゆっくりゆっくりと歩いていよう。

ギルバードがディアナを見下ろすと、二人の視線が合う。

ディアナが自分を見ていたことに驚き、そして同時に嬉しくなる。好きだという気持ちがディアナの心に届きますようにと祈ったギルバードは、これ以上は無理だと思えるほど、ディアナの肩を引き寄せた。

 

 

  

 

 

 

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