紅王子と侍女姫  21

 

 

目が覚めると日が暮れていて、ドレスのままベッドに横たわる自分がいた。

また最後まで思い出せなかったのだと判り、溜め息と共に眉を寄せるしかない。忙しい殿下の貴重な休み時間を使ったにも係わらず、昏倒して倒れただけだと知ったディアナはただ哀しくなった。一人でも思い出せるだろうかと目を瞑るが、望む闇は訪れて来ない。覚えているのは闇を切り裂く刃と、足元に散る紅い何かだけ。

 

ベッドから起き上がり豪奢なドレスを脱ぎ、夜着に着替える。肌触りの良い美しいドレスを見て、息を吐いた。どこも汚れている個所はないと安堵して、今まで自分が横になっていたベッドをきれいに整える。荷物の中からガウンを取り出すと羽織り、宿から買い取ったという掛布をソファに敷いて横になった。

夢に何か手掛かりが見つけられるだろうか。

少しだけ思い出した王子の台詞。その前後を思い出し、きっかけとなる自分の言葉を夢の中でも探し続けるしかない。謝るなと言われたディアナは、誰もいない部屋で密やかに繰り返す。

 

「申し訳御座いません。・・・・思い出せなくて、申し訳御座いません」

 

掃除をしていた自分と、侍女の服を見られなかったことに感謝しながら、もし見られていたと思うだけで謝罪の言葉が繰り返されてしまう。王子を前にすると口をついて出そうになる言葉だが、王子のために押し殺すしかない。

 

 

 

翌日、部屋に訪れて来たローヴから、唐突に尋ねられる。

 

「殿下が貴女に貴族息女らしくいて欲しいと望まれることは苦痛ですか」

「・・・・・今の私には、正直、まだ」

「そうですか。 ああ、話は変わりますが、昨日はお話されている時に突然昏倒されましたが、体調は如何でしょうか。その時に何か思い出しましたか」

「体調は問題ありませんが、殿下の貴重なお時間を頂きましたのに眠ってしまい、申し訳なく思っております。・・・・思い出したというか、目を閉じた後は真っ暗な闇が広がり、その闇の中で剣が何かを切り裂いていました。怖くなって逃げたのですが、紅い何かを踏んでしまうので上手く逃げられず必死だったのを覚えています。目が覚めたら日が傾いていて・・・誰もいなくて・・・も、申し訳御座いません」

 

静かに項垂れるディアナは、まだ侍女として過ごすのが当たり前だという気持ちが強いのだろう。しかし王子からの切実な望みと言葉に縛られ、身動きが取れないようだ。

彼女が話す、闇を切り裂く剣は現状を変えようとする王子を象徴し、紅い何かは王子の魔力かも知れない。幼い頃に見た王子の瞳の色を思い出している可能性もある。

または、その後行った幾度かの試しで王子の瞳を見た記憶が残っているのか。

ローヴは濃紺の飾り気のない質素なデイドレスを着たディアナをソファに座らせ、額に手を宛がった。不安そうに揺れる瞳を見つめ、柔らかく微笑み返す。

 

「今日はいつもとは違う方向へ誘導してみましょう。繰り返しの試しと、今までとは違った環境に居ることで思い出す量が増えているようです。記憶の中の鍵が見つかるようお手伝いしますから、さあ、目を閉じて身体を楽にして下さい」

 

言われた通りに目を閉じると、額に触れる手から温かさが伝わってくる。

ディアナが身体から力を抜くと、ハーブをベースにした甘い香りが漂って来た。

 

「少し、殿下の過去を見て戴きましょう。思い出すきっかけが見つかると良いですねぇ」

 

殿下の過去を自分などが見ていいのかと、思わず目を開けようとすると瞼の裏に琥珀色に染まる景色が這い上がり、シャボンの中に閉じ込められているような感覚が身を包んだ。

これも魔法なのかと戸惑っていると、さまざまに色を変える半透明の膜のような壁の向こうに人影が見え、ディアナは息を詰めて目を凝らす。

 

十歳に満たない齢の少年が歩いていた。見たことのある場所は東宮の廊下だろうか。その背後を大人が付き従い、部屋に入ると机の上にたくさんの書類が積み重なっているのが見える。少年は表情を変えずに書類を手に取り、背後の大人に指示を出し始めた。

膜のような壁の表面が虹色の油を流したように景色が変わり、次の場面では十歳くらいの少年が剣を構えて大人と対峙している場面となる。何度も弾かれ、突かれ、倒されるが少年は泣き言を言わずに立ち上がる。少し年上らしい少年が笑顔で近寄り、肩を組み歓談している姿も見えた。

今と全く変わらない姿のローヴやカリーナもいる。

馬場で馬を駆らせる姿や、たくさんの本が並ぶ場所で黙々とページを捲る姿もある。

膜の表面がぐにゃりと歪み、また場面が変わる。

今度は十二、三歳くらいの少年の姿があった。

その少年が廊下の曲がり角や会議室の扉前で、突然、強張った顔となり立ち竦む場面が見える。少年はきゅっと唇を結ぶと踵を返し、ひと気のない場所でポケットから取り出した物を額に押し当てながら何かを呟き出す。眉間に皺を寄せた少年の唇が僅かに戦慄き、同じ言葉を繰り返しているように見えた。

見ているだけで胸が痛み、どうしてそんな顔をするのだろうかと心配になる。

 

少しずつ大きくなる少年が王子だと判り、ディアナは目を瞠った。

背が高くなり逞しく成長した王子はいつしか王宮騎士団の副団長となり、政務では王と共に執政を執り行うほどになる。舞踏会では多くの貴族息女や他国の姫と歓談したり時には踊る姿もあった。視察団との会議では中心となって発言され、王位継承者として雄々しく成長されていく。その王子が、時折ひと気のない場所で額に何かを押し当てながら小さな声で呟く姿に、ディアナは胸が押し潰されそうになる。

王子の手から覗くそれはリグニス城で目にした自分のリボンで、王子が呟く言葉は私に対しての謝罪だ。

何度も言われた王子からの言葉が耳に甦る。

何度も私に謝るなと、その必要はないと言っていた。

それなのに、そう言いながら彼はリボンを額に押し当て何度も謝罪を繰り返していたのだ。

半透明の膜のような壁に思わず手を伸ばすと途端にそれは弾け、ディアナの目の前には穏やかな笑みを浮かべるローヴがいた。

 

「今、ディアナ嬢が目にしたものが、思い出すきっかけになると嬉しいです」

「・・・殿下は長い間、あのリボンを? 私は何の不満も疑問も持たずに日々過ごしていたというのに、殿下は・・・・ずっと、お持ちになっていらっしゃったのですか?」

 

王子の過去を垣間見たディアナは、年月が経ちリボンから紐へと化したものに額を押し当てる姿に困惑してしまう。王子は深く傷付いていた。それなのに自分がかけた魔法で私が侍女として過ごしていることを知り、更に深く悔いている。私自身は日々の生活に何の不満も持たずに、親や姉を悩ませてでも我を通していたというのに。

 

「ローヴ様、わ、私は殿下に謝って頂きたいとは思っておりません! 魔法を解くためでしたら、どのようなことでも致します! 私は何をしたら良いのでしょう!」

「思い出すことですよ。・・・そうですね、初めて殿下とお会いした庭園にでも行かれますか? 何かを思い出すかも知れませんよ」

 

全身が震えてしまう。大国エルドイド国の王太子殿下が、田舎領主の娘に対して十年もの長い間謝罪を続けていたなど、考えもしなかった。いや、そんなことがあったことさえ私は忘れていたのだ。魔法で繋がっていることで何らかの不具合があるから解くだけだと考えていた。王子が何度も謝罪の言葉を繰り返し、悔いている姿を思い出すと今まで以上に申し訳ないと思ってしまう。

 

扉がノックされローヴが返事をすると、姿を見せたのはギルバード王子だった。

ディアナは急ぎドレスの裾を持ち、丁寧に深く御辞儀をする。鍵となる言葉を思い出せない今は、貴族息女らしい態度を見せるしか出来ない。

 

「少し早目の昼休憩となったので顔を出したが、ローヴと試しを行っていたのか」

「はい、出来るだけ早く鍵となる言葉を思い出すよう試みておりました」

 

視線を落とし低頭したままのディアナには王子の足元しか見えない。しかし、その足元を見ているだけで先ほどの光景が頭に浮かび、申し訳なさに跪きたくなる。鼻の奥が熱くなり、伏せた眼が潤み出したのを感じてディアナは何度も瞬きを繰り返した。

 

「何か・・・・思い出したか」

「いいえ。しかし自分のなすべきことを確認させて頂きました」

 

胸いっぱいに広がった罪悪感にディアナは息を吐く。いつまでも王子にあのような表情をさせ続ける訳にはいかない。そのためには自分が王子の過去を見てしまったことを叱責されようとも、早急に原因を取り除かなければならないと思った。

決意したディアナは恭しく腰を落とし、王子を真っ直ぐに見つめながら口を開く。

 

「ギルバード殿下に御願いが御座います。・・・殿下が十年間、その胸に持ち続けておりますリボンを、どうぞ私へお返し下さいませ」

「・・・っ! な、何でそれをディアナが知っている? そ、そうか、ローヴ!」

 

真っ直ぐ見つめて来るディアナからの言葉にギルバードは一瞬言葉を失い、そしてローヴが教えたのだと察した。長い間持ち続けた彼女のリボン。それは衝動的に魔法を放つ前に、彼女の髪から無理やり奪い取ったものだ。自分より遥かに幼い少女が母親にして貰ったと嬉しそうに語っていた品を、自分は些末な感情で憤り奪い取った。

そして、罵りの言葉と共に彼女に魔法を______。

その彼女が成長し、今目の前でリボンを返して欲しいと自分を見つめる。

 

ローヴに視線を投げるがソファに座り瞑目したまま、口を出すつもりはないと判る。

ディアナの碧の瞳が揺れるように濡れているのが判り、ギルバードは震える手を伸ばして胸の内ポケットからサッシュの小袋を取り出した。小袋を見てディアナの肩が少し揺れたように感じたが、ギルバードは唇を噛み締めながらベビーピンクの紐を取り出し、強く握りしめたままの手を向けた。

 

「・・・・長い間・・・・申し訳ない」

 

ゆっくりと開かれる王子の手からディアナへと、リボンが渡される。受け取ったディアナは何度も目を瞬かせながら唇を震わせた。リボンからは温かい熱が伝わり、長い間王子を苦しめていた品を手にして申し訳ないと謝罪しそうになる。

だけどそれは王子が望まぬ言葉だ。

ディアナは深呼吸しながら手の内のリボンを強く握りしめ、謝罪することが出来ない自分が王子のために出来ることは、魔法を解くための鍵を探して一刻も王城から離れることだと強く思い直した。

 

「殿下。お返し頂き、ありがとう御座います。一分一秒でも早くアラントルへ戻れるよう、早急に魔法を解く鍵となる言葉を思い出します」

 

強く言い放つディアナの瞳には今にも零れ落ちそうな涙が浮かんでいる。だが幾度も瞬きを繰り返し、それは静かに散っていった。今までと違い、固い決意を浮かばせたディアナからの言葉にギルバードは愕然として言葉を失う。そして腰を僅かに落としたディアナが顔を伏せたまま滑るように横を通り過ぎ、そして扉を開けて部屋から出て行った。 

 

部屋に残されたギルバードは、ディアナの言葉を頭の中で繰り返す。

一分一秒でも早くアラントルへ戻れるように、と彼女は言った。

リボンを手に、今にも泣きそうな涙を堪えて、彼女はそう言った。

それは彼女に魔法をかけた自分に呆れての言葉なのだろうか。過去を思い出すたびに王子である自分がした行為を鮮明に思い出し、そして厭になったのか。こんな自分に係わるのが厭で、一刻も早く魔法を解いて解放されたいと願っているのだろうか。早く戻りたいと、こんな王子のそばにいるのは嫌だと思っているのか、ディアナは。

 

      そう考えた瞬間、ギルバードの胸にそれは駄目だと強い思いが迸る。

離れるのは駄目だと、離したくないと強く望んだ。

魔法を解くのは必要なことだと承知している。魔法で繋がっていることで彼女にどういう不都合があるのか未だに不明のままだが、解いた方がいいのは解かっている。

早く解いて、魔法という柵から解放してあげたい。 

だけど、離れるのは別だ。

この気持ちが何なのか正直わからないが、突き動かされるように強く思う。

彼女を離したくない、離れたくない。彼女にそばにいて欲しいと強く願う自分がいる。

ディアナに会いたいと足が向くのは、何度も手が伸びてしまうのは、触れたいと思うのは、全て彼女にそばにいて欲しいと願うからだ。

急激に溢れ出した感情に突き動かされ、ギルバードは彼女が出て行った扉へと向かった。

 

 

 

**

 

 

 

エディとオウエンに案内され王宮庭園に向かう。王宮側の庭園は驚くほど広い。

この庭園で他国からの客人を招いてパーティが行われることもあるというから、想像するだけで客人分の食事や飲み物、掛かる費用、人員、用意と片付けを考えるとディアナは眩暈を起こしそうになる。

広さよりも違うことでディアナが頭を抱え込んでいると、エディが心配げに問い掛けて来た。

 

「どこの庭園に行きたいのか判らないけど、噴水がある場所って多いよ? 王城背後の山から流れてくる水をふんだんに使って、あちこちに噴水があるからね」

「そうですか。でも何度も試しで思い出しているので、見たらわかると思います」

 

出来れば独りで探したいですとお願いし、ディアナは早速ひとりで王宮庭園を歩き始める。濃い緑の茂みと点在する真っ白なガゼボ。そして小さな噴水があちらこちらに見られる。

記憶を辿り、あの時は迷子になった自分は偶然出会った少年時の王子に花壇へと案内して貰ったのだと思い出す。子供の頃に見た噴水は、きっと今見ると余り大きなものではないだろう。

しかし軽く見回しただけでも十以上、噴水が見えた。

 

「でもやらなきゃ。・・・・このリボンに誓って諦めたりしない」

 

広い庭園のあちらこちらにある噴水に足を運び、しゃがみ込んで記憶を辿る。振り向き花壇の位置を思い出し、違うと思えば次へと移動する。ひとつひとつを見て回りながら、記憶の中の場所を探し続けた。掃き慣れない靴が痛みを訴えるが、それでも早く見つけたい思いに足を進ませる。

 

どのくらいの時間が経過したのだろう。

似たような場所はいくつもあるが、朧気な記憶の中にある庭園ではない。いくつもの噴水を回り続けて酷く痛み出した足を休めようとガゼボの椅子に腰を下ろす。額に薄らと浮かぶ汗に心地よい風が過ぎり、目を閉じて息を吐いた。

 

早く、早くと急く気持ちとは裏腹に見つからない、あの初めて出会った庭園。

手にしたリボンを強く握り締め直しディアナは目を開ける。庭園で王子に会ってから十年。

私が言った言葉で王子が悔い、このリボンに何度も謝罪の言葉を繰り返していた。私に謝罪の言葉を口にするなという王子が、何度も何度も謝罪を呟いていた。

そこから早く解放して差し上げたい。

もう私に囚われることの無いよう、必要のない謝罪を繰り返さないように。

国のために日々従事されている王子が、田舎領主の娘のために繰り返していた時間などもう必要ないのだと伝えたい。それが、それこそが私がここに来た意味なのだろう。

立ち上がり次の場所を探しに行こうとしたディアナに声が掛かる。

 

「こんな時間に王宮庭園を独り気ままに歩くなど、どちらの公爵息女様かしら」

 

顔を上げると見たこともないほど豪奢なドレスに身を包んだ女性が立っていることに気付く。お仕着せの服を着た侍女を後ろに五人も侍らせた、姉カーラと同じ年くらいに見える女性は高価そうな羽根つき扇で口元を隠し、上からディアナを見下ろして来た。

 

   


 

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