紅王子と侍女姫  72

 

 

ここは彼女の夢の中だ。彼女の思うようになる空間。

もし彼女が離れたいと思えば、その瞬間俺の腕の中から消えてしまうかも知れない。だからこそ慎重に言葉を選び穏やかな態度でディアナに語り掛けようと思うのに、抱き締める腕は力を増しそうになり、頼むから消えないで欲しい離れないでくれと叫びたくなる。

強くなりそうな力を必死に抑えるギルバードの腕の中、ディアナが小さく息を吐いた。その吐息が淡い色合いの花びらへと変わり、彼女のドレスの上を滑るように落ちていく。それは大きな花びらで、ふわりと床に落ちると部屋いっぱいに増えて広がり、揺れ動きながら甘い香りを立ち昇らせる。

 

「これは・・・覚えがある。舞踏会のあとに誤解を解いて互いの気持ちが通じ合ってから、俺が初めてディアナに贈った薔薇の・・・花びら、だ」

「・・・っ!」

 

贈った花びらの色と香りを覚えているのが自分でも不思議だと思ったが、ディアナが身を竦めながら震えるのが伝わって来るから、間違いないと確信出来た。

確か早朝から東宮の庭園を一緒に見に行った翌日、明るく可愛らしい色合いだとディナアに贈った薔薇。その薔薇の花弁が床いっぱいに敷き詰められ揺れるのを目に、ギルバードは高揚する気持ちを抑えるのが難しいと、緩みそうな口元を急ぎ引き締めた。

 

「俺は・・・・ディアナに嫌われていないのか? 本当は俺に二度と触れて欲しくないと、俺の顔など見たくないと、そう思われてはいないか?」

「そんなことを思ったことなど、一度だってありません!」

 

驚くほど大きな声が胸から聞こえ、顔を上げてはくれないが即答してくれたことが嬉しいと、ギルバードはディアナの背を撫でながら素直な気持ちを伝えることにした。

 

「俺は俺の勝手な思い込みでディアナを幾度も翻弄させてきた。何度も誓ったはずなのに、何度も誓いを破り許可もなく抱き締めたりキスしてきた。ディアナを翻弄するつもりはないのに、未だに戸惑わせていることは重々自覚している。だけどこれだけは解かって欲しい。俺はディアナを心から愛しく思っている。この気持ちはずっと変わらないからな」

「私も・・・同じ気持ちです。・・・・ですから私は」

 

声色が低く変わったのを耳にしてギルバードはディアナの肩を掴んで顔を覗き込んだ。

ふわりと微笑んだ顔に浮かぶのは悲しげに寄せられた眉。その後に続く言葉は想像に易い。同じ気持ちで良かったと満足している場合じゃないのは過去の過ちから充分学んだ。しかしディアナが納得出来るような台詞が直ぐに出て来るはずもなく、自分の語彙の足りなさが、これほど口惜しいと思ったことはない。

 

「ディアナも同じ気持ちだと言ってくれて嬉しい。・・・そして俺は待つ、と言ったよな? ディアナがその気になるまで俺も成長すると誓った。誰に何を言われても俺の気持ちは変わらないし、周りにどう見られても関係ない。ディアナがその気になってくれるまで俺は待つから、いま諦めるのは無しだ」

「いいえ。誰に何を言われても仕方がないと思っております。自分などは殿下に相応しくないと。殿下の大切な御公務の邪魔をするような愚かな人間など消えた方が・・・・」

 

プラチナブロンドが風もないのに舞い上がる光景に、本当に消えそうだとディアナの身体を力いっぱい抱き締めた。消えないよう願いながら抱き締めているのに、ギルバードの目の前で彼女の髪が薄く透け始めるのが見え、急ぎディアナの頬を掴み顔を近付ける。

 

「ディアナが言う相応しいとか身分とか、そんなもの俺には全く必要ない! 俺が好きなのはディアナだけで、側に居て欲しいと望むのもディアナだけなんだ! だから」

「殿下の御気持ちは嬉しく思います。だからこそ殿下の御側から離れた方がいいのです。私などが原因で殿下が誹謗を受けることになってはいけません。私のような者が側にいることで殿下を貶めてしまうことになったら、私は」

「ちょっと待てっ! いくらディアナでも、それ以上は許せない!」

 

目を伏せて苦しげな顔が、ギルバードの大声に一転驚きの表情に変わる。

濡れた睫毛を瞬かせる碧の瞳を見据え、掴んだディアナの頬を持ち上げた。

 

「俺の好きな女を悪く言うなっ! 心底惚れている相手をそこまで貶されるのは腹が立つ! ディアナが俺の妃なると言ってくれるのを、歯痒い思いで焦れながら待ち続けている。それはディアナの気持ちを尊重しているからだ。俺がどれだけディアナのことが好きか、ディアナは知っているのか? もうディアナがいないと生きていけないぞ、俺は!!」

「・・・え。・・・・あ」

 

驚いた顔のまま、ディアナはゆっくりと瞬きを繰り返す。

その表情はどこか幼く見え、またも大声を出してしまったと悔やみながら目を離せずにいると、ディアナの大きく見開いた碧の瞳からボロボロと大量の涙が溢れて来た。瞳と同じ大きさの涙が勢いよく零れ落ちてくるから、ギルバードは悲鳴を上げそうになる。人間の目からこんなにも大量の水が流れ出るものなのかと焦り、しかしディアナの衣装が舞踏会で着ていたドレスへと変化するのを目にして、今は彼女の夢の中だと思い出した。

何時の間にか緩く巻き上げた髪や耳には沢山の小さな花が飾られ、しかしネックレスだけはギルバードが贈った品だと気付く。それは彼女の気持ちが、まだ自分に向けられているからだと思いたい。そのネックレスまでもが消えないよう、これ以上泣かれないようにするにはどうしたらいいんだと困惑しているとディアナの手が静かに持ち上がり、ギルバードの頬にそっと触れた。

 

「本当に殿下は素敵な方です。嬉しい言葉や幸せな夢を見せて頂き、心から感謝申し上げます。だからこそ殿下の御気持ちを、そのまま受け取ってはならないと強く思うのです」

 

頬から離れたディアナの手がドレスを摘み、優雅な御辞儀をする。すると音もなくドレスの裾が大きく揺れて床上の花が宙に舞い上がり、ギルバードはその光景に惚けてしまった。

しかし周囲の風景が一転して舞踏会が催された王宮大広間へ変わると、そこでディアナが自分から離れて行ったのだと気付き後を追い掛けるが、円舞曲が軽やかに流れる中でダンスを踊る多くの人波に彼女の姿が見えなくなる。やっと大広間から抜け出し、ディアナは何処に行ったと足を踏み出そうとして動きを止められた。苛立ちながら足元を見ると緑の蔦が蠢きながら這い上がるように絡み付き、先に行かせまいと周囲の壁に貼り付く

 

「俺の邪魔をするなっ、ディアナの許へ行かせろ!」

 

声を張り上げると、深紅に揺らぐ視界に緑の蔓が大きく震え、そして一斉に足元から離れていく。そして導くように一本の道を作るのを確認し、ギルバードは駆け出した。

その道は王宮庭園へと続く。

舞踏会の夜のように逃げ出したディアナを追い掛け、あの時と同じ思いでいるのだろうかとギルバードは唇を強く噛んだ。何時までも頑なな彼女を上手く説得出来る自信がない。だけど解かって欲しいと、こんな夢に逃げないで欲しいと後を追う。道が導く先は大広間から離れた南側の王宮庭園だとわかり、もしかしてあの場所かと足を速めた。近くまで来ると声が聞こえ、荒げる息を抑えて静かに近寄る。

 

「ディアナは姉が二人か。女ばかりが集まるとすごく賑やかだろうな。僕も姉が二人いるけど、年が離れているからあまり遊んだ記憶がない」

「それに王子様は男の子だから女の子とは遊びが違うでしょう? 私も男の子と遊んだことはないけど。・・・あ、これは知ってる? 出来る?」

 

舌っ足らずな幼い声がしゃべる内容に、ギルバードは息が止まりそうになった。

それは今でも思い返すと居た堪れなくなる、幼いディアナと出会った時に交わした会話だ。

低い茂みからそっと顔を出すと、幼い二人の背後には侍女姿のディアナが立っていた。悲痛な表情のディアナは楽しげにしゃべる少女の口を塞ごうと何度も繰り返すが、そのたびに手は少女をすり抜け、何もない宙を掻く。笑みを零す少女に覆い被さるが、やはり手は少女をすり抜けて地面に手を着き、それでも必死に繰り返す。

やがて立ち上がった少年を、少女は真っ直ぐに見上げた。

同時にディアナが悲鳴を上げて少年の耳を塞ぐ。

 

「王子様の髪の色も目の色も、真っ黒なのね。さっき見た王様は明るい金色だったから、王子様のお母様が黒い色なのかな。目も黒いけど、でも・・・・」

「駄目ぇ―――っ!」

 

ディアナの手をすり抜けて少年は顔を逸らし、少女は笑みを浮かべて小さな唇を開いた。

 

「王子様の目はお日様に当たると紅く見える」

「やぁああ―――――っ!!」

 

 

 

 

突如周囲は闇に包まれる。

 

余りにも悲痛な叫びを耳にして、ギルバードは息が止まりそうになった。

ローヴからリボンに額を寄せて詫びる王子の姿を見せられたディアナが、その後リボンを手に王宮庭園に向かい、二人が初めて会った場所を探し出して全てを思い出したと泣き崩れていたのを思い出す。再び思い出させてしまったのかと闇に視線を彷徨わせ、ディアナの姿を探した。未だ彼女の胸に深い傷として残っている自分の愚かな行動。感情の赴くまま行動した結果が彼女を侍女として働かせ、そして夢の中でも苦しめ続けている。

思わず項垂れそうになる自分を叱咤し、ギルバードは強く唇を噛み顔を上げた。今は自分の過去を悔やんでいるより、することがある。闇の中、彼女の姿を探そうと手を持ち上げた。周りは真っ暗でどこを探せばいいのか解らない

また移動してしまったのかと闇に目を向けると、彼女が蹲る姿が見えた。闇の中、仄かに浮かぶ姿はとても小さく見え、ゆっくり近付いて行くと囁くような声が聞こえる。 

 

「このまま・・・ずっと・・・、ずっと目を閉じていましょうね」

 

蹲る彼女が抱え込んでいるのは幼いディアナだ。幼い自分の髪を撫でながら同じ言葉を繰り返し、闇に身を委ねて目を閉じている。闇に浮かんでいたプラチナブロンドが波に飲み込まれる小枝の様に見え、ギルバードは総毛立った。 

このまま今以上、深い場所に沈まれたら・・・・手が届かなくなる!

 

ギルバードは彼女らに近付きながら瞳に紅を宿し、躰に纏わり付くような闇を薙ぎ払った。

しかし闇が霧散して周囲が目を眇めるほど白い世界に変わっても、ディアナは動かずに幼い自分を抱き締めたまま蹲り、同じ言葉を呟き続けている。蹲るディアナに近寄り肩を揺すると、緩慢な動きで彼女の顔が持ち上がった。彼女はぼんやりと宙を眺めながら幼いディアナの背を包み込むように撫で続け、それ以上は動こうとしない。

ギルバードは彼女の前に跪き、撫で動く手を掴んだ。 

 

「ディアナ、頼むから俺の話を聞いてくれ。こんなところで、ずっと目を閉じているなど駄目だ。夢から覚めて、俺の嘘偽りない気持ちをそのまま受け取って欲しい。俺は・・・君に側に居て欲しいだけだ。互いに好きだと判ったのだから、だから・・・」 

「・・・殿下を好きだと口にする・・・・愚かな自分を消してしまいたい」

「俺の話が先だ。それと頼むから俺の好きな女を愚弄するのはやめてくれ。ディアナが俺を好きだと言ってくれることが、どんなに嬉しいことかディアナは知っているのか?」

「私は殿下が厭う魔法を使わせてしまった。・・・・取り消したいのに、何度繰り返しても過去を黙らせることが出来ない。何度も悲しい顔をさせてしまう! 何度も、何度もっ」

「ディアナ! 俺の話が先だといった」

「黙らせたいのに! 聞かせたくないのに! どうしても繰り返してしまうの! 初めての場所に浮かれて迷子になった私を助けてくれたのに、私は殿下に何てことを・・・っ」 

 

ギルバードに掴まれた手を振り払い、ディアナは顔を覆った。悲痛な叫び声が指の間から漏れるのを耳にして、ギルバードは今にも消えてしまいそうなディアナを強く抱き締める。 

 

「何度謝られても、俺の方こそ悪いと繰り返すぞ。ディアナが泣いて謝るたび、俺は苦しくなる。考えなしに魔法を使った自分が、ディアナと気持ちが通じないことが、悲しませたくないと望む自分がディアナを泣かせている事実が俺を苦しめている」 

「私がいなければ、殿下は魔法を使わなかった!」 

「ディアナと出会わなければ、俺は成長しなかった! こんなにも愛しいという気持ちを知らないままだった! ・・・お願いだ、ディアナ。頼むから俺の話しを聞いてくれ」 

 

腕の中で抗いながら悲愴な声を張り上げるディアナを包み込み、話を聞いて欲しいと繰り返す。

裡に隠していた彼女の感情を耳にして、ギルバードの胸は苦しいほどに痛み、しかし全てを吐き出して欲しいとも思う。

彼女が嘆き悲しむ原因は自分にある。ディアナに悪いところは何一つない。

しかし彼女がそれを受け入れることは無いだろう。好きだと言っても、気にするなと繰り返しても心の底から納得することは無い。だからこそ側に居て欲しいのだ。

側に居て、ディアナに心からの笑みと安寧を与えたい。

愛しいと思うからこそ、叶えたい願いだ。

これ以上泣かないで欲しいと、胸の中で震える彼女にキスを落とした。ここまで感情を露わにするディアナに戸惑いながら、ギルバードは言葉を探す。またいつ消えてしまうか判らない夢の中で、目覚めることに納得してくれるような素晴らしい言葉を探そうと必死に頭を働かせた。だがそれは難しいことだと眉間に皺が寄る。頭の中の引き出しを全て掻き出しても、ディアナが納得するような上手い言葉など見つからない。話しを聞いてくれと言ったのに、何も言えずに立ち竦むしか出来ない自分が情けない。 

 

「・・・俺はディアナが好きだ。ディアナに俺の側に居て欲しい。それだけが俺の願いで、叶えるためにはディアナの協力が必要だ。だから・・・俺の気持ちを受け入れてくれ」 

 

精一杯の言葉も同じ言葉の繰り返しだと気付き、直ぐに胸の中からディアナが首を振るのが伝わって来るから、どうしたらいいんだと固まってしまう。頭を真っ白にしていると、俯いたディアナから掠れた声が聞こえて来た。 

 

「もう・・・夢から目覚めます」 

「わ、わかってくれたのか? そうか、目覚めてくれるか」 

 

ディアナの言葉に肩を掴み顔を見ると、そこには悲しみを湛えた表情があり、ギルバードは眉を顰めた。目覚めてくれるという言葉に喜びそうになった自分が愚かしい。そんなに上手くいくはずないと項垂れそうになると、ディアナが肩を掴んだ手に触れてきた。 

 

「お願いで御座います。・・・目が覚めた私を、どうかアラントルに帰らせて下さい」 

「ディアナ・・・」 

 

やはりそうくるかと瞑目しそうになるが、もちろん諦めるつもりなどない。

ディアナを抱き上げたギルバードは真白い世界を見回し、「ディアナの部屋へ」と呟いた。

 

 


 

 

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