紅王子と侍女姫  76

 

 

「殿下。ディアナ嬢が無事に目覚められ、王太子妃になることに同意されたと伺い、大変喜ばしいとは存じますが、その緩みきったダラシナイ顔はどうにかなりませんかねぇ。それなりに整った顔だと思っておりましたが、今は目を背けたくなるほど気持ち悪いです」

「んん? そうか、それは悪いなぁ」 

レオンからの嫌味も、余裕を持って右から左へ聞き流すことが出来る。

ディアナが眠り続けていた間、真摯に政務を熟していたため大方の書類は片付き、今は差し出される書簡に目を通し、サインして蝋封する作業を繰り返していた。

 

「王と宰相にもレオンと同じことを言われた。騎士団長には騎士らのやる気が削げるから、しばらくの間は顔を出すなと言われた。口に出さずに態度で示すのはローヴだけだが、あの調子では、いつ息が止まるかと心配になるほどだ」 

視察を中断したままの同盟国には、少し時期をずらして改めて伺わせて貰いたいと封書を送り了承を得ており、寒さに強い小麦の視察や売買などは次回話し合うことになっている。

ただ視察前に宰相から話があり、同盟強化を望む視察先の国が婚姻話を以前に持ち込んでいたと聞いた。未だ婚姻の申し込みが持ち込まれるが、それも王の生誕祝いの舞踏会までの我慢だ。揃いの衣装に身を包んだ二人が舞踏会で仲睦まじく踊る姿に、王太子妃は決まったのだと瞬く間に広がることだろう。

そうだ、結婚式はいつにしようか。

本当ならすぐにでも挙げたいが、その前に彼女の両親に挨拶に行かなければならない。

ディアナはリグニス侯爵家の息女だ。本来なら正式な手順が必要だが、既に本人から承諾を貰っているし、ディアナの両親も驚きこそすれ拒否は無いだろう。・・・たぶん。

ああ、ディアナの姉上が式を挙げられた教会でもいいな。

城に従事する者や町の皆に祝福されたら、きっとディアナも喜ぶだろうな。淡く上気した頬を包み込み、涙が浮かぶ碧の瞳を見つめ、そして二人は誓いのキスを―――――。

 

「殿下、少しはその顔を引き締めようと努めながら手を動かして下さい。何を妄想されているのか容易に想像出来ますが、そんな顔を見られたら百年の恋も冷めますよ」

「んん? そうか、それは困るなぁ」

「あ、生誕祝いの舞踏会で着用されるドレスが届けられております。ディアナ嬢の体調がよろしい時に最終調整の時間を頂きたいと仕立屋から言われております。念のため、今度は東宮侍女なり、カリーナ様を配された方がいいですね」

「ああ、そうだな。あとは宝飾か。時間がある時に王城に来てもらうよう、手配を頼む」 

これからは何事も性急に進めようとせずに時間を掛け、ひとつひとつ彼女の憂いや戸惑いを減らしていこう。何も心配することなどないと解かってもらい、彼女が心から寛げる環境を俺が作るべきだ。避けることの出来ない王宮行事も、その時その都度、俺が支えて共に乗り越えていけばいいだけだ。

 

「レオン、陳情に関する会議は明日から三日間だったよな。その後、十日間ほど時間を作れないだろうか? 舞踏会前に、ディアナの両親へ挨拶に伺いたい」

「無理ですね。視察が中断したままの同盟国へ向かう予定となっております」

「・・・え? そ、それは次回話し合うということに」

「寒冷地に強い小麦の視察は、これ以上時期を伸ばすと刈取りが始まり、視察が出来なくなります。ですから早々に視察に向かい、苗の売買交渉を済ませて下さい」

「・・・そう、か・・・」 

攫われたディアナを取り戻すことが出来たが、眠り続ける彼女が心配で視察を後回しにしていたのは事実。確かにこれ以上時間が経てば刈取りが始まり、生育状態の視察は出来なくなるだろう。他国に首を突っ込まれて値が上がる可能性もあるし、早目に視察や交渉を行なう方がいいに決まっている。

 

「殿下が視察兼交渉に行かれている間、ディアナ嬢は一度アラントル領にお戻りになられたらいかがでしょうか。ずっと戻れない状態が続いていましたし、アラントル領主も魔法が解けた後の御息女を心配されていらっしゃるでしょう」

「え?」 

レオンの台詞にギルバードは目を瞠り、そして内容を把握すると共に言葉を失った。

自分もディアナも魔法が解けた報告は書簡で送っているが、十年もの長い間、侍女として過ごしていた娘が本来の姿を取り戻したのか、実際のところ真偽も判らず心配していることだろう。本来の姿を取り戻したと言っていいのか不安が残るが、確かに魔法は解けている。

元気な姿を見てもらえば、それは解かって貰えるはずだ。

だが、自領に行った彼女はすぐに戻って来てくれるだろうか。自領の居心地の良さを思い出し、窮屈な王城に戻るのを厭うことは無いだろうか。行くなら一緒に・・・・。

 

「愛おしいと思われるのは結構ですが、束縛が過ぎると嫌われますよ」

「束縛・・・・。嫌われ・・・」

「魔法を解くためにと王城に連れ来られてから、ディアナ嬢は慣れない場所で頑張っておられた。妃にされる前に、慣れ親しんだ故郷の空気を味わう時間を作って差し上げてはいかがですか? 少しくらい離れていても二人の絆は固く結ばれているのでしょう? それとも、まだ不安が?」

「・・・いや、もう離れないとディアナは言ってくれた」 

レオンが咽喉の奥で笑いながら、では書簡を届けて参りますと執務室を出て行った。

奴が言うことはいちいち尤もなことばかりで反論すべき言葉が無い。

確かにディアナを無理やり王城に連れて来たのは自分だ。魔法を解くためとはいえ、その後も滞在させ続け、結果攫われ怪我を負う事態まで起こっていた。彼女を泣かせ、彼女に大声を出させ、彼女を戸惑わせているのは全て自分が原因だ。

振り返れば王城に来てから、まったりとした時間を彼女に与えたことがあっただろうか。

いつも周囲を気遣うばかりのディアナは、言いたいことがあっても飲み込んでいたかも知れない。そう思い至ったギルバードは部屋から飛び出していた。

 

 

 

 

「ディアナ! どうか俺を嫌わないでくれっ!」

「で、殿下? どうなさったのですか」 

艶のある紫みを帯びたドレスを着たディアナは、突然開け放たれた扉から現れた王子に驚き目を丸くした。さらに縋るように強く抱き着かれ、俺が悪かったと、俺を嫌わないでくれと繰り返すから戸惑ってしまう。ここ数日、王子はフルーツジャムの上にたっぷりの蜜をかけ、さらに水飴と砂糖でデコレーションしているかのような甘い笑みを携え部屋に訪れていた。

それが急にどうしたのだろうと背を撫でると、抱き締める力が強くなり、くぐもった声が聞こえて来る。

 

「・・・陳情を兼ねた会議が三日続き、その後視察のため、しばらく王城を離れる」

「そうですか。季節の変わり目ですので体調にはくれぐれもお気を付け下さいませ。あの、その報告に来て下さったのですか? 悪かったとは、いったい何が・・・」

「その前に、体調はどうだ? しっかり食べているか?」 

拘束が解かれると目の前には眉を寄せた王子の表情があり、ディアナは口を開けたまま呆けてしまう。ここ数日は三食全て王子と共にしている。というか王子が食事を運ばれるため、一緒に食べざるを得ないと言った方がいいのだろうか。更に休息時間だ、おやつの時間だと果実や異国の珍しい菓子を持参され、政務は大丈夫かしらと心配になるほどだ。そして毎回レオンや侍従らしき人が迎えに来て、王子は残念そうに退室していく。食欲の有無は王子の方が良く御存知だろうと思ったが、そこは笑顔で返答する。 

 

「はい、しっかり頂いております。体調も良くなりましたので勉強を再開し、つい先程までローヴ様より御教授を頂いておりました。薬湯も、もう必要ないとのことです」 

「そうか、そう・・・か」  

妙としか思えない表情を浮かべて床に座り込む王子を追うようにしゃがみ込んだディアナは何があったのか判らないまま背を擦る。視察に向かうと言っていたが、何か不安があるのだろうか。

その前に悪かった、嫌わないで欲しいとは如何いう意味なのだろう。 

 

「あの、殿下が視察で王城を離れることと、私の体調が何か関係しているのでしょうか。私で役に立てることがありましたら、おっしゃって下さい」 

「ディアナ・・・、俺は心が狭い」 

「・・・殿下?」  

何を言われたか理解出来ず、ディアナは首を傾げた。王子の心が狭いなど思うはずがない。侍女の火傷を心配して薬まで渡してくれた優しい人だ。謝罪するたび、傷付いたような顔で温かく包み込んでくれる人。相手が誰であれ全く態度が変わらない、寛容の精神をお持ちの敬愛する御方だ。 

 

「俺が視察で王城を離れている間、ディアナに頼みがある。・・・どうか、どうか俺を嫌うことなく、そして忘れないで欲しいっ!」 

「? それは・・・あの、どういった話の流れで、そのようなことを」 

「レオンに言われた・・・。束縛が過ぎて、ディアナに嫌わられてしまう可能性があると。魔法が解けた報告も書簡で済ませただけで、きっとディアナの親は心配し続けていただろう。魔法が解けたと報告が来ているのに、何故娘は帰って来ないのだと心配しているに決まっている。それなのに俺はディアナに何度も帰るなと、戻るなと・・・・」 

「で、でも滞在が長くなったのは国王様より舞踏会に招待されたり、攫われたり、怪我の手当てや眠り続けていたためで・・・。それに自領に帰りたいと言っていたのは、殿下の側に居る資格が自分にはないと思っていたからです。今は、そのように考えませんから」  

ようやく顔を上げてくれた王子が目を大きく見開き、そして手を伸ばして来た。

そう来るだろうと予測していたディアナだが、勢いよく抱き着かれては受け止めきれない。

アッと思う間もなく背後に倒れてしまい、王子の額と自分の後頭部から鈍い音が響き、そして暫くの間、二人は呻き声を上げながら床上でのた打ち回ることになった。

 

 

「ディアナ・・・悪い、本当に・・・ごめん」 

「私はもう大丈夫です。殿下の痛みはいかがですか?」

「いや、俺も大丈夫だ。・・・本当に悪かった」  

ソファに移動した王子は見るからに憔悴している。しっかり受け止めることが出来なかったと項垂れそうになったディアナは、そう考える自分に笑いそうになる。長身で体躯の良い王子を受け止めるなど、どうして出来ると思ったのだろうか。額を擦りながら申し訳なさそうな表情の王子に、ディアナは大丈夫ですからと笑みを向けた。  

「野菜の収穫時に、勢い余って引っくり返ることがありましたので慣れております。それより、私が殿下を嫌うなど、天地が引っくり返ってもありません。しっかり食事も取ります。ですから殿下は心置きなく視察に行かれて下さい」

「ディアナっ!」 

今度はソファ上で抱き締められるが、驚くほど強く抱き締めて来るから息が詰まる。苦しいと訴えることも出来ないほどの強さに戸惑いながら、ディアナは必死に笑みを浮かべた。 

 

「俺が視察に行っている間、ディアナはアラントルの御両親の許へ行くことをレオンに提案された。正式に王太子妃となれば、王城より出ることは殆どない。そもそも親の許可もなくディアナを妃にしたいと望む俺が間違っていたんだよな。・・・だから、俺が視察に行っている間、ディアナはアラントルの実家でゆっくり過ごして欲しい。視察が終わったらアラントルに向かい、その時君の御両親にディアナを妃に望んでいると話しをする」  

これからの段取りを話しながら、ギルバードは背に滲む汗を感じた。

勝手に盛り上がって話しを進めていたが、ディアナは侯爵家の娘であり、社交界デビューもしていない深窓の令嬢・・・となっている。それがいきなり攫われるように王城に連れ来られ、初期の目的を果たした後も解放せずにいる状態。考えてみれば、軟禁状態と取られても仕方がないのではなかろうか。 

 

「ディアナ・・・本当に俺を好きでいてくれるか?」 

「え、あ、あの・・・、はい」 

「言い淀んだのは恥ずかしいからか?」 

「そっ、そうです。殿下? ・・・何か、不安に感じていらっしゃるのでしょうか」  

真っ直ぐに見上げて来る碧の瞳。逸らすことなく、俯くことなく自分を見つめてくれる彼女を目にして、ギルバードは大きく息を吐いた。  

「不安だらけだ。ディアナが俺を好きでいてくれるよう願っているが、誰かを好きになったのが初めてで、狼狽えるばかりだ。俺に好かれる要素があるのか、考えると不安になる。情けないところを見せてばかりだが、ずっと側にいて欲しいんだ」 

「・・・殿下の側におります。私の方こそ不安に駆られるたびに逃げてばかりで、殿下に迷惑をお掛けしていました。でも、これからはずっとお側にいさせて下さい。アラントルで、殿下のお越しをお待ちしております。一緒に・・・報告させて下さい」  

仄かに頬を染めたディアナが笑みを浮かべる。長い眠りから目覚めた彼女は朝露を纏い咲き始めた花のようで、一時でも離れているのが辛い。今いる場所は、ディアナが自ら望んで居る場所じゃない。だけど彼女なしに、もう自分の人生はないとさえ思う。

愛しいと思う気持ちがこんなにも温かく、そして苦しいとは知らなかった。

それを教えてくれるのは、与えてくれるのは目の前のディアナだ。 

ギルバードはソファから降りると跪き、彼女の手を取り甲に口付けた。 

 

「私、ギルバード・グレイ・エルドイドはディアナ・リグニスに求婚する。この先の人生を共に過ごし、幸せも苦しみも分かち合いたい」  

微かに触れた王子の唇が離れると、強い視線に絡み取られる。それは清廉に輝く黒曜石の瞳から放たれる視線だ。何も考えることが出来ず、惚けたままディアナは無意識に頷いた。

視界の端に見えた王子の手の拭うような動きに、自分は泣いているのだと気付く。

涙を拭いながら王子が微笑んで見つめてくれる。

それが嬉しいと、ディアナは止めどなく流れる涙を拭うこともせずに笑みを返した。 

 

「わ、たし、ディアナ・リグニスは、エルドイド国王太子殿下からの申し込みを・・・お受けさせて頂きます。これからは、幸せも苦しみも・・・共に」 

 

ボロボロと涙を零しながらディアナが微笑んで応えてくれる。

眦に唇を寄せると小さく笑う。眦から頬、耳朶へと幾つものキスを落とすと、擽ったそうに肩を竦まれた。その可愛らしい仕種に、離れたくない、視察に行きたくないと思ってしまうのは仕方がないだろう。

 

「アラントルで待っていてくれ。そして、もう一度求婚させて欲しい」 

「もう一度、ですか?」 

「そうだ、君の両親の前でもう一度申し込みをさせてくれ。王の生誕祝いの舞踏会で、王太子妃はディアナ・リグニスだと布告する件も伝える。・・・い、いいだろうか」 

「あの、御領主・・・いえ、両親の前で求婚・・・は」 

「ん? もしかして恥ずかしいか?」 

視線を落としたディアナに問うと、驚いたように震え、そして小さく頷かれる。

その目元と頬を染めた恥らう姿に、気付けば口付けていた。

啄むようなキスを繰り返していると、ディアナが吐息を零す。薄く開いた唇を柔々と喰み、舌を挿し込み咥内に広がる甘みを味わう。逃げ惑う舌を追い掛け、吸い上げ絡み取った。喘ぐような吐息に背が震え、もっと欲しいと引き寄せる。

引き寄せ、掴み、いつしか弄るような動きなっていたのも知らず、貪るように口付け続けていた。

突然ディアナの身体が跳ねるような動きを見せ、そして胸を強く押される。

潤んだ瞳を瞬きながら顔を逸らす彼女に気付き、またも強引な態度を取ってしまったかと焦りながら、引き剥がすような手の動きに視線を落とした。ディアナが自分の手を必死に、ある場所から遠ざけようとしていると判り、ギルバードは己の手が何処にあるかを理解して悲鳴を上げた。 

 

「・・・ひぃ! あ、あ、俺は、なん、なんてことをぉっ!」 

「っ! い、いえ・・・、あ、あの・・・」  

両手を上げたギルバードは自分が信じれないと首を振る。 

今まで何度も口付けた。

振り返れば、激情に駆られ貪るように口付けたことも首に痕が残るほど強く吸いついたこともあったが、知らぬ間に、許可もなく、求婚したばかりだというのに! 愛しいディアナの胸を・・・・まさか鷲掴みしていたなど、到底信じられない。

愕然としながら弱々しく首を振っていると、そっと顔を上げたディアナが視線を逸らして口を開いた。 

 

「お、驚いただけですから・・・。あ、あの・・・わ、私はいつ出立したら良いのでしょうか」 

「う、あ・・・。い、いつでもいいが、準備が整ったら教えて欲しい。それと、今のは本当に悪かった! 手、手が勝手に・・・その、む、胸を」 

「も、もう、それ以上は・・・」  

目を瞬かせるディアナが耳朶から項まで赤く染める。

申し訳ないと思いながら、手に残る感触に口元が緩みそうになるから、ギルバードは必死に唇を噛んだ。無意識な行動とはいえ、目にした時の衝撃と感触に手が妙な動きをしそうになる。手に残る感触は弾力があり、しかし硬かった。脳裏に浮かぶのは馬車で外したコルセットなる下着。

あれが胸周りを覆っているなら、硬いのも道理。

そしてコルセットを外した時に目にした、真白く柔らかな肌を思い出し・・・・。 

 

「うああああっ! 俺は何を思い出して・・・駄目だっ、俺は不潔だ! ああディアナ、本当に俺を嫌わないでくれ! 婚姻が済むまでは自重すると約束するから! 頼む、ディアナァ!」 

「もっ、もう、それ以上はっ! ・・・恥ずかしくて息がっ」 

 

頭を抱えて叫ぶギルバードと、羞恥が激しく顔を上げることが出来ないディアナ。 

やがて訪れたレオンが呆れたように二人を見つめ、何があったのかと問い掛けた。息を飲み固まる二人にレオンは何かを察し、口端を持ち上げながら王子を執務室に引き摺って行く。一人部屋に残ったディアナは、涙目のままソファに崩れ落ちた。

 

 


 

 

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