くぐもった声が聞こえると同時に、王子の大きな手が瞼を覆う。
大丈夫、怖くない。近くにいるのは獣ではなく、本当はギルバード王子だから怖くない。
・・・私が怖いのは目を開けた時、王子に怯えた顔を見せてしまわないかだ。ギルバード王子だと解かっていても化け物を目にした瞬間、叫ばないとも限らない。それが、それだけが本当に怖い。そうならないように祈っている内に肩に力が入っていたのだろう、瞼を覆っている手とは反対の手に肩を叩かれた。
「ディアナ・・・、気負うことは無いからな。まずは後ろを見てくれ」
王子の気遣いにディアナが大きく息を吐き、強張っていた肩から力を抜いて頷くと頭を撫でられた。
耳に届く声に胸が痛む。目を閉じただけで獣の姿は掻き消え、触れている手を温かく感じることが出来るのに、声はくぐもった獣のままだ。今さらだが、どうして私は魔法導師に差し出されたものを素直に口にしたのだろう。攫われたとはいえ幾日も一緒に過ごしたせいで気が緩んでいたのだろうか。結果、王子に罵声を浴びせることになったのだ。ディアナは己の不甲斐無さと王子に対しての申し訳なさに、この場から消えてしまいたいと項垂れそうになる。
意気消沈していたディアナの耳に、くぐもった声が届く。
「ディアナ。ゆっくり目を開けて、まずは横に転がっている男を見て欲しい」
「・・・はい」
目を開けると寝台近くの床に転がっている男の姿が見えた。見覚えのある男は魔法導師の一人だとすぐに判る。ディアナが見たと告げると今度は「外も見て欲しい」と言われ、視線を向けると破壊された壁が見えて目を丸くしてしまった。壁の瓦礫と思われるものと共に転がる男の姿があり、彼も魔法導師の一人だとわかる。
「ディアナ、この二人に見覚えはあるか? 奴らはビクトリア王女配下の魔法導師で、ディアナを攫った者たちらしいが間違いないか?」
「はい、そうです。ですが二人ではありません。私が見たのは三人です」
「三人? じゃあ、残り一人は何処にいるんだ? 俺はこの二人しか見ていないが」
「この人たちは・・・殿下にバールベイジの王女様を会わせたいがために私を攫ったと言っていました。それがこの人たちの仕事で、どうしても遂行しなければならないのだとも言っていました。逆らうことが出来ないと、退くに退けない理由があると苦しそうに。そして私に、攫って悪かったと、赦してくれと何度も言っていました。・・・・・助けに来て下さった殿下に申し上げるべきではないと承知しています。でも、どうか彼らの話しを聞いては頂けないでしょうか」
「ディアナ・・・。はぁ・・・」
背後からくぐもった嘆息が聞こえ、振り向こうとして止められる。王子は間違いなく呆れていることだろう。だけど苦しげな表情で訴えていた彼らの表情が脳裏に浮かび、気付けば口から零れてしまった。
何度も何度も攫われ、王子に迷惑と心配を掛け続けている自分が言うべき台詞ではないとは解かっているが、自分が係わっていることで誰かが苦しんでいるのは辛いと唇を噛んだ。
横で何かを引っ張る音が聞こえ、驚き振り向こうとして「動くな」と頭を押さえられる。
視界の端には男たちが二人揃って掛布にぴっちりと包まれているのが見えた。怪我はないのかと顔を顰めると、王子が「逃げないように縛っただけだ。ディアナが心配するようなことはしていない」と説明をくれる。どうして思っていることが判ったのか尋ねると、ディアナの考えていることはお見通しだと、背後から深い溜め息が聞こえて来るから恥ずかしくなる。
そして思い出した。王子の顔を見るために魔法を解いてもらったのだと。
「あの・・・、殿下のお姿を見せては頂けませんか?」
「もう少し動かないでくれ。・・・少しディアナに聞きたいことがある。い、言い難ければ答えなくてもいい。・・・いや、正直に話してくれた方がいいが、いま無理に答えなくても・・・だが」
くぐもった声が掠れて更に聞き難くなり、頭を押さえていた手でディアナの髪をくしゃくしゃに掻き乱し始めた。王子が何を訊きたいのか解らず、ディアナは口を閉じて問いを待つ。
「ディアナの・・・て、手首に縄の痕がある。ドレスも汚れているし、髪は切られている。攫われている間に、その・・・他に何か・・・何か厭なことはされなかったか? い、痛い思いとか・・・は、恥ずかしいこととか」
言われて視線を落とすと確かに手首に縄目がある。
「・・・何度か縛られていたので、腕とか痛かったことはありますが、食事や水は飲ませてくれました。移動する時に袋に入れられて、藁でチクチクして困ったのは覚えています。ほとんど眠らされていたので、殿下のおっしゃる『恥ずかしいこと』はわかりません。・・・っ?」
急に髪を引っ張られ、驚いて振り向こうとして頭を掴まれた。動くなと言われていたのに、申し訳ない。
背後から舌打ちが聞こえてくるから、一層不安になる。
「何度も縛られた、だと? 食事とか、水とか・・・あいつらがディアナの口に運んだと?」
「いえっ、食事は自分で食べました。あ、恥ずかしいといえば、ずっと同じ服を着たままですので臭うかもしれません。お風呂も入っていませんし・・・あまり近寄らない方がいいと思い・・・ます」
言っていて恥ずかしくなる。もう何日同じ服のままなのだろう。船にも乗ったし、埃が舞う教会の床に転がっていたこともある。王子が助けに来てくれたことは嬉しいが、臭いと思われるのは恥ずかしい。
ディアナが肩を竦めると、背後から大きな溜め息が聞こえて来た。
「ディアナ、その・・・では、ドレスを脱がされたりはしていないということだな」
「はい、着たきりです。あ・・・に、臭いますか?」
口にした後で後悔する。臭いますかなど、王子に確かめさせるつもりなど微塵もないが、ポロリと零れてしまった。慌てて振り向こうとしても頭を掴まれているから動けない。
「す、すいませんっ。絶対臭うと思いますから、は、離れて下さいっ!」
恥ずかし過ぎて、すぐにでもこの場から逃げ出したいと頭を掴んでいる手を振り解こうとした。
その寸前、大きな黒いものが視界を過ぎり、それが獣の腕だと理解したと同時に背後から圧し掛かるように抱き締められる。強く抱き締める腕には真っ黒な毛が蠢いているように見え、それなのに目を閉じると王子の腕だと確信出来るから、不思議としか言いようがない。
「あ、・・・怖いか?」
「いいえ。もう殿下の腕だと分かっていますから怖くありません」
「そう、か・・・。ディアナ、臭くないから離れてくれなんて・・・言うな」
頭に何度もキスが落とされ、ディアナは羞恥に頬を染めた。王子は臭くないと言ってくれたが、埃まみれの汚れたドレスが目に映り、優しい気遣いに申し訳なさが募る。そして降り注ぐような慈しみの籠もったキスが嬉しくて、目が潤んで来た。
「離れて欲しいなどと言ってしまい、申し訳御座いません。それと、殿下に対して怖がって泣いたり叫んだりして、本当に申し訳ありませんでした。でも、もう怖くありませんから大丈夫です。・・・・どうか殿下の御顔を見せて頂けませんか?」
大丈夫だと意気込むディアナの背が反り返るように伸びたのがわかった。
それが哀しいと思うのは何故だろう。ギルバードに係わったが為にまた攫われたと、王子のせいで恐ろしい目に遭ったと泣かれ、喚かれ、罵倒された方が気持ち的には楽かも知れない。
さらにディアナは事もあろうに自分を攫った魔法導師の行く末まで心配している。
奴らは、王女から厳命されたギルバードとの婚姻締結のために動いているだけだ。あの性格が斜め上に捻じれ上がっている王女とギルバードを結婚させるために、自領で久し振りに両親とゆったりと過ごしていたディアナを攫い、綺麗なプラチナブロンドを無残に切り落とし、その髪で罠を仕掛け、捜索隊を振り回すだけ振り回した輩だ。口を開けば、先に捕えた魔法導師と同じように王女と婚姻を結んでくれと、同じ懇願を繰り返すばかり。そんな懇願、むろん聞ける訳が無い。
ディアナは彼らの願いを承知の上で、彼らの話を聞けというのだろうか。本当に許容度が広いというか寛大な精神を持っているというか、自分を攫った犯人に対して寛容過ぎるのではないだろうか。
それとも俺のことなどどうでもいいと・・・・・?
いやいや、ディアナは俺の髪を撫でたい、俺の目を見たいと言っていたじゃないか。深い脱力感に包まれながら首を振り、ギルバードは目の前のプラチナブロンドにもう一度キスを落とした。
「頼む。・・・少し、目を閉じたままで・・・」
ギルバードがディアナの耳元にそう呟きを落とすと、驚くほどディアナの身体が跳ね上がる。じわじわと赤く染まり出す耳朶が可愛くて見蕩れていると、回した腕におずおずとディアナの手が重なり、切ない思いが溢れそうになる。
ディアナが気に掛けるのはいつも自分以外だ。他を気遣い、何か自分に出来ることはないかと模索する。侍女として長く仕えていた奉仕癖が抜けないだけでなく、それは彼女の元々の性分なのだろう。
それでも彼女が言ってくれた、ギルバードの黒髪を撫でたい、他者から厭われ続けた魔性の紅い目を見たいという言葉に癒される。いつまでも変わらない愛しいディアナを腕に抱きながら、ギルバードは何度目かの謝罪をした。
「しつこいようだが、ディアナを助けに来るのが遅くなって本当に悪かった。ディアナに誓っていたのにまた攫われ、その上髪を切られ、怖い思いをさせてしまった。何度謝っても足りないのは承知だが、どうか・・・俺を嫌わないで欲しい。俺が俺の妃にしたいと望むのはディアナだけで、ディアナが今回のことで俺のことが嫌いになったと言っても、俺は・・・・諦めることなど出来ない」
「殿下が謝ることなど何もありません! 殿下は助けに来て下さいました。攫われたのは私が勝手に城の外に出たからです。・・・エディ様にも御心配をかけたと反省しております」
想像通りの返答に、ギルバードは苦笑いを浮かべる。ディアナは俺に怒ることがあるのだろうか。
そういえば船上で叱咤されたなと思い出す。魔法を暴走させる俺を諌めるため、ディアナは自身が傷付いているにも拘らず、ぶつけるようにキスをしてくれた。あれをキスとしてカウントしていいのか悩みどころだが、嬉しかったから良しとしよう。
「じゃあ、そのまま目を閉じていてくれ。俺が手を握ったらゆっくり目を開けて、怖いと思ったら直ぐに目を閉じろ。怖かったら叫んでもいいからな。我慢はするな、いいな?」
「はい、殿下」
「本当に無理はするなよ? ・・・目を開けたら、まずは膝上の手だけを見てくれ」
目を閉じたのを確認して、ギルバードはディアナの前に移動する。膝上で重ねられた手を見つめ、目を閉じたままのディアナを見つめた。そして意を決してディアナの手を、きゅっと握る。
ディアナが怯えないようにと祈っているギルバードの耳に、何故か、まぁ、と感嘆の声が聞こえた。
「とても不思議です。目に見えるのは黒い獣の手ですのに、今まで見えていた毛の感触がありません。触れているのは・・・殿下の手、なのですね」
「ああ、そうだ。・・・ディアナ、大丈夫か? 無理をしていないか?」
「ええ、大丈夫です。触れているのは殿下の手ですから、少しも怖くありません。さっきまで怯えていた自分が嘘のようで、いまは毛に触れられないのが少し残念に思うくらいで・・・。あ、申し訳御座いません。殿下をたくさん困らせたのに、こんなこと言って」
クスクス笑いながら握った手を眺めるディアナの髪が肩でふわりと揺れる。ギルバードは安堵して肩から力を抜き、両手を重ねた。ディアナは驚くことなく指を絡め、愛しそうに微笑む。
「本当に少しも怖くありません。・・・殿下、お顔を見てもよろしいですか?」
ディアナの手をきゅっと握り、許可を出す。
心臓が口から出そうだと思いながら唇を引き結び、ディアナの視線が上がって行くのを待つ。
「・・・・」
互いの視線が重なると僅かにディアナの表情が強張るが、ギルバードがその目を覆う前に手を握られた。強張りを解いたディアナが真っ直ぐに見つめて来る。その瞳に恐怖の影はない。だが、その表情がいつ変わるかと、ギルバードの心臓は忙しく跳ね続けた。
ディアナが攫われた時は怒りと焦燥感でいっぱいだったが、今はそれとは違った焦燥感と恐怖に対峙している。あの怯えた目で見られるのも、来ないでと叫ばれるのも勘弁だ。アレは駄目だ。本当に心臓が止まるかと思った。
大丈夫だと言うディアナを信じたいが、我慢強い彼女のこと。本当は無理をさせているのではないか、恐怖に固まっているのではないかと、ギルバードは緊張してしまう。
しかしディアナは柔らかな笑みを浮かべ、解いた手でギルバードの頬に触れてきた。
「怖くありません。獣の瞳が・・・さっきと違って見えて・・・。目の前で輝いているのは、私の好きな紅い瞳です。宝石のように綺麗な、魔法を使っている時の殿下の瞳です」
「・・・ディアナ・・・、キスしてもいいか?」
きょとんとした表情となったディアナが意味を理解しようと瞬きをした。
その可愛い表情を前に、ギルバードの我慢も限界になる。いま自分の姿がディアナの目には世にも恐ろしく禍々しい化け物に見えていることなど、ギルバードはすっかり忘れて懇願を繰り返す。
「え・・・と、あの・・・でも」
「どうか許可を。キスをしてもいいと。・・・頼む、ディアナ」
頬を染めて視線を彷徨わせるディアナの手を掴み、甲に口付けながら、じっと見上げる。
じわりと潤んだ瞳がそっと閉じられたと同時に頬に手を宛がい、ギルバードは顔を近付けた。唇に触れるだけのキスを落とし、震える瞼や頬、額にも口付ける。甘い吐息が零れる唇にもう一度口付け、下唇を食んで舌でなぞり、そっとディアナを抱き締めた。
久し振りに堪能する香りと柔らかさに逆上せそうになる。
ディアナ自身の香りを胸いっぱい吸い込んでいると床板がギシリと鈍い音を立てた。そこでギルバードは自分が今にもディアナを押し倒そうとしていることに気付く。眼下のディアナは何処に掴まっていいのか判らず、胸前で握り締めた手をぷるぷる震わせながら仰け反っていた。
「―――・・・くっ。い、ま、は・・・我慢だ、俺っ」
ギルバードは理性を総動員させてどうにかディアナを解放することに成功するが、ふと視線を落とすと真っ赤な顔で俯くディアナの濡れた唇が見え、気付けばまた抱き締めていた。
「ごめんっ、もう少しだけ!」
「・・・ゃっ」
ディアナの優しい気持ちに胡坐を掻いているのは重々承知だ。
それでも無事なディアナに逢えたこと、ディアナと触れ合っていることに感謝して腕に掻き抱く。小さな抗いなど気にならない。ただ愛しいと伝えるために抱き締めているだけだ。
そう胸中で言い訳をしながらディアナの背を撫で回しながら引き寄せ、頭や額、耳朶や頬に口付けた。
「ギルバード殿下ーっ!」
「・・・がっ!」
怒声が響くと同時に痛みが奔り、ギルバードは壁に吹っ飛んだ。突然の襲来に狼狽えながら振り向くと、そこには鬼の形相で杖を震わせているカイトが立っていて、ギルバードは一気に蒼褪める。
直後にレオンとエディも現れ、大きく目を見開いたまま固まっているディアナの姿に安堵の息を吐きながら顔を曇らせる。
「ディアナ嬢っ、大丈夫? どこにも怪我はない? ごめんね、城から出ないでって伝えるのが遅くなったから、こんなことに。・・・ディアナ嬢の髪、切られちゃって・・・ごめんよぉ」
「い、いいえ! エディ様に声も掛けずに外に出た私が悪いのですから、どうかお気になさらずに」
「心配しておりました、ディアナ嬢。よくぞ御無事で・・・。ああ、ディアナ嬢のお美しい御髪がなんと無残なことに。王城に戻りましたら、直ぐに私手ずから整えて差し上げますからね」
「あ、ありがとう御座います、レオン様。御心配をお掛けて、本当に申し訳御座いません」
「ディアナ嬢、助けに来るのが遅くなり申し訳御座いません」
「そんな来て下さっただけで・・・え? ・・・あ、瑠璃宮の魔法導師様、でしょうか? もしや以前、山に助けに来て下さった魔法導師様ですか?」
床に転がったままのギルバード王子を杖で突いている魔法導師の柔和な笑みに見覚えがあり、ディアナは目を瞬いた。エレノアに連れ去られた山中で王子に助け出された後、大きな鳥が人に変化するのを朧気に思い出したディアナは、自分を探すために瑠璃宮の魔法導師の力も借りたのだと理解する。
「以前、お会いした時は御挨拶もせず失礼しました。私の名は、カイトと申します」
「カイト様、あの時助けに来て下さった御礼を伝えるのが遅くなり、本当に申し訳御座いません。今回も助けに来て下さり、ありがとう御座います」
「いえ、残念なことに間に合わず、ディアナ嬢の美しい髪が切られてしまいました。それと何か飲まされたようですが、御不調はどのようなものですか? 怪我などは御座いませんか?」
カイトの杖で押さえられたままの、黒い獣にしか見えない王子に視線を移し、ディアナはどう答えようか困ってしまった。咳払いした王子が杖を退かし、立ち上がるとカイトらに説明を始める。
数日間ディアナを探し続け、助けてくれた王子の姿が禍々しい化け物に見えるなど申し訳ない。王子の真心を裏切っている気分だ。それでもディアナの目の前には黒獣がいて、くぐもった声でレオンやエディに説明を続けている。もう怖いとは思わないが、そう見えてしまうことが申し訳なくて仕方がない。
「ディアナ嬢。見えるのは化け物でも、触れると人間の手だとわかるのですね? 視覚だけが殿下を化け物に見せていると?」
「あとは声です。殿下のお声が、くぐもって聞こえ難いです。でも殿下だと判りましたので、御姿はもう怖くありません。ただ、・・・そう見えることが申し訳なく思います」
レオンが床に零れていた液体をハンカチに沁み込ませ、カイトに差し出した。カイトがそれを嗅いだ後、ふむ、と目を細める仕草にディアナは知らず両手を組んで見つめてしまう。
「たぶん・・・ですが、これは何度も服用することで効果を持続、増長させる作用があるようですね。ディアナ嬢、これを何度飲みましたか? ああ、無理やり飲まされたのは承知です。魔法でディアナ嬢の意識を奪い、飲むよう強制したのでしょう」
「い、幾度口にしたのか判りません。・・・解毒剤を飲んだら効果はすぐに消えますか?」
自分でも蒼褪めているだろうと思う。黒獣が王子だと判った今、視界に映っていても怖くはない。だけど出来ることなら本来の王子の姿を見たい。
するとレオンとエディが両手で口を隠すように覆い、全身をガタガタと震わせ出した。
「ば、化け物、に見えるって? ギルバード殿下の姿が? 毛だらけの、紅い目の化け物に?」
「ああっ、出来ればディアナ嬢の目に映る殿下の姿を、急ぎ絵師に描かせたいものです」
「おまえらぁ・・・、俺がどれだけディアナに怯えられたと思う? ディアナの泣き顔など見たくないのに、俺が近付くことで余計に泣かせてしまって、俺はめちゃくちゃ焦ったんだぞ!」
「・・・っ! 申し訳御座いません、殿下!」
ギルバード王子の苛立ちを耳にして、ディアナは慌てて床に手を着いた。しっかりと王子を見上げ、もう怯えていないと目に力を入れる。驚いたのはギルバードの方で、謝罪は要らないと床から手を剥がすが、ディアナは短くなった髪を振り乱して、謝罪を繰り返す。
「た、確かに、いま私の目に殿下は黒い獣と映っておりますが、本当に怖くはありません。目にする姿と触れる姿が違うことに驚きましたが、もう本当に怖くなどないのです!」
「ディアナ、いいから!」
「も、申し訳・・・ござ、いません・・・」
王子に抱き上げられて背を撫でられたディアナは、時を遡って叫んだ自分の口を塞ぎたいと切望した。思い浮かんだのは幼い頃の自分だ。王宮の庭園で不用意なことを口にしてしまった自分。同じことを繰り返している愚かな自分に愕然とし、泣き出しそうな感情を堪えるだけで精一杯になる。
「それは気にするなと言っただろう。解毒剤を飲めば直ぐに治る。それよりも問題は残る一人の魔法導師だ。ディアナを攫ったのは三人で、残る一人が何処にいるか判らない。カイト、ローヴから何か聞いていないか? 少し前に指輪で話をしようとしたら声が届かず、難儀したぞ」
「声が届かなかったのは、この里のあちらこちらに結界の魔方陣が布いてあるからでしょう。殿下を追い掛けて来た際に、それらは解除してあります。そういえば近くの森には多種多様の薬草が植えられておりますねぇ」
カイトの説明に、ギルバードは「ああ、それでか」と納得した。
「この周囲一帯はあの莫迦王女が、薬草園にする予定地だそうだ。魔法導師がいろいろ研究実験するために、この領地の住人を無理やり立ち退かせたらしいぞ。刈取りもせずに放置された小麦が勿体無い」
床上に落ちていた紙をカイトに渡すと、レオンが一緒になって目を通す。カイトは眉を寄せて口を引き結ぶが、レオンは顎に手を掛けて何度も頷く。
「民のための小麦より、殿下の役に立ちたいがために開拓した薬草園ですか。それも全て、恋しい愛しいギルバード殿下との婚姻を夢見てのこと。自国の民より他国の王子を優先するなど、殿下も難儀な方に惚れられましたねぇ。ここまで殿下のために奔走し、ディアナ嬢を攫うほど恋焦がれておられる」
楽しげに頷き続けるレオンを苛立ちも露わに睨みつけるが、全く気にする様子がない。
そのレオンは何かに気付いたように、ギルバードに振り向くと今度は眉を寄せて怒り出した。
「それより殿下、ひどいじゃありませんかっ! どうして建物を破壊する前に私たちに声を掛けてくれなかったのですか? また見損ないましたよ。置いてけぼりにした上、やっと追い付いたと思ったら我らのことを忘れてディアナ嬢に襲い掛かっているなんて、いつも御自身が口にされている騎士道精神はどこに捨てて来られたのですか?」
「ちょっと待て、襲い掛かってないからな! ちょっと抱き締めていただけだ。それに、カイトに連絡しようとした時に項に痛みが奔って・・・」
「殿下が魔法を使うのはディアナ嬢に関してだけだよね。レオンは侍従長として一番長く傍にいるのに、一度も見たことないんだろう? カイトはある?」
「そういえば私も御座いませんねぇ。飛んだり跳ねたりくらいは見たことがありますが」
面白くないと不貞腐れた顔をするレオンの他はのんびりとした口調で笑っているが、近くで彼らの話しを聞いていたディアナが顔を曇らせるから、ギルバードは焦ってしまう。
「いつも・・・・わ、私のせいで殿下が魔法を・・・・」
「いやっ、ディアナ。そうじゃない! 攫われたディアナを助けるために使っただけで、ディアナが悪い訳じゃない。元々は俺がいつまでも煮え切らない態度でいたからで、今度こそ、王城に戻ったらディアナの立場を明確にして警護を就けるから!」
「殿下ぁ・・・、それって俺らを解雇するってことぉ?」
今度はエディが落ち込んだ顔を項垂れるから、ギルバードは喚き出しそうになった。どう言えばいいんだと髪を掻き毟りたいが、ディアナを抱いているから手が離せない。もちろん離す気はないが、目の前で項垂れる二人と胡乱な視線を向けて来る侍従長に挟まれ、地団太を踏むしかない。
そこへ聞き慣れた噎せ込みが聞こえ、場にいた者たちは目を瞠って振り返った。
「お、遅くなりました。・・・ぶふっ、ぐ・・・、本当、ここ最近は殿下の側にいると笑い死にしそうで困ります。そんな死に方など、私の予定にはないのですがねぇ」
「ローヴ! おまえ、何処から?」
いつの間に現れたのか、柔和な笑みを浮かべた魔法導師長は土産付きで立っていた。ぐったりした様子の男を小脇に抱え、ディアナに視線を向けると痛ましげな顔になる。
「ディアナ嬢、お迎えが遅くなり申し訳御座いません。その髪は私が責任をもって、元の長さにお戻しします。それと、こちらの男に見覚えはありませんか?」
床に転がした男を指差しながら、ローヴが問い掛けて来た。何があったのか、虚ろな目をした男は疲労困憊といった態だ。ディアナが頷くとローヴが杖を振り、男は掛布に包まれている仲間の許へと転がった。掛布が転がって来た男を包み込み、三人は束となる。
「バールベイジ国王都の郊外で不審な魔法導師を見つけ、探っておりました。懐にエルドイドには無い薬草を忍ばせており、数件の邸に足を運んでおりましたので裏を調べるのに時間が掛かってしまいました。殿下から御声がかかった時に報告しようと思ったのですが、結界に阻まれた上、場所が特定出来ずに困りましたよ」
結界が解除されたので無事に来ることが出来たと笑うローヴを見ていると脱力しそうになる。